第10話

コンビニの白い常夜灯の周囲に沢山の蛾が集って、干からびたカメムシの死骸が無機質な床に落ちていた。都心にもこんなに虫がいるんだなと思って、カメムシの死骸を踏んだ。

頭がアルコールでふわふわと軽い。視界が浅くぼやける。ロペと居酒屋で食事と飲酒をして、その帰り道だった。

私の記憶よりも幾分か狭くなった雑誌コーナーの前にロペは立っていて、週刊の漫画雑誌を読んでいた。ここのコンビニは立ち読み防止のゴム紐を雑誌にかけておらず、ロペは決まって立ち読みをする。

「買えばいいのに」

「だって、呪術しか読まないし。部屋に溢れちゃうじゃん」

ロペは物を捨てられない性格だ。部屋には沢山の雑貨や本が散乱しており、その惨状はちょっと目を当てられないものだ。

「今は電子書籍とか色々あるんだよ」

「私、漫画は紙派なのだー」

戯けたように変な口調だ。ロペは時々、こんな非実在キャラクターみたいな話し方をする。

「ま、いいや。読み終わったら出てきてね」

「はーい」

ロペをその場に残して私はコンビニを出た。駐車場がなく、道路にそのまま面したコンビニの前を会社帰りのサラリーマン達が無感情に歩く。一様に暗く、疲労感が見える。道路を走る車がけたたましく排気音を垂れ流す。人の暮らす音が不愉快なほどに多い。どうにもこの猥雑さが好きになれない。

コンビニで買った安い発泡酒を開けて、ちびちびと飲む。アルコールの雑味が強く残るその飲料は、不思議なほどにこの街に馴染む。地元で飲んだ時にはあまりの飲み味の違いに驚いたものだ。

流されるようにして、しがみつくものも少ないこの街では、結局、酔っぱらったフリをして歩くのが一番良い。

星の一つも見えない濁った夜空を見上げて、ため息をついてみる。柑橘系の混ざったアルコールの匂いが広がる。

「しょうもねーな、なんか」

その時期、私は休職中だった。

特に大きな理由もないが、会社へと向かう足が動かなくなってしまった。何度も家を出ようとするが、上手くいかない。なんとか家を出ても、駅までの道中で身体が勝手に家へと戻ってしまう。

自分の力ではどうしようもならない事象だった。自分のことではないように感じられた。俯瞰した意識が、何度ももがく自身の姿を感情なく観察しているような気分だった。

その仕事に就いて3年目のことだった。まさか、自分がこんなことになるとは思ってもなかったが、会社に連絡すると呆気なく休職の手続きが進んだ。

繁忙期ではないし、落ち着いてゆっくりしなさい。

いつも無表情の上司は驚くほど柔らかな声でそう言った。

言われるがままに休職期間が始まり、うんざりするほど無為な生活が流れた。

不規則な時間に寝て、不規則な時間に起きる。食事は摂ったり摂らなかったりした。

ゲームをする以外はずっと寝て過ごした。友達は平日仕事で、誰とも話すこともなく、上り続ける太陽を呪った。

「たそがれてんじゃーん」

ロペが缶チューハイのプルタブを開けながらコンビニから出てきた。ニヤついている。私のやれやれ系の呟きとその素振りを見て、余程弄りたいと見える。

「うるさいな。呪術はどうだったの」

「ははは、推しが死んだ。きつい」

「は?マジで?嘘でしょ?死んだの?」

私とロペの共通の推しのキャラクターの死を聞かされて、私は狼狽する。

「あれだったら、藍ちゃんも読んできなよ。待ってるよ」

「いや、うん、いや、やめとく。単行本待つ」

「出たよ単行本派。ネタバレ踏んでも知らないよ」

「あんたから、かまされたよ。ついさっき」

「いつどこからかまされるかわからないもの、それがネタバレ」

ロペの機嫌は最高だ。ロペは酒が入ると極端にテンションが上がる。振り切れた感情がジェットコースターのように上下左右に揺れる。

「飲み足りないから〜飲み足りないから〜。飲み足りないから言ってんの〜?」

脈絡のないコールが突如はじまり、缶チューハイを押し付けてくる。半笑いで押しのけるが、諦めきれないように千鳥足で私にしがみついてくる。

「藍ちゃん家行く!藍ちゃん家でまだ飲む!」

もはや幼児だ。駄々をこね、缶チューハイを押し付けてくる狂った幼児になってしまった。それでもまだ、焦点の定まらない目は綺麗だ。

「このままあんた帰したほうが心配だし、それはいいけど」

「いえーい!桃鉄やろ!桃鉄!」

前回、遊んだ時にやった桃鉄がお気に入りなようで、BGMを口ずさみ始めた。酔っ払ったままやるから、1ゲームやり切ったことがない。ロペはコントローラーを握ったまま、撃沈する。

「あ、あのタクシー空いてるじゃん」

泥酔したロペを連れて電車に乗るのはしんどいので、空車表示のタクシーに向かう。

なおも、「俺の酒が飲めねーのか」状態のロペは無視して、タクシーの後部座席に詰め込む。「あー」とか叫んでるけど、これも無視する。

自宅の近所のコンビニを運転手に伝えると運転手は「よく飲んだね」と苦笑いだった。夕方のニュースとかで流れるタクシーの厄介客みたいに見られてる。「すみません」と顔を伏せながら謝る。ロペはなおも桃鉄のBGMを口ずさんでいた。

ロペの調子外れの桃鉄曲にのせて、信号の多い都内の道路を何度も停止しながら、タクシーは進んでいった。

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