第3話

《おにぎり@シャケ》の住んでるアパートは小綺麗な雰囲気の二階建てだった。

二階部に住んでるのは、吉田、山岡、佐藤の3人だというのは、郵便受けの表札から分かった。この中のどれかが、《おにぎり@シャケ》で、ロペを殺した一因なのだというのがわかった。

苗字なんか、正直どうだってよかった。

存在が。

ロペを殺したという存在が、私には必要だった。

私が生きるために、ロペの復讐のために、死ぬ存在が必要だというだけだった。

外見の画像は既にSNSから拾ってきており、問題はない。今日はおそらく仕事だろうから、帰ってくる姿をその画像と照らし合わせ、判断する。

どれくらい時間が経っただろうか。

判然としない。

カーステレオからのラジオで流行りの曲が何度も流れた。口ずさむことはしなかった。私の覚悟が口から歌と一緒に流れ出してしまいそうで、それが無性に怖かった。

人を殺すことに対する倫理の綻びは恐怖の対象ではなかった。ただ、私自身の在り方が歪むこと、覚悟が揺らぐことが怖くて仕方がなかった。

似ているようで本質は全く異なる。恐怖の質が異なる。

私は怪物になることは厭わないが、怪物になることを迷うようなことが起こりうることにひたすらに恐怖した。

ステアリングに寄りかかり、闇の先を見つめた。街灯の細い光に照らされて、アスファルトがてらてらと粘っこく光る。小さな蜘蛛の巣がサイドミラーとドアの隙間に見えた。家主はいない。風で吹き飛んだのだろうか。家主を伴わない寂しいあばら家としての蜘蛛の巣は、それでも美しかった。光を反射させて、破れながらも形を保っていた。

形を保っているものは美しい。

異形へと、殊更に形を失いつつ、壊れていく自分と比較して、その美しさは眩しかった。

ロペは形を保ったままに消えた。

ロペという形は結局のところ、瓦解することなく、この世から消えた。ロペの体は炎で燃やされ、灰となり、骨へと姿を変えた。それでも、ロペという形は美しいままに私の前にある。壊し尽くされてもなお、ロペは美しいままだった。

