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大学へ向かう道のりをわたしはほとんど忘れていた。積雪によって道の見え方が変わっているせいかもわからなかったが、それだけ大学に寄り付いていないということだった。雪の坂道を登るとき日光の照り返しが目に刺さって、前夜一睡もしなかった眼底が痙攣するように痛んだ。眠気のために、意識は小さな炎のようにぶれてゆれていた。空はきっと晴れていたのだが見上げる気分にはなれなかった。瞳が焼かれ潰されるような気がしたからだ。大きな通りに出ると駅のほうから人がちらほら歩いてきて大学に向かっていた。わたしはその流れに乗った。
通りの車道は雪が溶かされ、アスファルトの黒さが剥き出しになっていたが、いまだに轍の間や中央線にみぞれっぽい塊がたまっていた。車が走るとそれらが湿った音をたてた。コンビニの駐車場は一面雪だった。車止めが完全に埋もれているのでどこに車を停めるべきか見当もつかない。白い地面は足あとに固められていた。
この時代はネット上で合否がわかるようになっているから大学まで出向かなくてもよい。この雪の中をわざわざ歩いてやってくる人々は感動を追い求め過ぎているかパソコンをもっていないのだ。パソコンがないなら買うべきだろうと思う。合否に感動を求めるなら勉強のし過ぎだ。
わたしは信号で少し立ち止まってから渡った。大三を初めて意識したのがおよそ十年前で、わたしは十歳だった。四穂はもう二十歳になろうとしている。わたしもほとんど二十歳のようなものだった。大学の正門の前に雪が盛り上げられていた。その雪の山の向こうから人のざわめく音がきこえてきた。
雪の山を回りこんで人ごみを目にする。そこには背の高い掲示板が横に並んでいて、彼らは首を伸ばしてそれを見上げていた。わたしの乗っていた流れはその人ごみに合流して止まった。人々がするのと同じようにわたしもまた掲示板を見上げた。目に光が刺さって少し痛かった。人はそれほど多くなかったが、頻繁に誰かと体がぶつかった。みんな口をぽかんと開けて何かを探していた。わたしはよんぜろよんぜろはちきゅーきゅーいちを探す。眠気でかすむ瞳を掲示板に走らせた。しかしその数字は見つからなかった。掲示板の隅から隅まで調べたわけではない。それでも数字の不在は明らかだった。掲示板に並ぶ数字はすべて七桁だったのだ。さらに数字の上から三桁は〇一七であった。一分も待たずわたしは落胆した。何も知らない人が傍から見たら、わたしは哀れな受験生でしかないだろう。哀れであるという点は正しいのだろうが。
わたしは来た道をさかのぼって四穂の家に帰った。玄関先の雪は削り取られ、わきにたまっていた。四穂がやったのだ。屋根の雪の張りだしたのが崩れてきそうだった。玄関に入ると四穂が階段を降りてきて、おかえり、といった。「外に出るなんて珍しいわね。どこに行ってたの?」
「スーパーにお酒を買いに行ってたの」
「どうして?」
「わたしも自分のお酒が飲みたくなったのよ。ちゃんとしたおいしいやつが」
「ジンだっていいじゃない」
「わたしと四穂が二人でバーで呑んだとき、わたし、ピーチフィズってやつのんでいたじゃない」
覚えてないと四穂はいった。
「わたし、あれが忘れられなくて買いにいったのよ」
「で、買ってきたの?」
「店中探しても売ってなかった」
「あれは混ぜ物なんだから、完成品は売ってないわよ。リキュールを買わなきゃ」
「そんなこと知らないもの」
「桃のリキュールを炭酸で割るのよ」と四穂はいった。
わたしは玄関を上がって居間に向かおうとした。
「わたし今日は疲れた」
「まだ午前中なのに?」
居間に入ると、お父さんはこたつに入ったまま仰向けに寝転んでいた。色メガネを外して目を閉じているが、眠っているかどうかわからない。
四穂が背後から「大三くんは受かっていた?」といってきた。その声は楽しそうだった。
「わたしは受かってほしくないけど」とわたしはいった。
その日から雪は降っていない。空は、どれだけ雪を送っても人々に無視を決められるから興覚めしてやめたようだった。雪が止んでポストにちらしが入るようになったと四穂は文句をいった。ほとんどがレストランのちらしだったがこの家には無縁である。日差しは急激に強まり、攻撃的に輝いた。雪は高いところから先に溶け、下に落ち溜まるのだった。季節が変化するのを日ごとに感じることができたが、それでも春はまだ遠くのほうにあるらしい。雪が降らなくなったというだけでここは冬にあるのだ。そういった感じで春休みという季節は過ぎていった。四穂には番号のことは訊かなかった。わたしたちは特別な言葉なしに了解していた。大三は存在しない。それは番号が存在しないのと同じくらい確かなことだ。お父さんとの話し合いも着々と進んだ。お父さんには目的があり、わたしはお父さんに手段を与えた。四穂はこれを知らない。
お父さんと四穂は夕ご飯を食べながらときどきわたしに説教した。わたしが単位を山ほど落としたことをよろしくなく思っているのだ。これは彼らにはまったく関係ないことであった。が、そうはいい返さなかった。お父さんはふわふわと、四穂は厳然とわたしを詰めた。わたしは、はい、はい、とうなずく。危機感は湧いてこなかった。結局それはわたしの決めることで、春休みの前にわたしがずっと入り浸っていたときも彼らは一言も説教しなかった。今になって彼らがこういうのは、勉強至上主義でなく、わたしへの気遣いのためだ。わたしは受け止めたとしても飲み込まない。
それから、酒屋でクレーム・ド・ペシェとソーダを買ってきてピーチフィズを作った。おそらくそれはバーでのんだ通りのレシピではないだろう。四穂にのませると、「こんな味だったかしら」といった。
「これよ。これが飲みたかったの」とわたしはいった。でも本当のところ味の違いなどわからないのだった。
わたしはその日ピーチフィズを四杯のんだ。春休みが終わる三日前だった。
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