第2話
動物園に行きたい。
休日の朝、突然そんなことを言い出した加代に連れられて、上野にまで足を運んだ。仕事の疲れが取れていないし、動物に興味があるわけでもなく、あまり乗り気ではなかった。それでもわざわざ付いてきたのは、先日の橋下のことがあったからかもしれない。
「なんで動物園?」
早起きして作った弁当を持ち、電車の優先座席に座った加代がこちらを見上げた。
「パンダの赤ちゃん産まれたんだって。見とかないと」
加代は自分の腹を優しく撫でていた。その所作に母親の慈愛が宿って見えた。
少し、怖かった。
三ヶ月ほど前に懐妊し、その瞬間から妻から母へとパチリとスイッチが切り替わった加代は日毎に俺の知っている加代ではなくなっていく。子を身ごもった瞬間から母親を意識する女性と、まだ父親になることを実感できない自分との違いをまざまざと見せつけられている気がする。
「そういうのってご利益あるの?」
「どうだろう。でも、なんか良くない?愛される子になって欲しいし」
加代の言葉にゾッとしたが、気づかれないよう振る舞った。
俺は蜘蛛が嫌いだ。
嫌悪感を抱き、見ただけで潰しにかかるほどに嫌いだ。先日、リビングに出現した時、いつものようにティッシュを持って潰そうとした。
「やめて!」
ヒステリックとも呼べる金切り声を上げて、加代が俺の手からティッシュを奪った。鬼のような顔で俺を睨んでいた。
「殺生は駄目だよ」
「いや、でも」
「駄目なの。神様が怒るでしょ。親の行いで子供に迷惑かけられない」
加代の顔は菩薩のように柔らかくなった。
遠い過去の母の顔を思い出した。
何も言えなくなり、手に持ったティッシュをそのままゴミ箱に捨てた。
最近の加代からはそんな圧力を感じる。本人はそのつもりがないだろうし、父親であることを強要されているわけでもない。しかし、ただ完璧にあろうとする姿に準備不足の自分が責められている気になってしまう。
勿論、俺も子供ができて嬉しいのだが、それでも加代は全てが早すぎるのだ。納得も覚悟も、準備も。
その状態で急に具体的な話をされると恐怖が先に現れてしまう。俺には想像力がまだ追いついていない。俺はいつの間に大人になったのだろう。就職にしろ、結婚にしろ、大人だと確信を得るにはどちらも不足だった。それは勝手にベルトコンベアの上を流されていく荷物に似ている。
それでも、子供ができることだけは別だ。父になるのだ。大人でないわけがない。いまだ実感を伴わず、そうあるべきと言いたげな社会のルールに付いていくことができていない。
俺が父になんてなっていいのだろうか。
「着いたよ、降りないの?」
加代の声に我に帰った。電車は緩やかにスピードを落としている。
「ああ、ごめん。ボーッとしてた」
慌ててリュックサックを抱えてホームに降りた。むわっとした熱気がホームのアスファルトから上がってきた。
改札口を探し、辺りを見回す加代を一歩後ろから眺める。腹回りの緩い白いワンピースを着ている。子供っぽいデザインで、年齢的にキツイと思っていたが、こうして後ろから見ると、小柄な体型によく似合っている。
「日傘とか持ってきた?暑いよ、今日」
「大丈夫。準備万端」
何をどうしたらそんなに物が入るのか、小さなポーチから折りたたみの日傘と凍ったスポーツドリンクを取り出して、ニコニコと微笑んだ。
「ビール買ってく?」
「園内ってお酒大丈夫なの?」
なんとなくダメな気がする。少なくとも、動物園で酒を飲んでいる大人を俺はみたことがない。
「じゃあ、コンビニで飲み干して。それから行こう。私、飲まないけど」
「俺がただ酒を一気飲みするだけなのか」
「楽しそうじゃない」
加代はご機嫌だ。
外出に付き合ったことが余程嬉しいらしい。俺も、加代が笑っているなら問題ない。日頃からヒステリックを起こす性格ではないし、胸に溜め込むタイプでもない。ただ、妊娠してからの変化が先日のように、影響を与えるかもしれない。そうではないという根拠のようなものを感じて、少しだけ安心した。
駅の改札を抜け、しばらく歩くと濃い動物の匂いがした。脇にあったコンビニで言われた通りに缶ビールの350mlを購入して飲んだ。うっすらと額に浮かんだ汗の分の水分を補給できた。
