第3話

動物園からの帰り、自宅の最寄駅の中華料理店でチャーハンを食べた。加代はレバニラ炒めを食べていた。中華料理店を出て、家までの道をゆっくり歩いた。

自宅マンションのエントランスの床に蛾の死体が転がっていた。鱗粉が血液のように流れ落ちていた。

目線をあげると、郵便受けから茶封筒が半分出てきているのに気がついた。郵便物は滅多にないので、珍しいこともあるものだと手に取った。宛名は橋下の名前だった。どきりとした。

動揺を悟られないようにすぐに鞄の中にしまった。しかし、その様子に気がついたのか、加代が背後から覗き見てきた。

「誰から?」

「ああ、大学の友達」

「ふうん。開けてみたら?」

促されるままに封を切った。

中には一枚の便箋と写真が同封されていた。便箋は手書きではなく、印刷されたものだった。



「はじめまして。

橋下の母です。突然のお便りで驚かれたかと思いますが、息子の意思に従って送付させていただきました。

息子は死にました。

アラブで紛争に巻き込まれ、死にました。

本人の選んだ道なので、そこに後悔はないと思いますが、息子は常々、「もし、俺が死んだら友達とか世話になった人に俺の撮った写真を送ってくれ。リストにしてるから」と言っていました。

母として、息子の言葉を遺言と思って、このように郵送させていただきました。

申し訳ありませんでした」



簡素な文面だった。手紙を描き慣れてはいないのだろう。橋下の母の文章は稚拙で評価できるものではなかった。しかし、だからこそ、どうしても書かなければならなかった信念のようなものが伝わってきた。

「大学の時の友達がさ、戦場でカメラマンやってたんだ。で、そいつが最近死んだんだ」

訳がわからない顔で手紙を覗き込む加代に説明した。不吉なことを今の時期に言うなと怒られるかと思ったが、そんな様子はなかった。

「そう」

神妙な顔で俯いた。

「あなた、あまり友達のこと話さないから。珍しいよね」

「俺もびっくりしてるんだよ」

代わり映えのしない日常にバグのような報せが入ってくる。それは非日常と呼んでも差し障りがないだろう。訃報にしろ吉報にしろ、自分達だけで完結した生活に割り込んでくる報せには慣れそうにない。

手紙を封筒にしまい、写真を手に取った。

写真には日本ではない何処か、恐らくはアジア圏の少年の姿が映っていた。少年は強張った表情で下手くそに笑っていた。道着なのだろうか、酷くシミのついた薄い服を着て何か構えを取っている。

写真の右隅には小さな傷のような文字で橋下のサインと「カンフー少年」と書かれていた。タイトルのセンスのなさに溜息が漏れてしまった。

「売れないはずだ」

自由を求めて足掻き続けた橋下の面白みのない真面目さを垣間見てしまった。

写真自体も決して出来のいいものはなかった。被写体はガチガチに緊張してしまっているし、構図も凡庸。何を撮りたいのかもわからない。何よりブレてしまっている。

どうしようもない駄作とは言えないけれど、ただ切り取っただけという印象だった。

それでも橋下は俺とは違う人生を歩んだのだと突きつけられた。自分で選んで、自分で進んで、自分で死んだのだ。それが形となって俺の手のひらの中にある。

自分の人生を振り返った。

特に努力もせず、なんとなく選んだ高校に進学し、なんとなく選んだ大学に進学し、運良く入った会社で忙殺される。仕事帰りに磯丸水産でホッケとハイボールを適当に飲んで、酔って寝る毎日だ。

俺にこんな写真が撮れるんだろうか。

いや、そもそも写真を撮ろうと思い至るだろうか。橋下が何を思ってカメラを手に取ったのか。それを知りたいと思った。

橋下が動物園でバイトをしているとき、目の前で草を食むキリンやゾウ、丁寧に切り分けられた肉を貪るライオンを見て何を感じたのか。戦場を駆ける野生動物と動物園の飼いならされた動物との違いを橋下は知っていたのだろうか。俺の知っている世界よりもさらに広くまでを見渡すことができた橋下に少し嫉妬した。

