第6話

会社の屋上からの景色は、控えめに言っても絶景だった。

「いやっほぉぉぉ!!!」

売店で買ったビールの入った袋をぶらぶらさせて、橋下は叫んだ。

周囲にその音を阻害するものは何もなく、笑ってしまうくらいにその間抜けな声は響き渡った。

「恥ずかしいからやめてよ」

「いやあ、この高さだと叫んじゃうって普通。叫ばない方がおかしい」

「あんた今年で27でしょ。もう立派なアラサーだから」

私は冷たいアスファルトに腰掛けて、橋下に手を伸ばす。ヘラヘラ笑いながら橋下は私にビールを手渡す。プルタブを小気味好く開けて、バカがやたらと振り回すせいで噴き上がった炭酸に口をつけて蓋をする。

「売店にお酒なんて置いてるんだ」

オフィスビルのくせにアルコールの類を置くなんて非常識だ。あの売店の店員は何を考えているのだろう。いや、買う方にも問題があるのか。

「お?さてはマチ。残業はほどほどにってタイプだな?あの売店はな、夜21時を回るとアルコールを並べるのだ。何度、世話になったか」

橋下は噴き上がる炭酸に顎を塗らせながら、自慢げに胸を張った。威張ることでもないだろう。

常夜灯が赤く定期的に点滅し、それが誰かからのSOSのサインに思えた。薄く闇で縁取られたこの街のシルエットが不思議に愛おしかった。

「仕事楽しい?」

名古屋での橋下の部署は営業だと聞いた。この軽い頭を日夜、様々な場所で上げ下げしているのだろう。想像に難くない。

「楽しいよ。だいたいタダメシだし」

「そりゃ良かった」

橋下に取って、取引先の機嫌をとることくらい食事代に比べれば当たり障りのないことらしい。

「マチは変わらんね」

嬉しそうに橋下は言った。外気に冷やされた息が白く染まって空中を漂った。

「何?バカにしてんの?」

「なんでだよ。褒めてんの」

「褒められた気がしないんだよね」

「いや、この歳になるとさ、みんな同じようになるじゃん。こうはなりたくねーって思ってたツマンナイ大人?そんな感じ。俺もそうなってんのかな、やだなって思ってたんだけど、マチ見たらなんか、安心した」

「よくそんな恥ずかしいこと堂々と言えるね」

橋下にビール缶の中身をブチまけるジェスチャーをする。

「青臭くいこうぜ」

「勝手にやってろバーカ」

私は冷たいビル風に揺られ、髪を振り乱してビールを飲んだ。沈黙が宝石箱のような都会の夜景に馴染んだ。夜の深みに音が吸い込まれて、遥か階下の車のエンジン音が高く鳴った。

「俺さ、仕事辞めるわ」

会話の流れもなく、橋下はそう言った。

特段の驚きもなく、私は「へぇ」と缶ビールを飲んだ。なんだこいつ。そんなことわざわざ報告しにきたのか。殊勝な奴。

「あれ、驚かないの」

「そこまであんたに興味ない」

「ひでー」

橋下は拍子抜けしたように肩を落とした。

「で、何するつもりなの?」

「んー、カメラマンになる」

橋下は半笑いでこちらを見た。笑っているけど、どこか試すような目だった。

「馬鹿じゃないの」

冗談だとばかり思って、突き放すように言ったが、あとの静寂から橋下が本気で言っていることがわかった。

「マジ?」

「マジマジ。大マジよ」

「え、嘘。ツテとかあんの?」

「実はちょっと前から出版社に持ち込んだりしてんの。ボロクソ言われて終わるけど、実際。でも、最近割と評価されてるんだぜ。で、ちょっと本腰入れようかなって」

橋下は自慢げに言った。だけど、それは痛々しいくらいの虚勢に見えた。破れかぶれ気味の橋下はやけに大きく笑った。

「イラク行ってくるわ」

近くのコンビニに行くみたいなニュアンスで、橋下は言った。

は?

イラク?

あの?

どっかんばっかんの銃撃とか地雷とかヤバイとこ?石油の国?

