第9話
どんな時でも腹は減る。
失意の中でも、希望の中でも、怒りの渦中においても、私の身体は生きるために最適な手段を取ろうとする。
週末を迎えて、眠り続けたベッドから起き、冷蔵庫を確認する。萎びた大根と少量のキムチだけが悲しそうにこちらを覗いていた。
使い古されたサンダルを履いて、寝巻きのままスーパーへと向かう。歩きながら、ロペに誹謗中傷を送ったアカウントのリストをスマホで確認する。
何日、何ヶ月、何年かかっても、こいつらを全員殺してやると憎しみの炎が燻った。
スーパーの調子の外れたBGMの中、やけに白く明るい照明の下を歩く。何も考えずに食材をカートに詰めていく。
レジの列に並んで、前の客の首筋を見た。この客は私が既に何人も殺していることに気付いていない。気付いた時、こんなにも無警戒に私に背後を取らせていることをどう思うのだろうか。
なんだか悲しくなってきた。
同時に強い虚しさに襲われた。
ロペが私に相談してくれなかったこと。
ロペが私に相談してさえくれていれば、ロペは死ぬことはなかったはずだ。
そんな都合のいい仮定が私を苛める。
けれど、実際は、私はロペに信頼されてなくて、本音を聞くことも、頼りにもされず、ただ彼女の死を悔やむだけだ。
私がロペのためを思って犯す殺人はすべて、何にもできなかった自分を慰めるためのものだ。
色のない世界に生きている。自分だけが異物のような感覚に襲われる。生きることが苦しい。呼吸すらもままならない。
ロペが死んでから、私はずっと息ができない。
ロペは私にとっての酸素だったから。
くだらない世界に立って、生活を送るためにはロペがいなければ駄目なのだ。
ロペ、私は世界で一番、貴女に幸せであって欲しいと願う。貴女が死んで、死んだということすら認められないけれど、私は願う。
祈る。
薄汚い世界の中で、目を覆いたくなるほどに醜悪な私の、たったひとつの純粋な願いなのだ。
買い物の帰り道、亡霊のように虚ろに歩いていると、ロペと何度か寄った公園に引き寄せられた。滑り台とブランコだけがある小さな小さな公園だ。
夜なのでもちろん誰もいない。
闇の中で揺れ続けるブランコに飛び乗った。立ち漕ぎで硬く冷たい鎖を握りしめて、膝に体重を加えて振り子運動を始めた。
夜の空気を私のブランコが何度も何度も切った。住宅街からの暖かい灯りが、薄く滲んで見える。
ロペが死んでから、私の中で蓋をしていた感情が溢れ返る。
なんでだろう。
なんで、私に相談してくれなかったんだろう。
ロペが誰かと付き合ってるってことも、追い詰められるくらいに辛い現実にいることも、私はニュースサイトの後追いでしかない。
私はロペの友達なのに。
ファンである前に、私はロペの友達だった筈なのに。
一緒にご飯にも行った。一緒に買い物にも行った。ロペの狭くて安いワンルームのマンションにも行った。apexもやってた。
それなのに、ロペは私に辛いことを何ひとつ相談してくれなかった。
「藍ちゃん、あのね」
ロペからの電話。始まりはいつもそれからだった。
藍ちゃん、あのね。
ご飯行こう?
新曲出るよ。
メンバーがムカつく。
嫌なファンいた。
あそぼう。
今度、いつ会える?
何度も何度も電話した。何度も何度も、彼女と遊んだ。
何度も、何度も。何度も、何度も。
でも、一番辛いタイミングで、助けを求めてはくれなかった。
私はロペのためなら殺人だって厭わないのに。
私の気持ちはロペには届いていなかった。いや、届いていたのかもしれない。届いていて、なお、不足かと思われたのかもしれない。
考えたくはないが、私の気持ちが迷惑で、友達と思っていたのは此方だけだったのかもしれない。
私はロペのこと、全部わかっていたつもりだけども、結局のところ、私は彼女のことを少しもわかっていなかった。
ブランコの鎖は冷たく、手のひらの皮膚が針で刺されるように痛んで、麻痺した。溜息は冬の空気で白く色づき、薄く空に浮かんだ。
魂のようだ。
私の魂が、今、空に消えていっている。
ロペを思って吐く息が私の魂なのだとしたら、後に残る汚い感情は一体、なんなんだろうか。
ブランコから飛び降りる。
鎖の軋む音が不快に大きく響いた。
その音が、私自身の身体から聞こえた気がした。
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