爆撃の音。硝煙の臭い。家族を殺された者の慟哭。砂を舞い上げる熱い風。

そのどれもが、俺の知らないものばかりだ。

橋下は俺の知らない世界を見ていて、その風景と時間とを手のひらの小さな機械で切り取って留めていた。

その不器用な写真の中に橋下の姿を見た。

ぼやけて記憶から薄まっている橋下のことを思い出そうとした。

初めて会った時。駄目だ。思い出せない。いつからか当たり前の顔してそこにいた。サークルでの思い出。駄目だ。橋下と特に印象深い体験をした覚えはない。授業もバイトも被ることはなかった。時折、構内で見かけて、お互いの仲のいい奴らと群れている時に軽く挨拶をするくらいだった。

霧のような記憶の中、ひとつだけ濃い色をした記憶があった。

同級生の、こいつも殆ど喋ったことがない、確か堀田とかいう名前の男が、デモに参加したんだ。一時期、世間を賑わせた憲法改正反対運動に嬉々として名乗りを上げていた。

そもそも政治に興味を持たなかった俺と友人達は過激化する活動に冷めた目を送っていた。何をそこまで熱心になれるのか。何を成し遂げたいのか。何も分からなかった。堀田が自分たちとは違う生き物だと思えた。SNSで熱弁を振るう堀田のアカウントをブロックした距離を置こうとした。

連日の活動の中、堀田が逮捕された。

警備の警察官を殴ったのだ。

堀田の手には木製のプラカードがあり、警察官は不運にもその巨大な木で頭を殴られ死亡した。世間は一気に加熱した。デモ運動を非難する声。堀田を非難する声。警察官を哀れむ声。連日、ワイドショーは騒ぎ続けた。

騒ぎ続けた結果、堀田は自殺した。首を吊って死んだ。

友人達は誰も葬式に行かなかった。そもそも誰も呼ばれもしなかった。

そんな中、橋下だけが参加したことを誰かから聞いた。呼ばれもしないのに、斎場に現れ、涙を流し、線香をあげたらしい。

橋下は「友達の最期くらい誰だって行くだろう」と理由を聞かれるたびに憤りながら答えていた。人を殺した堀田のことをまだ友達と呼べるのかと不謹慎にも感心したことを覚えている。

その日は久々な快晴だった。

学割の証明をもらいに構内にいた俺はその帰りに喫煙所に寄った。そこで橋下に会った。橋下は煙草を咥えながらカメラをいじっていた。フォーカスを合わせる動きをし、灰皿の側の噴水にレンズを向けていた。その背中に声を投げた。

「お前、堀田の葬式行ったんだって?」

突然の不躾な質問に橋下は顔をしかめて振り向いた。

「えーと、福島だっけ?」

橋下は俺の顔を見て、なんとか名前を呼んだ。お互い友人の友人という不確かな関係だったので、はっきり名前を覚えられているとは思わなかった。意外だった。

「堀田の家族どうだった」

「ん……。まあ、良い顔はしなかったな、やっぱり」

押し潰されたように低く橋下は唸った。

「呼ばれてないし、何より、恥ずかしかったんだろうな」

「まあ、人殺しだしな」

俺はわざと悪い言葉を使った。その時はまだ、世間に漂う正義感ってやつに浮かされていたし、そもそも、堀田のことを嫌っていたからだ。

「そうだな。あれは良くないことだ。誤解されたくないんだけど、俺は堀田のことを肯定するつもりはないよ。過程はどうあれ、結果としてあいつは人殺しだ」

橋下は意外にも侮蔑のこもった声色でそう漏らした。俺はずっと橋下は堀田のシンパなのだと思っていた。だからこそ、葬式にも参加したし、追求されると怒ったりしたのだと思っていた。