私の頭には不明瞭なイラクのイメージが浮かんで、それから消えた。

「紛争の写真撮ってくる」

「なんで?」

私の日本語の質問は至極当然の疑問で、外国人留学生でもきっと同じくそう質問するだろう。

「それが一番都合が良いのよ」

「は?なんだそれ。ボカしてんじゃねえぞ、アホ」

大袈裟に告白したくせに、大事なところは濁す橋下に苛立った。心配して欲しいんだろ?興味持ってほしいんだろ?私にわざわざ伝えてきたってことは、それなりに求めている言葉があるわけだろ?

ボカしてんじゃねえぞ、ドアホ。

「あー、ごめん。そんな感じになるとは思わなんだ。すまんすまん、流して。ごめん」

橋下は薮蛇を突いたとばかりにさっきまでの声色を一転させて、とり繕い始めた。その態度が私をさらに苛つかせた。

「自分だけ気持ち良くなってんじゃねえぞ。私一人納得させられないで、自分が納得できるわけないだろ、たわけ」

私は橋下をぶん殴りかねない勢いで息巻いた。実際、殴りたい衝動に駆られていた。

こいつはわざわざ、構って欲しい話題を振っておいて、直前でやっぱ辞めるわと切り上げているのだ。私じゃあ、役不足と言いたげに。

てめえ、ふざけんじゃねえぞ。

舐めてんじゃねえ。橋下は尚も黙ったままだ。ばつの悪そうに薄笑いを病的に浮かべている。

そこで、私は気付いた。

橋下も自分の中でまだ答えを出せていないのだ。

自分の選択が正しいのか、間違えているのか。そんなこともまだ判断が付いてないのだ。

「そんな気持ちならやめとけよ」

私は辛辣にそう告げた。

私の知ってる橋下は、中途半端な情けない決断を下すような奴じゃない。何も考えてないくせに、やることはどっちつかずじゃない。

私の言葉に橋下はゆっくりと顔を挙げた。

「マチはカッコイイね」

「あ?」

「俺はさ、たとえ自分の夢でさえ、簡単に話せないんだよな。わかんねえもん。正しいのか間違ってるのかも。怖いんだよ。自分のやりたかった夢が難しく、過酷な道で、今の道から逸れてまで追いかけてもいいのか。そんな不安が出てくるんだよ。それが何年も追い求めた夢でさえさ」

橋本は顔をゆがめた。何度も反芻しながら自分の考えを言葉にしようともがいていた。だけど、ここで、私の意見は変わらない。そんな風に答えを出せてすらいないのなら、わざわざ飛び出す必要なんてないのだ。所詮、その程度の夢の大きさなんだから。その程度の夢の熱量なんだから。

私は橋本をにらみつける。目をそらすと高をくくっていたが、橋本は私から視線を外さなかった。

「俺はずっと結論を出せないんだ」

橋本の目は泣きそうに滲んでいた。ビル風が勢いよく私たちの間を通り抜けていった。

「だから、もう考えるのをやめたんだよ。決意と覚悟とかそんなものは後からどうにでも誤魔化して身に着けることはできる。自分を納得させる理由なんてものも、無理やり作り出せばいいんだよ。でも、それは俺が一歩踏み出さないとできないことだと思うんだ。だから、もう俺は進むしかないんだ。間違えていても進むしかないんだよ、マチ」

それは、まぎれもなく橋本の本心だった。

でも、それは盲目的に自分の言葉に浮かされにいっているだけに思えた。間違いなく不幸に向かって邁進しているように思えた。

「駄目だよ、橋本。お前、本当、駄目。全然できてないじゃん。全然自分の姿見えてないじゃん。そんなのは駄目だって。ちゃんと自分の立ってるところ見てない。それは納得できない」

私は駄々っ子のように体を揺すった。言ってみろ。私を納得させる言葉で、お前の熱意を見せてみろ。そういいたい気持ちでいっぱいだった。だけど、そう詰め寄る理由が私にはない。そこまでする理由が、そこまで橋本を追い詰める理由が私にはない。私と橋本は同僚で、友達で、馬鹿騒ぎするだけの関係で、「ここを通りたく場私を斃してからいけ」みたいな台詞は私には言えない。そんな資格はない。

