第5話

橋下が梶を殴ったと聞いた。

橋下本人は決して口を割らなかったが、また、性懲りも無く梶が私の悪口をペラペラと喫煙所で話していたらしく、それを聞いた橋下が思いっきり梶の顎にアッパーカットを決めたらしい。世界戦さながらだったと目撃した先輩に聞いた。

本来なら一瞬でクビ案件だったが、幸いにも橋下は有能だった。会社的にも捨てるのは惜しいと判断されたらしい。

名古屋へと転勤になった。

辞令が出されても、ヘラヘラ笑いながら有名な味噌カツ屋を検索していて、こいつは本当、どうしようもないなと思った。脳みそがういろうなんだ、きっと。

そういう訳で、橋下は半ば、島流し気味に名古屋へと飛ばされていった。私と橋下の希薄な、しょうもない関係もそのまま終わるかに見えたが、橋下は頻繁に連絡を寄越すようになる。下手くそな、誇張された名古屋弁を電話口で得意げに見せびらかし、私を閉口させた。

「味噌味が至高だぜ。豚カツにはさ。……だぎゃあ」

「おまえ、そのバカみたいな方言二度と使うなよ、東京人が」

人で混み合う安居酒屋で私に向き合いながら、橋下はビールを飲んだ。出張や営業で東京によるタイミングで、毎回のごとく、橋下は飲みに誘って来た。飲みだけでなく、水族館やら動物園、映画にまで誘ってきて、私も断る理由もないので、バカみたいな顔を向かい合わせ、パイレーツオブカリビアンとかミズクラゲとか、キリンを観た。

なんだ、こいつ。私のこと好きなのか。と、時折、思うが、ジョニー・デップの所作で鼻水を垂らしながら号泣する姿や(全然泣ける作品ではない)や、不細工な穴子のぬいぐるみを振り回して遊ぶ姿を見るに、どうもそんな素振りはない。

単純に友達として、一緒に遊ぶのが楽しいって感じらしい。不覚にも、そう認識されていることが、嬉しかった。

何度目かの冬。

その日、午後の業務をなんとかこなす私のデスクに橋下が突然やってきた。またいつもの如く出張中らしい。フロア内の上司に「ちわーす」と軽い挨拶をして、「来やがったな」とばかりにボディーブローを受けて騒いでいた。中学生みたいなノリをいつまでもするな。

橋下は隙のないスーツ姿に、謎の配色のネクタイを締めていた。薄いすみれ色だった。

「そのネクタイ全然似合ってねー。ホスト?」

「大人っぽくない?」

「くそだせえ。そんなネクタイ捨てな」

「他にも金色とか買ったよ」

「おしまいだよ、センスが。さようなら、そういう趣味の人と会話したくありません」

「今日、何時上がり?」

「知らん。終わり次第だ」

私はパソコンに向き直る。

橋下はしばらく私の背後をうろうろして、「珈琲飲んでくる」とフロアを出た。

「終わったら連絡して」

暇つぶしで出社するんじゃねえと思いながらも、私の指はいつもより早くキーボードをタイプしていた。




「終わった」

「おけ」

メッセンジャーはすぐに既読になった。

会社の前で合流して、近所の飲み屋に向かった。どこでだって食べられそうな、安っぽい冷凍食品を出すような、雑な店だ。お互いに味にこだわりがない分、店選びは安さに重点が置かれている。値段の高い店にもいこうと思えば行けるが、橋下とわざわざ、そんな店に行くのもなんだか変な話だ。こいつはここで充分なんだ。

塩昆布と和えられたキャベツをしゃくしゃく齧りながら、薄いチューハイを豪快に飲んだ。橋下は水割りをゆっくり飲んでいた。

私たちの会話はしょうもない。

この前、クソでかい犬のうんこを見たとか、近道しようと知らない道を通ったら崖に出たとか、近所のラーメン屋の麺がうどんだったとか、なんの魅力もない。

ラジカセから流れる雑な会話のようだ。

こういうのが楽しいとか好きという訳でもなく、ここでもやっぱり、こいつはこれで充分だとなるのだ。

店を出ると、時間はまだ21時を回った頃だった。帰るかと駅の方へ向かおうとした私の腕を橋下が掴んだ。

「触んなよ」

「もう帰るの?」

柄にもなく粘る。いつもならば、私が帰ろうとしたらなんの執着もせずに、「ばいばーい」と手を振る橋下だ。何かあるのかと疑問に思った。

「あー、えー、どうしようかな」

歯切れが悪い。何かあるのは確定的だ。

「あ、じゃあ、こうしよう。会社戻ろう」

「なんでよ、嫌よ」

「馬鹿、仕事するわけじゃねえって。会社での酒の飲み方教えてやる」

そう言って、橋下は会社の方へと歩き始めた。振り返りざまの表情はバツが悪そうだった。

めんどくせ。

気を遣わせるんじゃないよ。

溜息をついて、いつもより背が低く見える橋下の背中を蹴り飛ばした。

『蹴りたい背中』じゃん。私は、躊躇なく蹴り飛ばすけど。

会社への道中は、飲み会帰りのサラリーマンであふれていた。駅へ向かう彼らと、オフィス街へ向かう私達と。人の流れに逆らう形で、酔っ払いを避けるインベーダーゲームみたいだった。橋下が1Pで、私が2Pのインベーダーゲームは一度もゲームオーバーにならずに会社まで続いた。

会社の入るビルのエントランスフロアにある売店で橋下は迷うことなくビールを2缶買った。この売店はかなりの頻度で利用するが、アルコールの類が置いてあるとは知らなかった。

橋下はスムーズな様子で電子マネーを使おうとするが、残額が足りてなくて、財布から紙幣を取り出した。橋下らしくて、呆れた。


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