「好奇心か?あまり褒められたもんじゃないぞ」

「うん。好奇心って言えば好奇心からだな。良くないことだとは思ってるよ。人の気持ちを考えた行動じゃなかった」

「わかってるならなんで」

「俺、写真家になりたいんだよ」

突然の言葉に俺は面食らった。

その頃橋下は大手の企業に内定を決めていたことを俺は知っていた。誰もが憧れる有名企業に入りながらそんな世迷いごとを抜かす橋下に苛立ちを覚えた。

「だったら就活なんてやらなければよかっただろう」

その言葉は100%の嫉妬を持って発せられた。痛いところを突かれたように橋下は頷いた。

「俺はそのことをどこか恥ずかしいことみたいに思ってたみたいだ。無理だ。できるはずがない。そもそも何がやりたくて目指しているのか。揺るぎない確固たるものを持ってない」

俺と橋下は仲が良かったわけではない。だからこそ、その時そんな深くまで話をしたのだろう。橋下の言葉は嘘偽りなく、剥き出しのゼリーのように繊細に本心だった。

「堀田の葬式でさ、めちゃくちゃ対応悪くてさ、まあ、もちろん当たり前の話なんだけど。それでも、俺が感じたのは実の親ですら人を殺した子供に恥を感じていたってところなんだよ。もう、それを忘れてしまいたい。なかったことにしてしまいたい。終わらせるための儀式みたいな空気が漂っていたよ」

橋下はカメラを撫でた。メタリックな黒いボディが鈍く光った。

「俺は終わらせてやんねえぞ。そう思ったね。死んだ人、殺した人、残された人。それぞれに人生とか大切な人とかたくさんあった筈だ。それを一瞬の娯楽みたいに「終わりました、はい終了」って流してたまるかよ」

射竦められるような鋭い目だった。何かを憎んでいるわけでも、何かに怒ってるわけでもない。信念に突き動かされた目だった。

「俺は消費されていく今をどうにか永遠に留めたいんだ」

ゆっくりと言葉を紡ぐように橋下は言った。自分の言葉を確かめるように、自分の中に刻み込むように。

「誰もが忘れていくんだ。どんなに悲惨な事件も勇敢な行動でも、その瞬間は大きく取り上げても、いずれは消えていく。消費されていく。そうはさせない。誰かにとっての大切な今を、そう簡単に消費させてたまるか。俺がここに留めてやる」

「……ご立派なことだが、結局は野次馬根性だろう。それに……。内定を辞退するわけでもない」

俺の言葉に橋下はうつむくようにして笑った。聞こえのいい言葉を並べ立てる橋下に嗜虐的な気持ちになった。

「そうだな。それっぽい言葉を使ってるけど、結局俺はまだそれを選択できてない」

「どうするつもりだよ」

「今は無理だな。まだそこまでの覚悟がない。ひょっとしたらこの気持ちも磨耗して消えちゃうかもしれない。でも、もし、いつか俺が会社を辞めてカメラマンになったって噂を聞いたら、福島は俺が決断をしたって思ってくれ」

憑き物が落ちたように淡々と自らの理想を語る橋下に、俺は内心焦っていた。

なんでこいつはここまで自分の意思を持っているんだ。怖くないのだろうか。自分が矮小で凡庸であることをわざわざ突きつけられにいく行為を嬉々として選択しようとしている。