橋本は既に決断しているのだ。

何の答えもないままに無謀にも足を進めていくという選択を。そうすることでしか立ち行かなくなってしまっているのだ。

「俺はさ、俺は消費されていく今をどうにか永遠に留めたいんだ」

ゆっくりと言葉を紡ぐように橋下は言った。自分の言葉を確かめるように、自分の中に刻み込むように。

「誰もが忘れていくんだ。どんなに悲惨な事件も勇敢な行動でも、その瞬間は大きく取り上げても、いずれは消えていく。消費されていく。そうはさせない。誰かにとっての大切な今を、そう簡単に消費させてたまるか。俺がここに留めてやる」

私は橋本の言葉を黙って聞いていた。橋本の言葉はさっきまでの迷いが感じられないほどに、流ちょうに彼の口からあふれ出ていた。

「今、作ったんじゃないよ。本心。大学のころに一回本気で悩んだ時、俺はそんな気持ちだった。揺らぐはずがないってそう思っていたのよ。でも、やっぱ駄目だな。社会人生活ってのは、そんな覚悟も錆びさせんのね。理由、あんのに大声で言えねえや」

悔しそうに顔を歪ませる橋本に私は何も言えないでいた。きっと彼は苦しんできたんだ。膨れ上がり続ける自己実現の欲望と現実の生活との軋轢に、どんどんすり減ってきたのだろう。私には到底理解できない煉獄の炎のような苦しみに、橋本は苛まれていたのだろう。

何も言えない。

言えるはずがない。

私には橋本が理解できない。

そこの乖離は説得なんてものを許しはしない。ただ彼の決断を黙って聞くか、関係が潰れるほど否定して、それでも橋本を見送ることしか私には許されていない。私にはそもそも選択なんてないのだ。

これはあくまでも橋本の中だけで、橋本自身が下す決断で、その答えは既に出ているのだ。

笑っちゃうくらい長い沈黙の中、私たちはお互いを見つめ続けていた。

「私と会えなくなるぜ」

長い懊悩ののち、咄嗟に飛び出たのはそんな間抜けなセリフだった。なんだよ、「~ぜ」って。いつの時代のキャラクターだよ。震えながら、ふとすれば、崩れ落ちそうになりながら、私はつぶやいていた。

さっきまでの態度、橋下の適当な態度を詰る言葉とは真逆の言葉がすらすらと出てきた。実感が湧いてきた。この馬鹿は本当にどこかに行きかねない。冗談でなく本気で、そんな馬鹿なことを実行しようとしている。

「そんなとこ行くより、日本で、ここで、一緒にいようよ」

情けなく縋り付く言葉が溢れていく。絶対に見せたくない表情を見せてしまっている。

「なんなんだよ。紛争とか、物騒なこと言うなよ。お前、無理だよ。弱いもん。デカイだけじゃん。デカイから弾当たるって。やめなよ」

「そうかもな」

「馬鹿なこと言うなよ。向いてるよ、営業。日本にいて。日本で営業やれ。大丈夫だよ、カッコイイよ橋下。間違えてない。普通でいいんだよ。夢とかそんな高尚なことで浮かされるなよ、橋下。地に足つけてよ。どっか行かないで。いて。ここにいて」

擦り寄るように足を進めるが、足が途中で止まる。これ以上進めない。橋下を止める術が私にはない。

私はただの友達、希薄な繋がりで、橋下の人生に、夢に口出しすることなんてできなくて、それでも私は橋下にイラクになんて行って欲しくない。銃弾の雨の中を這いずり回って欲しくない。

ただの我儘だけを理由にしかできない自分があまりにも弱く、情けなかった。

そのまま、動きが止まって、溢れる涙を止められないでいた。

ぱしゃり。と、音が鳴った。

橋下がカメラを構えていた。フラッシュが焚かれ、その光の残滓がまだ少し空間に揺蕩っていた。

「撮んなよ」

自分の声が弱々しく震えていることに気が付いた。こんな声、初めて聞いた。

「時々な、こんな風に、自分でも思ってなかったものが撮れるんだ」

カメラの画面を覗き込みながら、橋下は満足げに微笑んだ。

「あー、さっきのナシ。さっきの超かっこつけたやつナシ」

橋下は恥ずかしそうに耳を掻きながら、そう言った。

「口では大層なことを言ってるかもしれないけど、やめてね、そんなしゃらくさいやつだと思わないでね、マチは。違う違う。もっと単純な話だ」

「あー」とか「うー」とか言葉にならないうなり声を何度もこぼして、橋本は言葉を紡ごうとしていた。自分の中の本心ってものを、小さな形にしようともがいているように見えた。

