第3話

「駿河はしょうもない女だよ」

喧騒の中、その言葉はまっすぐと私を刺した。離れたシマの机で若手の男に囲まれた梶が嘲るようにそう言った。

私の視線に気づいたのか、こちらを見て一瞬焦った表情を浮かべるが、すぐにニヤリと笑った。

常に誰かを見下したような態度で、周りから一歩引いた梶の態度は、周囲から敬遠されていたが、飲み会のような席では後輩を周りに侍らせて、好き勝手に自分の武勇伝を語る。若手は皆、張り付いたような笑みを浮かべる。

そんな梶に一時期、言い寄られていた時期があった。

新人研修の際、指導係として私の上になった梶は事あるごとに私を誘ってきた。飲みの誘いが連日のようにメッセンジャーに届いて、「お酒飲めないので」と連絡を返しながら、家で一人、芋の水割りを飲んだ。

余りにも邪険にするものじゃないかと一度だけ付き合ったことがあったが、その際も自慢とくだらないセクハラばかりで時間の無駄オブザイヤーだった。一度飲みに付き合ったことで、図に乗ったのか、社内でもやけに積極的に接触を図ってきた。

話面白くないし、カッコよくないし、何より背がマジで小さい。

勘違いされてるのはお互いのためにならないなと、きっぱり、迷惑ですと伝えると、途端に手のひら返しだった。

周囲の人間に私からアプローチしてきた。気を持たせやがって。こっちだって迷惑なんだ。

盛んに騒ぎ立て、私は呆れた。

周囲も梶の人間性をわかっているから、本心ではそうでないことなど理解していたが、誰もわざわざ面倒なことに首を突っ込むことなどしない。腫れ物を扱うような反応になった。

別に社内に円滑な人間関係を求めているわけではなかったが、さすがに少しショックだった。

特に感情が上がり下がりすることない凪の勤務時間を過ごす日々が続いて、そうしたら、今度はアホに絡まれるようになったのだ。なんなの、マジで。橋下のボケ。

「でも、先輩、服くそダサいっすよね」

空気の読めないクソでかボイスが飲み会を止めた。橋下が酔った素振りで梶に向かってニヤニヤ笑いながらそう言っていた。だけど、私にはわかる。酔ってない。顔が全然赤くない。そもそも、あいつは今日、バナナジュースしか飲んでいない。刺身をバナナジュースで食っていて気持ち悪いなこいつと思ったから、確実だ。

「あ?なんなの?」

梶が怒りを剥き出しに橋下に詰め寄る。橋下は尚もヘラヘラしながら、唐揚げに箸を伸ばす。

「いや、すんません。服ダサいのになんか言ってんなって思っちゃって。あと、チビなのに」

飲み会が打って変わって、やべぇみたいな温度に変わる。

「おい、ちょっとお前来い」

梶が立ち上がって橋下を見下ろす。今にも足を出して蹴り飛ばしそうな勢いだ。顔もどす黒く醜悪に歪んでいる。

「嫌っすよ。俺、喧嘩弱いもん。殴られんのやだ」

それから一番近くの上司に助けてとばかりに身体を寄せた。この上司は橋下を特別可愛がってる変人だ。

上司は困った顔を浮かべながらも、「あー、酔ってんだな、こいつ。馬鹿だから。梶君、ごめんごめん。勘弁したげて」と橋下をフォローする。こんなの過失100で橋下の負けな案件だが、よくもまあ庇い立てするわと驚いた。

それほどまでに社内での人間関係を深められる橋下に感心すらした。

「いや、酔ってるとかじゃなくて、そいつ完全に俺に喧嘩売ってるじゃないですか」「いや、酔ってるよ、橋下は。めちゃくちゃ酒飲ませたからさっき」「そいつ飲んでるのバナナジュースじゃないですか。酔ってないんですよ」あ、バレてる。やば。「これ、チェイサーだから、チェイサー。な?橋下。な?」「はい、めっちゃチェイサーです」「やっぱ舐めてんだろ、てめぇコラ」「怖いんですけど」「ほら見ろ梶。折角の会が、ほら、酷い空気じゃん。梶さ、一回落ち着けよ」「いや、だから、なんで俺が悪い感じになってんの、そいつだろ、舐めたこと抜かしてるの」「あー、だから、そこは橋本の反省するところだな。うん、でも、今はすげえ酔ってるから仕方ない。堪えて」「だから、そいつ酔ってねえだろが!」ついに梶は橋下に手を伸ばした。だが、周囲がその動きを止めた。羽交い締めにされて、喚き散らす梶に上司は困り顔で言った。

「抑えてくれよ梶。だいたい、橋下でけえからお前負けるぞ身長差で」

この一言で堪え切れなくなった。

私は盛大に噴き出して、勢いよく背後の壁に頭をぶつけた。笑いが止まらない。

ゲラゲラと止めることのできない波が私の口から飛び出していく。

梶の顔なんて見る暇もない。

さっきまでの閉塞感の溢れる飲み屋の座敷が体育館くらいの大きさに広がったような気がした。私の笑い声に呼応してか、他の人間も笑いを漏らし始めた。梶は怒り心頭と言った感じで肩を怒らせ、店を出て行った。

「あー、めっちゃ怒ってるじゃん」「最後の一言は最高でしたね」

途端に盛り上がり始める宴席。私は抜きにして、梶の悪口が盛んに飛び交う。これがあいつの人間性で、この部署の人間性だ。

救われた気持ちよりも、うんざりした気持ちの方が先に出た。

「お前、あいつの分金出せよな。あと、俺の分」

上司が橋下の顔におしぼりをぶつけて、ニヤリと笑った。

「煙草も買いましょうか?」

「禁煙してるの知ってんだろ、ぶっ飛ばすぞ」

橋下はケラケラ笑いながら、席を立ち、私の隣にやってきた。

「恩でも売ったつもり?」

「なにが?」

私の刺々しい言葉にも橋下はどこ吹く風だ。

「俺、あいつ嫌いなんだよね」

橋下はバナナジュースを置いて、その隣にあったビールのジョッキを傾けた。時間が経ち、泡が既に消えていた。

こいつはきっとこれまでもこうだったんだろう。特に理由もなく、誰かを助けてきたし、誰かの敵になってきた。

私のように波風立てず、中庸を気取って苦しんでいく人間とは根本が違うのだ。

「奇遇だけど、私も」

だから、精一杯の反抗心で、乗ってやった。橋下のように生きようと、その瞬間だけ、中庸を辞めてみた。

「ははっ」

橋下は満足気にビールを飲んだ。

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