「自分の人生を生きている奴を撮りたい。不条理が壊したそんな奴らの人生を刻み込んでやりたい」

橋下はどこか遠くを見つめていた。

短く切り揃えた髪の毛に何処からか飛んで来ていた蒲公英の綿毛が付いていた。

「それが俺の生き方になるといいな」

橋下は自嘲気味に言った。しかし、その表情は晴れ晴れとしていた。

「お前も撮ってみたい」

カメラを俺に向ける。銃口を突きつけられたような寒気がした。俺の人生がその場で終わってしまう、否定される気分になった。

「やめてくれ。今の俺は駄目だよ。全然駄目だ。なんにもできない」

逃げるようにしてレンズの動線から外れた。ちっぽけな自分が見透かされたようで、それが怖かった。

「じゃあ、約束だ。俺がいつかカメラマンになって、お前が自分の人生を生きているって胸張って言えるようになった時、俺はお前を撮るよ」

悪戯っぽく笑う橋下はもう既にカメラを降ろしていた。その姿に安堵と同時に期待に似た感情が産まれた。

橋下を通して、いつか未来の俺が生き生きと自分らしく過ごしている光景を見た。そうあってほしいと思えた。

「何年後の話だよ」

「さあ、数年後、数十年後、もしかしたら来ないかもしれない」

そう言って橋下は立ち上がった。煙草を吸う俺を残してその場を後にした。

「じゃあ、またな。福島。お前と話せて良かったよ」

社交辞令に過ぎない言葉だったが、橋下のその言葉がやけに嬉しかった。




固い地盤から掘り起こされる化石のようにして、橋下との会話が思い起こされていく。

なんだ、俺は橋下が写真を撮る理由を聞いていたじゃないか。ただ、忘れていただけだ。いや、もしかしたら、この記憶は今の俺が都合のいいように勝手に捏造して作り上げただけなのかもしれない。しかし、今の俺がそのように思っているということに意味がある。

橋下は消費されていく何かを留めたいとカメラを取った。ただ時間の中で磨耗し、砂となって消えるものをピンで固定するように、形にして残していきたいと。

「お前も撮ってみたい」

冗談ぽく笑う橋下の顔を思い出した。その顔はこれまでの靄のかかった淡いものではなく、ビビッドな写真のように鮮明だった。

俺はきっとまだ、橋下に撮ってもらえるようなモデルではないのだろう。あの頃と何も変わっていない。決断を自分でできず、流されていくだけの人生。そして、橋下が死んだ今、俺を撮ってくれる人間は完全にこの世界からいなくなったのだ。

涙が出た。

自分でも理由はわからないのだが、涙が出た。何度も言うが、俺は橋下と親しかった訳ではない。そもそも、彼の死を初めて聞いた時、俺はそれを囃し立てた筈だ。彼の死を娯楽として消費したのだ。それなのに、何故。

「なんでなんだろ」

俺は止めることができない涙を抑えて、嗚咽した。封筒は手のひらの汗でぐちゃぐちゃになってしまった。この世界に俺の頑張りを認めてくれる人間が誰も居なくなったと思った。

かしゃり。

スマホの撮影音が聞こえた。

加代が俺にスマホのカメラを向けていた。

「ごめん、泣いてるなんて珍しかったから」

呆気にとられながら、スマホを覗き込む加代の姿をじっと見た。

この世界で俺を撮ってくれる人間が橋下以外にいた。俺はまだ何にも決断ができていないけれど、きっとこれから先、どこかのタイミングで変わることができるのだろう。小さな変化だろうが大きな変化だろうが、それは確かに変化だ。

その瞬間を撮ってくれる誰かがいる。それだけで心強いのは錯覚だろうか。

加代の手を握る。そのまま、彼女の腹を撫でる。

「動かないな」

「まだ三ヶ月なんだから、蹴ったりしないわよ」

加代は呆れたように微笑んだ。

蹴り返してこなくとも、今、ここに俺の子供がいるのだろう。これまで少しも認めることができなかった事実がやけにすんなりと胸に入ってきた。

「子供服って、どこに売ってるんだ?」

俺の突然の言葉に加代は面食らったようだったが、しかし、すぐに破顔した。嬉しそうに俺の手を取った。

「気が早いよ。まだ男の子か女の子かもわからないのに」




吉田にメールをした。

橋下から便りが届いていなかったか、中にはどんな写真が入っていたのかを聞いた。

案の定、吉田にも封筒は届いていたらしい。

ただ、気味が悪いと封を開けずに捨てたらしかった。吉田のもとに届いた写真には何が映っていたのか。

それが無性に気になった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

私を撮ってくれる誰か 寺田 @soegi-soetarou

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