第2話
業務終わり、上長が「そろそろ店行くから仕事片付けろよ」とフロアに声をかけたのを見計らって、私はするりとフロアから逃げようとした。誰も私に興味を持ってないからできることだ。それなのに。
「俺、駿河さんと先に行ってきますね。店の人に人数とか伝えときたいので」
橋下は逃げる私に気が付いて、私の名前をフロア中に響き渡らせた。
「ああ、すまん。悪いな橋下。駿河もよろしく頼む」
既に立ち上がっている私を、どうやら率先して行動しようとしたのだと勘違いした上長が、申し訳なさそうに笑いかけてきた。
私はもう逃げることができなくなってしまった。橋下を睨みつけるが、彼はヘラヘラとスマホで地図を確認していた。
「痛ッ!」
エレベーターフロアで橋下の足を思い切り蹴った。橋下は倒れこみそうになりながら、数歩、跳ねた。巨大な杉の木に思えた。
「余計なことして」
「こういうとこで敵作るのは良くないぜ。円滑に行こう、円滑に」
橋下は涙目でエレベーターのボタンを押した。扉の奥でワイヤーの稼働音が微かに聞こえて、遥か下の方で開く音がした。
「いいよ、別に。嫌われたって」
私は半ば自棄になって呟く。橋下はさっきまでの笑顔の張り付いた顔を崩して、二回、まだ来ないエレベーターのボタンを押した。
「気、張りすぎなんじゃない」
その超然とした口調に私は一気に沸騰した。
「あんたに何がわかるんだ」
橋下は私とは違う。
気配りが上手く、仕事もできて、認めたくないけど、皆から愛されてる。私とは大違いだ。比べられる私の気も知らないで、偉そうに説教してんじゃねえ。
橋下は何も言わず、やってきたエレベーターにするりと乗り込んだ。私は黙ったまま不機嫌なオーラを吐き出し、わざとゆっくりエレベーターに乗り込んだ。
「疲れないの」
密閉されたエレベーターで逃げ場のない私に橋下はなおも心を踏み抜いてくる。黙ったまま下を向いて、この男が爆弾で消し飛んでくれないかなと不穏な想像を巡らせた。
会社から出て、居酒屋まで向かう道すがらも、わざとゆっくり歩く私の速度に合わせて、橋下は歩いた。前を歩く鳩に追いつけないほどの速度で私と橋下は居酒屋まで歩いた。
居酒屋の広い座敷に通されて、部署の人が来るのを待った。橋下はわざわざ私の前に座って、メニューを読んだり、座敷に置かれたレプリカ臭い陶器の底をのぞいたりしていた。
「蜘蛛の巣張ってるぞ。見てみろって」
「馬鹿じゃないの」
こういうどうにもならない空気が大嫌いで、私は会社が大嫌いになっている。橋下はなおも陶器をひっくり返したり、変な顔の鶏の描かれた掛け軸を値踏みしている。
「あんた、人生楽しそうでいいね」
嫌な口調だった。
成功している橋下の生き方を否定するように、自分を守るように告げたそんな言葉にも、橋下はけろっとした表情のまま笑っていた。
「案外、そうでもないよ」
だから、聞こえないほどの低音で橋下が零したそんな言葉は私の空耳なんだとその時は思った。
やがて、入り口から喧騒がやってきて、社内の人間がどっさり入ってきた。私は席を立ち、トイレと向かう。そんな私を橋下がじっと見ている視線に気がついていた。
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