「夢とか本当の気持ち語るのって、やっぱ超気持ちいいの。自分が主人公にでもなっているでもさ、大人になるにつれて、そういうこと言っちゃうと、笑われるんだな。うん。笑われたくないから、まあ、なんだろ。本気だからこそきついっていうか。本気なら笑われても平気とかいう言論、本当やめてほしい。しんどいもんはしんどいよ。一番デリケートなとこだし。その予防で、綺麗事を言ってさ、いつしか本当の気持ちすら覆い隠すようにさ。その綺麗事のパテがどんどんどんどん厚くなって、自分でも息苦しくなってくる」

吹き続けていたビル風が不意に止まった。ノイズが入らなくなった橋本の言葉が鮮明に私の耳に馴染んだ。

「でも、本当の理由。俺がカメラマンになりたいってその理由は、きっと、こんな綺麗な写真が撮りたい。それだけなんだと思う」

橋下はカメラの画面を見つめた。そこには私の汚い顔面が写っているんだろう。

「なんだよ、それ。お前、ふざけんな。見せろ」

飛びかかる私を華麗に避けてみせて、橋下はカメラを高く上げた。巨大な橋下が手を伸ばせば、小さな私には手が出せない。

「マチには絶対、見せねえよ」

橋下は笑った。

いつもと変わらず、バカみたいな顔で、大きく笑ってみせた。

「うっさい。黙れ。さっさとどっか飛んでけ」

桃鉄みたいな台詞にも、橋下はツッコんでくれない。

橋下は行ってしまうだろう。

私の情けない、身を投げ出した告白めいた制止すら置いて、どこまでも進んでしまうのだろう。

それは仕方のないことだ。

橋下の言う綺麗な写真を撮りたいって欲求が、私の隣で馬鹿馬鹿しく笑ってる現在よりも魅力的に映ったというのだから。それはもう仕方のないことなのだろう。橋下と恋人になりたいわけじゃない。橋下とキスしたりセックスしたりする姿を想像すると、「おええっ」となるし、恋人同士の甘いしょうもないやりとりもしたいわけじゃない。

ただ、側にいてほしい。

間違っても、紛争地域なんかには行って欲しくない。ここで、この冷たい柔らかな街で、笑っていればいいと思う。そっちの方が幸せなのにと強く思う。

私には橋下の考えてることがわからない。

橋下の言う綺麗な写真も、事実を留めておくっていう大義名分すらも理解できない。

橋下はみんなより、少し高い場所に頭があって、その高い身長から、この冷たい街の上澄みを吸い込んで生きている。

私には理解できない。

どこまでも自分本意で、真っ直ぐ生きて、自分の生き方に自信持って進むこのバカのことが。こうやって哀れに縋る私のことを橋下は理解しているのだろうか。私の気持ちの一部だって理解せず、こいつは紛争地域に突っ込んで行くのか。

「じゃあ、そろそろ帰りますか〜」

「帰れ、帰れ。馬鹿」

「なんだよ、一緒に帰ろうよ」

「いやだ。お前なんか絶交だ死ね」

死ねという言葉がやけにリアルに響いてハッとした。しかし橋本は気にするようなそぶりも少しも見せない。わかっているんだろうか、こいつは。自分がこれからどれほど危険な道を歩むのかを。それほどまでに気分のいいものなのだろうか、夢を追うという行為は。私にはそうは思えない。ガムの包み紙に吐き捨てて、街角の灰皿や高速道路を走る車の窓から放り投げるくらいのものだとしか思えない。そうとしか思えないからこそ、私には橋本を止めることができないのだ。

「じゃあな、バカ野郎。死ぬんじゃねーぞ」

去っていく橋下の背中にビールの缶を投げつけた。見事に頭に命中し、橋下の「ふざけんな痛えな」という声に爆笑する振りをする。あのバカには私が泣いてる姿を見せてしまった。できることなら、その姿だけを忘れてほしい。このまま、バカバカしく別れて、何年か後、地続きのまま、バカをやれたらいいなと、心からそう思った。

だから、橋下。

「死ぬんじゃねーぞ」

さっきの言葉を消し去るように、祈りを込めて私は叫んだ。私の言葉が届いたのかはわからない。だけど、橋下はそのデカイ体を曲げて、頷いたように見えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る