首がもげた女

南口昌平

1.首がもげた

 清水美奈が部屋で発泡酒を飲んでいると、首がもげた。

 突然視界がぐらっと揺れたかと思うと、後頭部に柔らかい衝撃があった。

 目の前の景色が激しく乱れ、蛍光灯の光が白い線を引く。

 やがて視界が落ち着いた。すると、目の前にかかる髪の毛の隙間から、首から上のないスレンダーな女が発泡酒を片手にぼぉっと突っ立っているのが見えた。

 美奈は尻餅をついた。視界はそのままで、目の前の首なし女の姿が消えた。臀部に鈍痛が走る。

 とっさに立ち上がり、痛む尻を手でさする。視界は変わらない。ただ、お尻をさする首なし女が視界に再登場する。

 そこでようやく、美奈は自分の首がもげたことに気がついた。

 初めての経験だった。

 いろいろな「初めて」をクールにこなしてきた美奈でも、さすがに今回ばかりはブルっと来た。

 首に痛みはない。

 体は美奈の意思通りに動いた。

 テレビゲームの要領で体をこちらに近づけて、頭を持ち上げた。まじまじ見ようと胸の前に掲げるが頭は見えず、ただ、首のない女の胸像が見えるだけだ。

 自分がどこにいるのかわからなくなって、吐き気を覚えた。

 頭を元あった場所にのせてみる。ぴったりハマってしっくりきた。

 そのまま歩いてみた。一歩踏み出した拍子にぐらっと揺れて、二歩目を踏んだときにごろんと後ろに転がった。咄嗟に手で押さえる。

 これはまずいと思った。

 頭をもう一度、肩の上に置き、切れ目に沿ってテーピングでぐるぐる巻きにする。かなり骨の折れる作業だったが、こうすれば、多少上半身を傾けても落ちる心配はない。

 美奈はいったん落ち着き、どうして今回のようなことが起こったのか、原因を探った。

 いつも通りに仕事を終えて、いつものメンバーと酒を飲んで、いつも通りの電車で帰宅し、飲み足らずに冷蔵庫の発泡酒を飲んだ。なにもかもいつも通りで変わったことなどひとつもない。

 これは素人の手には負えないと、近所の整形外科で診てもらうことにした。

 テーピングはタートルネックで隠した。十一月に入り気温が下がりつつある。念のためマフラーも巻くことにした。

 ネットで近所に武田整形外科という病院があることを知り、急ぎ足でそこへ向かった。

 診療時間は過ぎていた。夜中の十一時過ぎに叩き起こされて苛立っていたのか、院長の武田がぶつくさ言いながら診療所を開けた。

 診察室の椅子に腰掛け、美奈は必死に今夜起こった不思議なできごとについて説明した。武田はふてくされた子豚のように口を尖らせているだけで、美奈の話を信じていないようだった。

 美奈は我慢できなくなり、マフラーをとって、タートルネックを下に引っ張った。テーピングを勢いよく剥ぎ取ると、途端に首がぐらりと前方に傾き、カメラを落としたビデオ映像のように視界が揺れて、次の瞬間、顔面に強い衝撃が走った。

 頭が腿の上に落ちたのだった。

 武田がぎゃあぎゃあわめき散らした。

 武田は頭を手に取って上に掲げ、正面から見据えたり、首の切れ目を覗き込んだりした。その度に視界がグルグル回り、美奈は気持ちが悪くなった。

 それから頭を机に置いて、今度は体を観察し始めた。パジャマ姿の年配の看護師も降りて来て、二人で切断面を入念にチェックし、デジカメで撮影して、触診したりレントゲン撮影をしたりした。

 ひと通りの検査を終えて、診断結果が出たようだった。

 武田が言った。

「完全に、首がもげてるね」

 そんなことはわかりきっていたので美奈はがっかりした。

「とてもキレイにね」

 看護師が頭を肩の上に固定しながら言う。

「よくあることなんですか?」

「よくあるかって? 冗談じゃないよ。あってたまるか」

 武田がレントゲン写真を見ながら吐き捨てる。

「原因はわかりますか?」

「原因? 君は事の重大さがわかっていないね。原因なんてこの際どうでもいいんだよ。起こってしまったからには、この現実とどう向き合うかだ」

「これはかなり特殊なことなのよ、清水さん。かなり特殊な切れ方をしていてね」

 看護師がテーピングを巻きながら言う。かなり手際がいい。

「つまり、どういうことなんですか?」

 美奈は武田に訊ねた。武田は顔面をちり紙のように歪めて口を開いた。

「あのね、わかりやすく言うとね、君の首はね、切れているようだけれど、切れていないのと同じなんだ。切断面も皮膚で覆われているし。まるでイボが取れたみたいだ」

「あの……意味がわからないんですが……」

「つまりね……いや、素人に言っても仕方がない。わかるわけないんだ! 俺だってわからないのに! まぁ、早い話が、君は死なないってこと。そうやって、頭を元あった場所にあてがっておけば、人並みの生活は送れるの。まぁ、その点はよかったね、その点はね、ちくしょう!」

 武田が不機嫌になった。

「でも、そんなことってあり得るでしょうか?」

「事実あり得ているんだから仕方がない! わけがわからないよ!」

 患者に対してこの態度はなんだろうと、美奈は不愉快になったので、さっさと帰ることにした。

 武田はもう少しみせてくれと言ったが、これ以上体をいじくり回されるのは嫌だった。死にはしないと言っているのだから、もう少し時間をかけていい医者を探そうと思った。


 美奈は帰宅して、煙草を口にくわえた。火をつけて思い切り息を吸い込む。

 いくら吸っても吸った気がしなかった。煙が肺まで届かない。首の根元、ちょうどテーピングを巻いているあたりから、もやもやと煙が漏れ出てしまっている。

 美奈は胸元へ視線を落とそうとしたが、首が動かなかった。無理に下を向こうとすると、視線どころか頭が落っこちる。

 発泡酒を開けて飲んでみた。しかし、顔を上に向けることができない。腰のあたりから体を反らせて、左手で頭が落っこちないよう押さえながらゴクゴク、ジワ、地下水が湧くようにテーピングが濡れ始めた。

 喫煙も飲酒もできない!

 美奈はそのとき初めて、事の重大さに気がついた。

 喫煙、飲酒に限ったことではない。飲食も、いや、単純にうつむくことも見上げることも、首を左右に振ることもできない。ちょっと右側を確認しようにも腰から上をひねって、上半身全体で右を向かなくてはいけない。横断歩道を渡るたびに、腰のストレッチをすることになる。

 美奈はベッドに腰をかけた。

 うつむこうと思っても、頭の重さでテーピングが剥がれてしまうのが怖い。

 背筋を伸ばしてまっすぐ前を見据えた。

 姿勢よく座っていると、自分が悩んでいるという意識が薄れてくる。

 そのうちに、自分の置かれている状況が、自分で思うほど深刻ではないのではないかと思い始めた。別の外科医を探そうと手にしていたスマホのスイッチを切って、ゆっくり、ベッドの上に寝転がる。

 そのまますやすやと、眠ってしまった。

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