第12話
寝汗の不快さで目が覚めた。
天井の白熱灯の光が寝起きの目に染みる。昨夜は電気を消し忘れたまま眠ってしまったようだった。横になったまま、テーブルの上のアルコールの空き缶の山を見た。
懐かしい記憶だった。
あの日のロペの姿を久々に夢に見た。
ブランコに乗ったからだろうか、記憶が刺激されたのかもしれない。
あの時。
私に生きろと叫んだロペ。精神的に苦しむ私を雑に励ましたロペ。
時間はかかったが、あのあとなんとか社会復帰できたのは、間違いなくロペのおかげだった。
「『私のために生きて』か…」
ロペとの約束通り、私はロペのために生きてみた。息苦しい、つまらない世界の中をロペのことだけを頼りとして、必死で泳いでみせた。その指標が失われて、溺れているのが今だ。
「あんたが死んでちゃ世話ないよ、ロペ。ずるいよ、ほんと」
寝転んだまま呟いた言葉は枕に染み込んだ。会社に行くのが億劫になって、ベッドから体を起こすのをやめた。漫然と過ぎていく時間を、卓上の目覚まし時計を見つめて数えた。
休みを取ろうと連絡しようとも思うが、いつの間にか時間が経過している。内容が入ってこないままにニュースの画面を眺めた。私の殺人は定期的に繰り返されているが、それすらも私の表面を撫でるだけで、私の感情を動かすことはなかった。
空腹感を覚えるが、必要に差し迫るほどのものでもない。吐き気に似た不快感が同時にあり、それが相殺させていた。
この気分の悪さが殺人の寝覚の悪さからではないということは既に理解していた。
私は今、自分の世界そのものの綻びに苦しんでいる。
自分の信条が揺れ動くことに、気分の悪さを感じている。
ロペのための殺人が、結局のところ、自分のための殺人だとそう思い至ったことへの、世界の規範の揺れに対する不愉快さに苛まれている。
間違えている。
自分が間違えている。
その事実を護るロペというベールが消えた。覆い隠された悍しい感情、行動が、私の思考を止めている現状に苛立っている。
こんなものなのか。
私のロペに対する気持ちは。
こんなことで揺れ動くものだったのか。
私は、間違えている程度で歩みを止めてしまうのか。
煉獄への道を、破滅への一本道を、血塗れの鈍器だけを持って歩む巡礼の道を止めてしまうのか。
気分が悪い。
嫌だ。
そんなことだけは、絶対にしたくない。
間違えているとわかっていても、なお、歩む。
この道は引き返せない。
引き返せないようにできている。
ぬかるんだ道。
腐った汚泥の道。
脚を取られ、バランスを崩す道。
その道を歩く幽鬼として、私は生きている。そのためだけに生きているのに。
ロペのことを、ロペのことだけを考えていたのに。
その唯一の規範が、崩れかけている。
インターホンが鳴った。ご機嫌な音楽が不快だった。無視をしたが、続けて鳴らされた。
面倒だったが、立ち上がり、洗面所に向かった。顔を洗った後にインターホンのディスプレイを覗く。スーツ姿の男が立っていた。
ディスプレイから勢いよく離れた。逃げ場を探そうと周囲を見渡した。
「警察です」
自明のことだった。
証拠を残そうと思った訳ではないが、消そうとも思わなかった。日本の警察は優秀だ。いずれ、私にたどり着くことなど分かっていた。
それでも、まさか本当に私のもとにやってくるとは。
美里のこともあり、私の方でも一応の対策も考えてはいた。どこから逃げるか。どうやって逃げるか。どこに逃げるか。そんな事前準備も頭の中で真っ白になった。
「はは。マジでヤバい時、本当に動けないんだな」
強がる言葉しか出てこなかった。なおもディスプレイからは私の名前を呼ぶ声が流れる。玄関は完全に塞がれているらしい。
思いついて、ベランダに飛び出てみる。
階下には誰もいない。往年の刑事ドラマだと、容疑者が逃げ出さないように窓を張り込むのは常識だが、そんな時代遅れの逃走方法が効果的らしい。
急いで玄関に向かい靴を履いた。扉一枚挟んだ先で、人間の気配がする。扉を叩く音もする。
とりあえず、財布と携帯だけを持ってベランダから身を乗り出す。高々、2階程度の高さだが、飛び降りようと思うと足が竦む。幸い、下は庭になっていて、地面は土だ。アスファルトよりはマシだ。
出来る限り落ちる高さを減らすためにベランダの柵を持ち、宙吊りになる。手を離すと、ほんの一瞬の後に足に鈍い衝撃が走る。
「ッ!!」
足の衝撃と同時に目から熱い水滴が溢れ出す。どういうメカニズムしてんだ人間の身体はボケ。何度もよろけながら前進する。壁に手をつき、身体を起こす。
どこに逃げればいいのか。
当てもないままに、駆け出した。
自宅の方で騒ぎが大きくなった。流石にドアを打ち破って踏み込んではいないだろうが、大家に合鍵を持って来させたのかもしれない。早急に立ち去らなくてはならない。出来る限り大通りに出ないように人目を避けて裏路地を選んで逃げた。
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