第8話

駅前の喫茶店でキャスケット帽を目深に被りながら、ロペはアイスココアを飲んでいた。私の姿を窺いながら、ストローの先を甘噛みしつつ、薄灰色に濁るココアを吸っていた。

CMみたいにコップの氷が、からんと鳴った。

「本当に信じられない。村山さんが、ライブにいるなんて、ってか、その、私のファンになってくれたとか…。え、うん、ドッキリとかだったりする?」

ロペは辺りをキョロキョロと見回す。カメラでも探しているのだろうか。

「違うよ、現実」

私はホットコーヒーを口にする。白い陶製のマグが、中身に熱されて、発熱した人肌程度にぬるい。

「偶然、CD屋でライブイベント見たんだ。雰囲気変わってたけど、なんとなく高崎さんってわかって、目で追ってるうちに」

「驚いた。誰にもアイドルになったこと言ってないのに。あー、まあ、元々話す友達もいなかったんだけど」

握手会の後、私に気づいたロペは別れ際に耳元でこの喫茶店の名前を挙げた。それから泣きそうな顔で「待ってて」と付け加えた。

喜びに満たされながらも、私は平静を装い会場を後にした。ロペに提示された喫茶店に入り、アイスコーヒーを注文し、ロペのTwitterを遡ったり、本を読んだりして時間を潰した。1時間程した後、ロペの姿が見えた。店の入り口でキョロキョロと辺りを見渡し、その視線が私と交わった時、小さく微笑んだ。

「ごめん、お待たせ」

私の前にロペが座って、店員にアイスココアを注文した。空調の音が大きくなった気がした。季節は夏で、外気温はこの夏一番の暑さを記録していた。

アイスココアを待つ間、ロペはちらちらとこちらの様子を伺っていた。小動物みたいで可愛らしかった。

「村山さん、背、伸びた?」

「え?あ、どうだろ。高校の頃よりは多少伸びたかもしんない」

「だよねー。なんかそんな感じした」

「いやあ、実感ないよそんなの」

「追いつけないや。私、ずっと見上げてる」

掌を自分の頭のてっぺんに置いて、私と比較する。

「羨むもんかな身長って」

「いや、ほんと大事。身長あるとダンスも印象変わるし、ほら、モデルとかも出来るじゃん」

ロペは朗らかに笑う。現状で満足しない彼女の意識の高さを感じた。

「まだまだ全然だからねー。なんとかギリギリ、アイドルやれてるけど、お遊戯会みたいなレベルだし。バイトも続けてるし」

ロペはそう自嘲する。確かにロペ達のグループの知名度は高くない。Twitterのアカウントもフォロワーは1000人程度だ。星の数ほどいるアイドルという存在の中で、彼女達の光はほんの微々たるものだろう。

「なんのバイトしてるの?」

「豚カツ屋さん。千駄木にあるんだよ」

「へー。なんか意外だね。ロペの雰囲気的に」

淡いフリルのついたロペの袖が揺れた。こんな柔らかな女の子が豚カツ屋にいるのが想像できない。

「豚カツ好きなんだもん」

恥ずかしそうにロペは言った。好きな食べ物を扱う店でバイトしてるのなんて子供っぽいとても言いたげだ。そんなことないのに。

「村山さん、また食べにおいでよ。美味しいんだから本当に」

「うん。また今度ね」

私はコーヒーを啜る。店内の空調でぬるくなっていた。

「でも、いいの?私なんかとお茶とかして。あんた、アイドルでしょ?特定のファンと仲良くしてたら、ほら、他のファンに嫌われない?」

私はその懸念を直接告げた。実際、先ほどから居心地が悪い。ロペのことを知っている人間がたとえ、多くはないとしても、ライブ会場の近くで仮にもアイドルがファンと一緒にいるところを、他のファンに目撃されれば、あまり心証はよろしくないはずだ。周囲を窺うように私は小声になる。

「え、違うよ。村山さんは友達。ファンとアイドルって言うか、友達でしょ」

ロペはあっけらかんとして、そう言った。

友達という言葉が私の胸に残った。

「駄目、かな?友達とか」

私の沈黙に傷ついたのか、ロペがこちらの顔色を窺っている。目が潤み、頬が紅潮している。

いいのだろうか。

私とロペは確かにクラスメイトだったが、当時は遊んだことも、それこそ会話すらあの時の一度きりだった筈だ。

それなのに、私とロペはアイドルとファンなんて不確かな関係で再び出会った。

私の知っている友達って関係とは、まるっきり違うもののように思える。それでも、ロペは私と友達になりたいと言う。

「ううん、駄目じゃない。友達だよ、私達」

だから、私の言葉は本心というよりも、泣きそうな顔のロペを宥めるための、そういったものだったはずだ。

「本当?いいの?」

私の言葉でロペは飛び上がらんばかりに喜んだ。罪悪感に似た何かが喉の奥に迫り上がってきた。ロペは興奮冷めやらぬままに、連絡先を求めてきた。

社交辞令とかそういった打算的なものではなく、本当に私と友達になりたいようだった。スマホの画面にQRコードを表示されて、ロペのスマホに読み込ませた。

「あ、ワンちゃんだ」

私のLINEのアイコンを見てロペがはしゃいだ。一昨年死んだ実家のビーグル犬だった。アイコンになるような写真がこれといってなく、趣味と呼べるようなものもなく、それに死んだ彼のことを愛していたから、ずっとこのままだった。