喉の奥から鼻にかけて抜けるように感じるアルコールの風味とホップの苦味が心地よかった。加代は幅の広い帽子を深く被り直して、俺がビールを飲む姿をスマホで撮影していた。
「何がおもしろいの」
クスクス笑う加代に尋ねた。
「別に〜。急いで飲んでて可笑しいから」
「待たせてると思ってるんだよ」
缶ビールを垂直に傾けて、喉奥に流し込んだ。ビールはアルコール度数が低い割にすぐに酔いがまわる。若干揺れる視界を心地よく思い、動物園へと向かう。
受付で紙幣を二枚手渡し、案内に従い、園内に入る。途端、さっきまで漏れ出ていた動物の臭いを強く感じた。
パンフレットを団扇代わりに使い、パタパタと扇ぐ。熱い風がアルコールに火照った身体から汗を噴きださせる。
「パンダから見ていく?」
「ん。でも、今の時間じゃ混んでるから他を見てからにしよう」
そう言って歩き始めた加代に付いて、少し後ろを緩慢に歩いた。水はけの良い土がスニーカーの裏をじゃりじゃりとなぞる。色とりどりの極楽鳥を横目に、猿の鳴き声を耳に聴く。遥か先に黄土色の長いシルエットが見えた。キリンだ。キリンが高くそびえ立つ塔のように首を伸ばし、草を食んでいる。
自分を見上げる人々の視線をなんでもないことのように無視し、野生を忘れ、緩慢に食事を続ける。黒く深い目の中にサバンナは映っていない。ただ、箱庭に過ぎない檻と代わり映えのしない景色だけが彼の一生の風景なのだ。
「大きいね」
まるでキリンを初めて見たような様子で感嘆の声を上げる加代にスマホのカメラを向けた。非常口のマークのポーズを取る加代。理由はわからないが、昔からカメラを向けるとこのポーズを取る。キリンをバックに非常口のマークの小柄な女が映った滑稽な一枚だった。コンパスのようなシルエットのキリンの中央に加代がいる。
「脚が細いな」
俺の言葉に加代は最近太ってきたと言う脚を隠す。キリンの脚について言ったのだが、睨みつけてくる加代に笑いかけた。
「イヤミな奴め」
「そろそろ、パンダを見に行かないか」
話を変えるようにパンダの展示場の方向に向かって進む。展示場に近づくにつれて、どこからともなく人の群れができてきた。嬌声を上げて集まる集団に加わり、列が進むのを待つ。
潰れる勢いで群れる一団を見てミツバチボールを思い出した。天敵であるスズメバチを大勢の仲間で押さえ込み、身体を震わせ熱を発して蒸し殺す、あのミツバチボールのことだ。幸いにして、誰も蒸し殺されてはいないが、パンダを見るためだけにこんな思いをするなんて馬鹿な行為だと思った。
「見える?」
「見えるよ」
「嘘だろ」
つま先を伸ばし、加代がぴょこぴょこと跳ねる。小柄な加代にはこの人混みからパンダの姿を見ることなど出来ないはずだ。
「見える見える。ほら、小さな玉みたいにころころしてる」
見るとガラスの奥にビー玉サイズの白い毛玉がちらりと映る。あれをパンダと呼べるのか。
「かわい〜」
加代はそれでも満足そうに笑っている。他の人間がするように夢中になってスマホでシャッターを切っている。本来の目的であるパンダの赤ちゃんは現在、面会謝絶だそうだ。
加代に習ってスマホを構えてみる。小さな画面の中に溢れんばかりの人と、その向こうの小さな箱庭に転がる毛玉が映り込んだ。
かしゃり。と空間を裂く音が一瞬、静止を産んで、それから、緩やかに喧騒が続く。今、俺は画面の中に時間を留めた。
「撮れた?」
「毛玉なら撮れたよ」
「もっと前に行かなきゃ駄目ね」
加代は人混みの中をスイスイと泳いでいく。見失いそうになりながら、彼女の白いワンピースを必死に追った。
無理をした甲斐があり、なんとかパンダをパンダと認識できる距離にまで来た。加代はさっきからスマホを構えっぱなしだ。
しかし、俺はどうにももう写真を撮ろうとは思えなくなっていた。橋下だったらどんな風に写真を撮っただろうか。少なくとも、今、俺が撮ったパンダがパンダと認識できない写真では満足しないのだろう。
シャッターを切り続ける加代の旋毛を眺め続けた。
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