第7話

最初は私から声をかけた。

その時、ロペはまだロペという名前を持ってなくて、高崎美月という名前のただの女子高生だった。

高崎美月は放課後の教室で一人で机に向かっていた。誰もいない教室で、彼女は雑誌をやけに姿勢良く眺めていた。

部活途中に、忘れ物に気付いて教室に戻った私は、その時初めて高崎美月という女に気がついた。気がついたというのは、何もその瞬間、その空間に彼女がいるということに気付いたという意味ではない。クラスメイトとして、高崎美月という女を初めて認識したということだ。

それほどまでに高崎美月は平凡だった。

関わりのなかった存在。高崎美月は教室に入ってきた私に驚いた表情を見せて、それから恥ずかしそうに雑誌を机の引き出しにしまった。ちらりと見えたその雑誌は男性向けのアイドル誌のようだった。肌色の割合の多い女が表紙だった。

「ごめん、邪魔したね」

私は軽く高崎美月に声をかけ、それから自分の席から忘れ物の現国の課題を取り出した。

「ううん、別に。大丈夫」

高崎美月は私と目を合わせようとはせずに、教室の奥、時計の方を見てそう言った。風が吹いて、彼女の長い髪が舞い上がった。切れ長の目の下にホクロが見えた。それが、黒い星のようで綺麗だった。

高崎美月はそれ以上、私と話そうとはせず押し黙っていた。目線は机に落とし、居心地の悪そうに身動ぎせず座っていた。

「アイドル好きなの?」

単純に好奇で尋ねた言葉だったが、高崎美月は必要以上に動揺していた。肩がびくっと跳ね上がり、おずおずと私を見つめていた。そんな反応が返ってくるとは思ってもなくて、私の方も少し狼狽した。

「や、ごめん。単に興味で」

私は言い訳をして、その場から立ち去ろうとした。高崎美月は小さく「うん」と頷いて、「可愛い人、好きだから」と消え入りそうに呟いた。

「そっか」

私は逃げるようにして教室を出ようとした。

「村山さん、バレー、頑張ってね」

高崎美月はそう言って、再び、机から雑誌を取り出した。風がカーテンを揺らした。部活動の声が大きく響いた。

廊下を歩きながら、私は高崎美月のことを思い返した。目立たない存在。外見は可愛らしいが人見知りが激しく、大人しいので、特に親しい友達はいない。今日まで会話らしい会話なんかしたこともなかった。私は彼女のことを知らない。なのに、彼女は私の部活のことまで知っていた。

部活に戻ると、既に顧問がいて、「時間にルーズなのはダメだ」と怒られた。どの口が言うのかと理不尽に思った。

その後も、進級してクラスが変わるまで私と高崎美月が会話をすることはなかった。私と彼女、お互いに生きる場所が違う。

それでいいと思った。

私は彼女のことをその時から一度だって思い出すこともなかったし、仲良くなろうとも思わなかった。

だから、就職を機に暮らし始めたこの街で彼女の姿を見た瞬間は、本当に驚いた。

会社近くのCD屋で、その日、特別ライブが開催されていた。別段、興味もなく、人混みが煩わしいだけだった。

安っぽいスポットライトに照らされて踊るロペを見て、私は本能的に高崎美月を思い出した。外見はもちろん、立ち振る舞いも全然変わっていたのに、ロペが高崎美月であることが本能的にわかってしまった。

その瞬間まで、彼女のことなど、一切記憶の中になかったのに、ロペを見た瞬間、あの日の教室の光景がフラッシュバックした。

夢を。

夢を叶えたんだ。

オタクの前に立ち、激しく踊り、歌う彼女の姿を見てそう思った。

高崎美月からアイドルになりたいと聞いたわけじゃない。

会話もろくにしたことがない。

あの瞬間、彼女がアイドル雑誌を読んでいた。その事実から推し量っただけのものだが、確信に近い自信があった。

嬉しかった。

彼女がアイドルになっていたこと、私が彼女のことを覚えていたこと、この広い世界で夢を叶えた彼女をもう一度、見られたこと。

湧き上がる名前を知らない感情のままに、彼女のグループを検索した。お手製のパネルに記載されていたグループ名はGoogleで簡単にヒットして、メンバー情報の中にロペの名前があった。本名は当然、記載されていなかったが、彼女がロペだとすぐにわかった。