その後、死んだ彼のことや、仕事のことなど、矢継ぎ早に質問され、いつの間にか、1時間以上の時間が経っていた。ロペと話せたことで浮かれていたのか、時計を確認していなかった。

「そろそろ出ようか?」

「あ、そうだね」

若干の名残惜しさを感じさせながらも、ロペは荷物を持って立ち上がる。ロペに続いて入り口へと向かった。

「私、払うよ」

会計時、当たり前のように支払いをしようとした私の腕をロペは止めた。既に財布を取り出していた。

「え、いや、大丈夫よ」

大した額じゃないし。推しに払わせるとかファンとしてあり得なくない?

「ううん。払う」

「いいから」

お互いに譲ることなく財布を振り回した。何度かの後、諦めたようにロペは財布を下ろした。

「じゃあ、割り勘」

ロペは硬貨を数枚、トレイに置いた。私もそれにならって硬貨を置いた。

「ふふ。やっと友達っぽくなった」

悪戯っぽくロペは笑った。それでも納得いかない態度の私に続ける。

「あれ?友達って、こう割り勘とかするんじゃないの?マクドナルドとかファミレスで」

ロペは不安そうにこちらの反応を伺う。その表情に思わず笑いが込み上げる。

「高校生じゃないんだから」

「えー。そうなの?こんな感じだと思ってたんだけど、違うの?わかんないよ、私、友達いないんだから」

口を尖らせてロペは呻く。恥ずかしそうに顔を背ける。甘えた、拗ねた態度が言いようもなく愛おしい。

店員からお釣りを受け取ったロペと並んで店を出た。他に用事もないので駅まで歩いた。あまり利用しない駅だったため、何度か通りを間違えたが、無事にたどり着いた。

「じゃあ、私こっちだから」

利用している路線の方へ足を向けると、喧騒の中、ロペが私を呼び止めた。

「村山さん」

目を伏せながらこちらを窺っている。よく見ると肩が震えている。

「名前で呼んでもいい?」

「え?」

「と、友達なら、名前で呼ぶよね」

ロペの顔は見てわかるくらいに赤く染まった。喧騒の中、ロペの声はやけに大きく聞こえた。

「いや、まあ、全然いいけど、名前なんか覚えてるの?」

「藍ちゃん」

私の質問にロペは即答した。ロペが私の名前を覚えていることに驚いた。迷いもなくすぐに飛び出たことがさらに私を驚かせた。それと同時に言い得ない喜びが私を満たした。

私の名前なんか知らないと思っていた。

絡みなんて全くなかったから、私のことなんか微塵も興味を持っていなかったとばかり思っていた。

「放課後、私に声かけてくれた時から、私、村山さんと友達になりたかった」

私たちの関係なんてとても希薄なものだ。ただのクラスメイト。それが、アイドルとファンなんて歪な関係になって、何年も後にこうやって出会うことがどれほど奇跡的なことか。

「何度か声かけようと思ったんだよ。本当だよ。でも、村山さん、友達いっぱいだし、私なんかが急に声かけたら迷惑かなって。で、結局、3年に上がってクラス替わっちゃって」

ロペの口から言葉が溢れ出る。水の流れのように溢れ続ける。

「変だよね、私。友達一人作れない勇気のない奴が、人前で踊ったり歌ったりのアイドルだよ」

次第に周囲の喧騒が薄れていく。ロペの言葉がだんだん大きくなっているように感じる。

「でも、勇気を持てた今なら、アイドルになれた今なら、あの時言えなかったことも言えるんだ。だからね、藍ちゃんって呼んでもいい?」

ロペの言葉に私は頷く。

ロペは頑張ったのだ。目立たない存在だった自分をここまで変えてまで頑張ったのだ。その指標になれるなら、こんな嬉しいことはない。

「友達だからね。誰がなんと言おうと私たちは友達」

ロペが嬉しそうに小指を差し出す。細く小さな折れてしまいそうな小指。私もロペにならって小指を差し出し、ロペの小指に絡める。

「指切りげんまん」

ロペは悪戯っぽく微笑んで、数度、指を上下させる。おまじないが終わると、周囲の喧騒がまた再び響き始めた。

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