街灯の先に人影が見えた。

小さな背丈の男が疲れた様子で現れた。

あいつだ。

私は確信する。

復讐の相手の顔は何度も確認した。

私が殺す男。

私が殺すべき人間。

それが、そこにいた。

彷徨う幽鬼のように車からぬるりと出た。助手席側に回り、バットをケースから取り出した。アスファルトに擦るようにして音を鳴らした。

男が私に気がついた。

夜間にバットを持つ女に警戒したのだろう、たじろぐ素振りを見せる。

「なんだよ」

━━━━厭な声だ。

不快さで鳥肌が立つのがわかる。

薄汚い、ドブ底の汚泥のような声だ。

ああ、厭だ。

「あんた、ロペがどれだけ苦しんだか知ってる?」

「は?ロペ?」

《おにぎり@シャケ》は気味の悪いものを見るかのように私を見た。ロペの名前に思い当たることなどないようだった。

頭がスッと冷えた。

「あんたが殺したんだ」

会話など無駄なことはわかっていた。

私のこの行き場のない、名前のない感情は唾棄すべき男との会話の中で消失するとは思ってもなかった。

脳漿。

汚物と大差ない脳漿を、頭蓋を割って撒き散らして初めて、その感情は収まる。この気分の悪さもその時初めて、消える。

そんなことはわかっていた。

それでも、私は会話を試みた。

ロペの死に意味はあったのか。ロペがこの世界から消える意味があったのか。この愚物から得られるとは思えなかったが、それでも、確認せずには居られなかった。

「わけわかんねえ。警察呼ぶぞお前」

「いいよ、呼べよ。その前に答えろよ。なんでロペが死なないといけなかったのか」

「やっば。本気でやばいなお前。気持ち悪い」

男は私に背を向けて歩き出した。その背中から声が聞こえた。

「知らねえよそんなやつ」

━━━━私は。

━━━━━━━━答えを得た。

私は夜を背景にして飛び上がり、金属の塊を振り下ろした。



バットの衝撃は不思議に掌に馴染んだ。胸糞悪いカスの頭部を粉砕する衝撃は赤い鮮血を撒き散らし、私を高揚させた。

どしゃりとアスファルトに倒れ込む《おにぎり@シャケ》を見下ろし、上がった息を整えた。

ロペ、やったよ。ロペを傷つけた馬鹿をひとり、傷つけてやったよ。

私の胸にロペへの贖罪じみた感情が湧き上がった。雨が強くなった。私の身体を打つ雨粒はその飛沫で息ができなくなる程の強さだった。溺れそうな雨だった。

私が殴った《おにぎり@シャケ》が呻きながら身動ぎをした。まだ生きていた。弾丸のように降る雨の中、砂利に塗れてアスファルトを這った。当然のことだったが、一発殴った程度ではどうやら人間は死なないらしい。私は虫を潰すように《おにぎり@シャケ》を踏んだ。何度も何度も踏んで、深呼吸をした。肺に水が満たされて苦しかった。澄んだ雨の夜の空気が水と一緒に肺に入り込み、それが心地よくもあった。

呻く《おにぎり@シャケ》をその場に置いて、私は路駐していたNBOXに向かい、エンジンをかけた。そのまま緩やかに《おにぎり@シャケ》の隣に車を寄せ、後部座席の扉を開いた。

持ってきていたガムテープで両手両足を封じて、《おにぎり@シャケ》を乱暴に後部座席に押し込んだ。女の私でも割と簡単にその作業が進んだのは、《おにぎり@シャケ》の体型が痩せ形のチビだったからだ。

このチビがロペを追い詰めたんだ。

私に簡単にボコられて車に詰められるこの雑魚のせいで、可愛い可愛いロペが死んだ。

無性に腹が立って、後部座席に横たわる《おにぎり@シャケ》の腹部を何度も殴った。鼻水と涙と血で塗れた顔を歪ませて、《おにぎり@シャケ》は喘いだ。妙に高い声だ。勘に触る。

繰り返し殴り続けていたせいか、《おにぎり@シャケ》が緩やかに嘔吐した。吐瀉物が私の車の後部座席を汚す。

噎せ返る酸っぱい臭いに怒りは湧かなかった。ただ、生きているんだと実感できた。この小さな弱い人間は生きていて、私のロペを殺したんだと事実が確認できた。ぶっ殺してやると強く思った。

後部座席のドアを勢いよく閉め、私は運転席に乗り込んだ。アクセルを踏むと、フロントガラスに雨粒が当たりうるさかった。

バックミラーを見ると、《おにぎり@シャケ》が泣きながら何か呻いていたが、無視した。流石に吐瀉物の臭いが気持ち悪く、窓を開けた。雨粒が勢いよく入ってきて、私の右半身を濡らした。その冷たさが現実と夢との間を繋いでいた。

国道を走らせ、何度目かのコンビニエンスの光に吸い込まれるようにして、私は駐車場に入っていった。呻く《おにぎり@シャケ》を残し、店内に入った。缶コーヒーとおにぎりを数個購入した。現金がなく、ポイントを使って購入した。このポイントはロペのLIVEのチケットを買って貯めたものだ。

車に戻ると《おにぎり@シャケ》が後部座席の窓から助けを求めようと顔を覗かせていた。私に気付いて、涙目の奥で絶望が広がった。

私は後部座席のドアを開け、思い切り《おにぎり@シャケ》の顔を蹴り付けた。私のNIKEのスニーカーは《おにぎり@シャケ》の不快な顔を思い切り吹き飛ばし、反対方向の窓にぶつけた。鼻血を垂らし、驚いた表情でこちらを見る《おにぎり@シャケ》に笑顔を見せてやった。

落ち着けよ。

大丈夫、ちゃんと殺してやるから。

胸の奥から覗かせる嗜虐性を表情筋に乗せた。

《おにぎり@シャケ》はただグズグズと嗚咽を漏らし始めた。車のエンジンをかけて、伸びる国道をひたすらに走らせた。

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