第7話
橋下はそれからすぐに会社を辞めた。
堂々と「カメラマンになる」って言ってのけて、社内の失笑を買ったらしい。
あいつがベネズエラだかパキスタンだかイラクだかを飛び回ってる間に、2年経った。
私は結婚した。
夫となった人は合コンで出会った銀行マンで、橋下と違って実直な人だった。別に義理立てする必要もないし、なんなら私は振られているようなものなので、プロポーズは素直に受け入れた。
夫との生活はなんの不満もなく流れた。呆気ないくらいに平和で、単調で、幸せだった。
橋下が死んだと聞いた。
中東で現地の少年兵に蜂の巣にされたらしい。それを私はニュースで知った。
パスポート写真だろうか、ちょっと真面目風に映った浮かれ野郎の顔写真が朝食中、テレビにでかでかと映った。夫は興味なさそうに私の作った味噌汁を飲んでいた。
「あれさ」
「ん?」
「いや、今の」
「戦場カメラマン?」
夫は顔を思い出そうと顔を歪めた。橋下のことをこの人は戦場カメラマンと呼んだ。そうか、そうなんだよなとすとんと何かが身体から抜けた。
「友達なんだよね」
「え?」
「会社の同期」
夫は動きを止めて、しばらくしてから「葬式とかどうすんの」とボソリと呟いた。私は「知らねえ」と返して、味噌汁を飲んだ。なんだか無性にイラついた。ガチャガチャと食器を鳴らし、乱暴な朝食を摂る私に奇異な視線を寄越して、夫は腫れ物に触るように小さく「ごちそうさま」と言った。
夫が逃げるように家を出て、ワイドショーがいくつか切り替わっても私はしばらく立ち上がれないでいた。机の木目を眺め、ただぐらぐらと湧き上がる黒い溶岩に吐き気を催していた。
死んでんじゃねえよ、ボケ。
涙は不思議と出てこなかった。
胸の奥から湧き上がる熱い感情が涙を体内で蒸発させていた。遠い異国で穴だらけになって死んだ橋下を想像して、気分が悪くなった。それが怒りからか悲しみからか、私には判別がつかなかった。
知り合いに連絡を入れたが、葬儀の便りはどこにもきていなかった。身内だけで行うのだろう。家族もきっとバカな死に方をしたと隠し通したい気持ちなのだろう。
洗濯物を干しにベランダに出た。この部屋からは私と橋下が務めていた会社のビルが見える。あの屋上で私と橋下は別れた。あのビルの見える部屋で、私は橋下の死を知った。それも思いつく限りの滑稽な死だ。
橋下は勝手なことをして、勝手に死んだ。
そこに憐れみも嘲笑も存在しない。
だって、私と橋下は無関係なのだから。
時期的に目に見えない花粉が洗濯物に付着する。効果があるのか定かではないが、二、三度洗濯物を払って、部屋の中へと投げ込んで行く。硬いフローリングに座り込んで、洗濯物をたたんで行く。今日は午後から夕飯の買い物がある。テレビからはくだらない芸能ニュースが流れ続け、司会者が下品に笑う。
私は立ち上がれなかった。
たたみ終わった洗濯物を横目に、ただじっとそこに座り続けていた。
私の様子がおかしくなったことを夫は理解していたが、深くは聞いてこなかった。その心遣いがありがたかった。
食事の準備も買い物も掃除も、何もかもが手につかなかった。
一人の人間が死んだ。
たったそれだけの事象が、私の認識する世界を大きく揺らして、どこまでも波紋を広げていく。
橋下という存在が大きかったというだけではなく、突然、自分の世界が違う世界に侵食された衝撃が私を揺さぶったのだ。
泣くこともできず、ただ、無為に数日を過ごした。
そんなある午後、郵便が届いた。
小さな茶封筒だった。
差出人には橋下の名前が書かれていた。
封を切ると、橋下の母からの簡素な手紙と、一枚の写真が封入されていた。手紙には橋下が自分が死んだ際、交友関係のあった人間に指定した写真を贈るようことづけられていた旨が書かれていた。
そして、写真に写っていたのは、フラッシュが焚かれ、浮き上がった私の汚らしい泣き顔だった。紛れもなくあの夜の写真だった。橋下はこの不細工な写真のどこを見て綺麗だと納得したのだろうか。ピンボケもしてるし。やっぱりあいつは下手くそだ。
丁寧に赤いマジックで「happy wedding」と書かれている。わざわざ書いたのか。律儀なやつ。つづり間違ってないだろうな。念入りに確認する。写真をひっくり返す。
裏面にデカデカと同じ赤いマジックで「背骨折れ女」とタイトルが書かれていた。思わず写真をくしゃくしゃに丸めそうになるが、その赤の背後に消えそうに薄く鉛筆書きがあることに気づいた。
「帰る場所」
その文字群を見て、呆れ返った。肩からだらんと力が抜けた。
あの野郎。
あれだけこっ酷く人のこと振っておきながら、意外と揺れ動いていたのかよ。クソ。もうひと押ししとけばよかった、マジで。ままならないな、最後まで。それで、私が結婚したこと聞いて、上から「背骨折れ女」って書き足したのか。
ダサすぎるぞ、橋下。
バーカ。
あーあ。最後の最後で拍子抜けした。
あいつの生き方、本当めちゃくちゃだ。
やっぱ、ロクでもねえ。おしまいおしまい。さようならだ。
写真は自室の机の引き出しにしまった。誰も見つけられないように、だけど、私だけがその場所を知っているところに。
私の身長は伸びない。
今もまだ小さいままだ。
橋下が吸っていたこの冷たい街の上澄みは、きっとこれから先も吸うことができない。でも、吸わないでいいと思えた。だって、上澄みを吸ってたら、あんなバカになるから。私はこの冷たい街に脚を下ろして、ゆっくり幸せになる。
夕飯の買い物をするために玄関の扉を開く。風が冷たい冬の空気を運んできた。
上を向く。
今、真っ直ぐ前を向くと涙が落ちてしまう。
マンションの狭い廊下を上を向いて歩く私はさぞかし間抜けなことだろう。
泣いてなんてやらねえからな。
お前のために流す涙は、あの夜、あの屋上、冷たい街の上澄みの中で最後だったんだ。出し尽くしたんだよ。
ざまあみろ、バーカ。
冷たい街の、上澄みで 寺田 @soegi-soetarou
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