第5話

人を殺した次の日の朝は思いの外、目覚めが良かった。今日も天気が悪かった。関東は1日を通して雨が降り続けるそうだ。今日も人を殺そうと思った。

雨の日なら、人を殺しても罪悪感がないと、何故かそう思った。

罪悪感?

ふと、疑問に思う。

私は罪悪感を覚えているのだろうか。

自分にとって間違いではないと選択した殺人に、疑問を覚えているのか。

自分が立っている場所が酷く不安定に思えた。エアコンのリモコンが大きくなったり、小さくなったり、錯視のように見えた。目覚まし時計の秒針がやけに大きく響いた。

私は逃げるように部屋を出た。

スーツはアイロンをかけ忘れ、しわくちゃのまま。化粧だって出来ていない。それでも、私は常に移動しなければならないとそう思った。

動きを止めると死ぬマグロのように、街を回遊しなければならないと思った。

コンビニでシャケおにぎりを買って駅までの道中で食べた。梱包されていたフィルムはゴミ袋にまとめ、鞄の中に押し込んだ。

電車の中は酷く混み合っていた。軋むレールと動き続ける車窓の風景が気持ち悪かった。駅について、車両から放出される人波に乗って、私も歩き出した。

電光掲示板。改札機。人。自動販売機。人。くだらない広告。全てが癪に触った。それなのに、いつもよりも周囲に目を向ける自分に気がついた。見ると苛立つはずなのに、まるで、自分から苛立つものを探すかのように、私は周囲に目を光らせた。

横断歩道の途中に中身の入ったペットボトルが落ちていた。誰もが無視をして、過ぎ去っていく乗用車は面倒臭そうに避けて通っていた。

信号が変わって、私はそのペットボトルを拾い、鞄の中に押し込んだ。誰のものかわからないものを拾うのは気分が悪かったが、誰かに許してもらいたいという気持ちがそうさせた。

自分の中にまだ理性が残っているのかと驚いた。そもそも、人を殺すことがペットボトルを拾う程度で帳消しになるとは思えない。

ロペを傷つけたあいつらを殺すことが正しいと思う気持ちと人を殺すことが悪いことだと思う気持ちとが、何度もサイクルしていた。

その時々で、自分の感情が切り替わり、思考そのものが入れ替わっていく。

その中途半端さに酔いに似た気分の悪さを感じたが、昨日の経験を反芻すると、すっと頭が冷えた。「大丈夫だ。私は大丈夫。」

これからも殺すことができる。

途中でやめるなんて、私にはできない。

倫理観が消えていく。絶対的な自信が、胸の奥から湧いてくる。鞄の中からペットボトルを取り出した。誰かに許してもらいたくて拾ったゴミ。

私は人混みの中に勢いよくペットボトルを投げ込んだ。アスファルトの上を跳ね、スーツ姿の連中の足を潜り飛んでいくペットボトルは、あるべきところに落ち着いた。数人が非難を送るような目で私を見た。

どうでもいい。

誰にどう思われようが、どうでもいい。

ついさっきまでの償いじみた行為が滑稽に思えた。情けなく思えた。気持ち悪く思えた。

私は何も恥ずべきことなどしていない。

ロペを、大切な人間を殺した人間を、憎しみに塗れて殺しただけだ。

間違ってない。

私は、間違ってない。

街の喧騒は私を置いて、やけに速いスピードで流れて、消えることなく繰り返されていった。



ターゲットは自宅から出てこない。

住宅地には煌々と光る自販機の柔らかな青白い光だけが漏れ出すようにしてあった。霧のような雨がその光を吸収し、不思議に乱反射していた。

私は苛立った。

ターゲットの居場所はわかるのに。

殺したい人間が目の前にいるのに、手を出せない現状が歯痒かった。

私は運転席で煙草を吸った。何度もむせた。

今朝から吸い始めた紫の煙は、私の体には馴染まない。何故、急に喫煙を始めたのかはわからない。

慣れないのは銘柄が悪いのかと10個の銘柄をそれぞれ購入した。不気味なものを見るようにコンビニの店員が私を見ていたが、そんなことはどうだって良かった。

全ての銘柄を試してみて、その全てで激しく咽せた。涙でじんわりと熱くなる眼球と歪む視界の中で、煙草は私には向いてないと判断した。

カーウィンドウを開けて、一本づつ吸った煙草の箱を全て道路に投げ捨てた。雨で箱が濡れて、形を変えていく煙草をじっと見ていた。

痺れが切れた。

私はターゲットの住む家の窓に思い切り石を投げ込んだ。閑静な住宅街に鳴り響くガラスの砕ける音。一瞬の音だったが、私の鼓膜には何度も何度も繰り返されるように、音が鳴っていた。