プロフィールは薄い、簡素な文字列だったが、それでも不思議と煌めいて見えた。

アイドルなんか別段、興味もなかった。

音楽ですら、適当に人気の曲を追う程度の嗜好だった。

それなのに、私は、ロペの姿に完全に魅了されてしまった。

単調なダンスミュージック。スカスカな音圧。お世辞にも上手いとは言えないダンスと歌。それでも、彼女は輝いていた。

そこにいるということ、ただそれだけが美しく世界を彩っていた。

涙が出た。

尊いものを見たと思った。

並々ならぬ努力があったんだろう。

悔しい評価があったんだろう。

だけど、彼女はそんな泥を押し除けて、ひとつの成果を出して、そこにいた。

下手くそな歌を歌い、下手くそなダンスを踊る彼女を前に私は立ち尽くし、称賛を送り続けた。



ロペのことを追いかけ始めたのはそれからのことだった。

ホームページを逐一チェックし、ライブやイベントの日程を確認し、近場のものには全て参加した。

ただ、どうしても、直接彼女と話す機会だけは躊躇ってしまった。

覚えてもらえているだろうか。

そもそも、ロペは高崎美月なのだろうか。

ブラックボックスを開けることが躊躇われていた。それでも、ファン心理には勝てず、遂に私は握手会に参加することにした。

初めての握手会の時、私の心臓は跳ね上がらんばかりに鼓動していた。ロペが、高崎美月が私のことを覚えてくれているのか、いや、そんな表面的な感情ではなかった。私だけが知ってる、ロペという偶像の過去。それを事実として、存在させたかった。

薄暗いライブハウス、汗の臭いの充満した息苦しい空間の中、私は並んでいた。他のオタクと変わらず、ロペと触れ合うことを目的として、列をなしていた。

私の順番がきて、ロペが目の前にいた。

私から話すことなどできなかった。

ただ、彼女の顔をすっと見つめた。

かつての教室での姿も、はっきりとは思い出せない。断片的に、薄く滲んだ水彩画のような記憶の中の彼女の姿。薄暗いライブハウスの中、その輪郭と現実の彼女の顔とが一致していった。

「わあ、女の子だ。嬉しい」

ロペは作り込んだ高い声で言った。

私の掌を強く握りしめ、私の顔を覗き込んで、柔らかな声でそう言った。ロペの体温が私の手の中にある。

営業用の態度だとわかったが、それこそが、彼女の努力の証なのだと思った。ファンであるならどんな人間にだって、天使として振る舞う。アイドルとしての形が、ロペとしての形が、高崎美月の中には形成されていた。

「あ、ごめんね。女の子のファンってすごい珍しいから、いきなり距離詰めちゃった」

「いや、逆に嬉しい…」

私の声は上擦っていた。やはり、彼女は私のことを覚えてはいなかった。残念だったが、それよりも彼女との会話に浮かされていた。

「背、高いね。モデルさんみたいですごい羨ましいよ」

見上げるように、再度、私の顔を見る。目が合う。綺麗なアーモンド型の眼は、薄茶色で吸い込まれそうだった。その目の下には、小さな黒い星が瞬いていた。

「バスケ部?バレー部?」

「あ、えと、バレー部…。高校の時だけだけど」

「あ、やっぱり!バレー部かあ」

ロペはくしゃりと笑顔になった。それから、少し考え込むように黙って、私の顔をもう一度じっと見た。

彼女の笑顔が張りついた。崩れるように、頬が震える。

「む、村山さん…?」

ロペの声は上擦っていた。さっきまでの営業用の天使の声ではなく、等身大の女の子の声だった。

「え、嘘、なんで?え?」

積み木が崩れ落ちたことに動揺する幼児のように、彼女は乱れた。彼女の前に立った後悔など、消えてなくなっていた。私のことを覚えていたこと、やはり、ロペは高崎美月であったこと、それら全てが喜びとして私の身体に降り注いだ。

「ファンになっちゃった」

私はそれだけ告げた。

動揺するロペの目が私に定まる。潤んでいた目が私を焦点に捉える。

「本当?」

消え入りそうな声だった。私にすがるような声だった。

自分の過去を知る人間の来訪に、彼女は怯えたのだろう。当然だと思う。

「本当だよ」

私の言葉の真偽を確かめるように投げかけられた言葉に、私は確かに本心で答えた。

本当だよ、ロペ。

私、あんたのファンになっちゃった。

噛み締めるように私の言葉を反芻して、ロペはぎこちなく笑った。

表情には不安が浮かびながらも、その笑顔は美しかった。慣れてしまったアイドルの笑顔ではなく、等身大の高崎美月の笑顔だった。私たちの背後で、スタッフの「お時間です」という声が遠く聞こえた。

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