誰かに見られるかもしれない。

そんな懸念もどうでもいいくらいに感情に浮かされた。熱病のようなその不確かな感情は、理性なんてものを一瞬で覆い尽くしてしまい、私を硝子粉砕者へと仕立て上げた。

鋭利で不規則な穴の空いたガラス窓に人影が現れた。痩せ型の男だった。男は私を見るや否や、「何考えてんだキチガイ」と叫んだ。当然だ。自宅に石を投げ込んでくる女に対しての評として、これ以上の言葉はあるまい。

私は黙ったまま、笑みを浮かべた。暗闇の中、男にその表情が届いたのかはわからないが、いや、事実届いたのだろう。男は憤怒の形相でこちらに向かってきた。

足をガラスで傷つけるだろうに、裸足で私の元までやってきて、襟元を掴みかかってきた。

「なんの怨みがあって、こんな真似するんだ」

声高に叫んだ言葉も私には水中の言葉のようにくぐもって聴こえた。

なんの怨みだ?

ロペの怨みに決まってんだろ、タコスケ。

私は左手に持っていたスタンガンのスイッチを押し込んだ。ばちん、という炸裂音と、蛋白質の焦げる厭な臭いがした。潰された蛙の死体のように、男の全身が仰反る。

スタンガンの電力もなかなか馬鹿にならない。気絶させるほどの威力はないが、それでも大の男を痙攣させ、頽れさせるほどの電力があった。

ネットの情報では、「ドラマとかでスタンガンで気絶するシーンあるけど、あんなものは嘘w」なんて匿名の投稿が散見したが、やってみればこんなものだ。

この男が電力に弱かったのか、手に持つスタンガンが強力なものだったのか、そんなことはどうでもよかった。続けて、首筋にスタンガンを押しつけ、再度スイッチを押し込む。

二度目のばちん、という音で男は完全に伸びきってしまった。

「別に一回で気絶させる必要なんてないもの」

倒れ込んだ男の腕を背面でタイラップで括り付けた。男の左右の小指同士をタイラップの白い圧力できりきりと締め上げる。

N-BOXの後部座席に慣れたように男を詰め込んだ。喧騒で住宅地からの視線を感じた。まだ、周囲の人間には何が起きたのかは理解できないだろう。

それでも、これ以上この場に留まるのはマズいということは理解できた。何気ない様子でアクセルを踏み込み、住宅街を後にした。



自分の残虐性に、生まれてしまった悪性に気付いてしまった人間は、そこから先の人生をどう生きればいいのだろうか。

次第に慣れてきた煙草をふかした。

喉の痛みに目が潤む。

ただ、その防衛反応が適切に稼働していることに、私自身がまだ壊れていないことがわかって安心した。いや、壊れてしまっていた方が良かったのかもしれない。

目の前で肉塊と化した男の死骸を見下ろして、そう思った。

思いの外、返り血を浴びてしまった。

刃物はもう使いたくない。

握った果物ナイフの柄は血と脂で滑った。

男は最期まで喚いていた。目の奥、鼓膜のある辺りに男の喘ぎが残り続けている。

そこに、不快さ以外のものを感じない私は、正真正銘の怪物なのだろう。

もう迷うことはない。

一度目の殺人の時のように、後悔を覚えることなどない。自分の覚悟が揺らぐことなどない。

自分には際立った才能があるとは思えなかったが、どうやら私には誰かを憎むという才能があったのだろう。

憎悪、復讐という悪性。

全てを破壊するまで止まらないという蛇のような悪意。

誰も私を止めることはできない。

金剛石と同じ硬度の意志で、私の殺意は実行される。

許さない。

許されないから。

「全員、ぶっ殺してやるから待ってろよ」

血に溺れた眼前の肉塊にポリタンクから灯油をかける。どうせなら、生きたまま焼いた方が良かった。止めを差してしまったことに後悔が浮かぶ。

まだ火のついたタバコの吸殻を肉塊に向けて投げた。

火花と一緒に勢いよく肉塊が炎上し、夜のしじまをオレンジ色の炎が乱した。暗闇は黒というよりも濃い紫に近い。紫色の空を立ち昇る炎が舐める。

鎌首をもたげる蛇のようだ。

蛇は私の瞳を渇かして、夜を蹂躙する。

光源に集まってきた羽虫どもを焼き切った。零れた炎が重力に則って、降る。

全てを燃やし尽くせ。

この世界を、成り立たなくしてしまえ。

人が燃える様は幻想的ですらあった。

そんな光景を幻想的と思えるのは、怪物の瞳を通してのみなのかもしれないが、私にはもうどうでもいいことだ。

わからないことに意味などない。

もう吸うこともないだろうから、炎上する屍にタバコを箱ごと投げ込んだ。



身体の節々が痛んだ。

車のシートに座り、夕陽の光に目を細めた。オレンジを背負って、烏だけが悠然と空を支配していた。

今日もまた人を殺すために会社を休んだ。

路駐した車の中でひたすらに時間の経過を待った。漫然とラジオを聴いた。

現れたのは主婦だった。

暇を持て余した主婦。

《なぎさ》というハンドルネームからは、人の悪口しか飛び出してなかった。何が彼女を熱くさせるのか。他人を貶すことに何故そこまで意義を見出せるのか。そんなことの理由は知らないし、理解もしたくないことだ。

私に理解できることは、この年増の小金持ちの女が可愛いロペを殺したということだけだ。

だから殺す。

姿を見せた《なぎさ》を低速の車両で撥ねた。低速ながらも鉄の塊に弾け飛ばされた肉の塊は数度、アスファルトにバウンドして動かなくなった。

死んではない筈だが、不安になった。

殴り殺したかったから、こんなことで死んでもらっては困る。

《なぎさ》を後部座席に詰め込んだ。

抵抗はしないだろうと、拘束はしなかった。

どれくらい走らせた頃だろうか。

《なぎさ》が目を覚ました。

車中で私を詰った。

ただの轢き逃げだと思ったらしく、ごちゃごちゃとうるさかったので、ロペの名前を出した。

思い当たることがあったのだろう、ロペの件で拉致されたことに気づき、ロペの悪口を言い始めた。

私の鼓膜を薄汚い声が揺らした。

私のイコンたるロペを穢す言葉に我慢が出来なくなった。

路肩に停めて、《なぎさ》を引き摺り出した。ガードレールの断面に思い切り額をぶつけてやった。薄い皮膜が破れ、派手に出血した。悲鳴を上げる《なぎさ》を繰り返しガードレールに押しつけた。

額が深く抉れた《なぎさ》はやっと静かになり、それから苦しそうに呻いた。

ガードレールに首を置いて、思い切り頭部に金属バットを振り下ろした。

「ごぎゃ」という音と、ガードレールで首が切れ、流血する音がした。続けて頭部にバッドを振り下ろす。再び頭蓋の砕ける音と、さらに深く首が切れる音。

ギロチンの動きのような金属バットの軌道でガードレールに接した首が抉れた。千切れるまでバットを振るおうとしたが、13回目で頭部がなくなってしまった。首が落ちるよりも前に頭部が擦り切れてなくなってしまった。

こびりつく。

音が。

人の壊れる音が、鼓膜にこびりつく。

それは、タールのように粘度が高く、積み重なるようにして、私の鼓膜に残り続けた。

その感覚はあまりにも不快で、やめてしまいたくなるけれど、私はロペが大好きだから笑ってみせた。

笑って、笑って、笑って。

そうすればもう、こびりついた音は笑い声の中で霧散してしまう。

私は笑った。

笑い続けるしか、この狂った情動を抑えられない。

どこまでも私の笑い声は響いていく。

世界に、私の怒りを響かせるのだ。

どこまでも、どこまでも。

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