7
お父さんとわたしが二人で過ごす時間が増えた。四穂に家事をやらせているあいだは居間に引きこもっていた。彼女の家事には明確な体系があった。個々の仕事が蜘蛛の巣のようにつながりあって無駄がない。わたしたちがひとつの仕事に手を出せば、組み上げられたネットワークのすべてを崩してしまうことになる。だからわたしたちは素直に仕事から排他されていた。居間には仕事はなかった。
四穂は相対的に孤独になったといえた。わたしとお父さんは日ごとに関係を深めていくが、四穂はまだわたしのことをあまり知らないし、わたしも四穂のことを知らない。会話の回数は減らなかったが内容は貧しかった。喧嘩はしないけれど、まるで更年期の母親か反抗期の娘みたいに冷淡だった。お父さんも「四穂ちゃん、また機嫌がわるくなっちゃったね」といった。四穂がわたしたちの相談を悟っている風なところはなかった。
大三のことは片時も忘れなかった。ベッドの中でその存在をきいた次の朝から、頭の中に数字として圧縮されて埋め込まれていた。大三について考えるとき、わたしは必ずよんぜろよんぜろはちきゅーきゅーいちについて考えることになった。もちろん、それが同名の別人である可能性のほうが高い。しかし、仮に同名の別人だとしても、彼を一種の大三として考えていいような気がしてきた。新しい大三として採用してもいい。ただ単に、姿かたちと性格が変わっただけなのだ。四穂が大三の存在を疑ったように、わたしも怪しくなってきていた。大三と名乗る男を何人か用意し、わたしの前に並べ、どれが本物の大三か当てようとしたところで、もはや見当はつかないかもしれない。わたしの中で、よんぜろよんぜろはちきゅーきゅーいちか、湯呑み茶わんとしてしか実感できないくらい、大三は記号化されていた――というのは冗談で、わたしはすごく期待していて、期待する自分を否定するためにおどけた発想を繰りかえしたのだった。過去に見る自己というのがいかに痛々しく映るか。いわばわたしは大三的な処女なのだった。経験が浅く、思考が単純で、勘違いが激しい。
飄六玉の湯呑みを一回だけ使った。四穂がジンの大瓶を買ってきてジントニックを作り台所でひとり呑んでいた。彼女が家で酒を呑むのは初めて見た。わたしに見つかると、四穂はタンブラーに口をつけたままわたしから顔を逸らした。わたしがどうして居間で呑まないのかと訊くと、お父さんに呑まれるのが嫌なの、といった。顔が少し赤かった。四穂は食器棚からわたしの湯呑みを取って、ジンをほんの一センチだけ注いでくれた。わたしはお酒など欲しい気分でなかったが受け取った。考えてみれば、この家にきて初めて飄六玉の湯呑みを使ったのだった。
ロックでもなかった。ストレートのジンは雑草みたいな味がした。刈り捨てられ腐って酸味を帯びた雑草である。わたしは文句をいいながらちびちび呑んだ。四穂はそれを創作の味といった。彼女は酔っていたのだ。ジンを減らすにつれて胃が焼け心臓が大きく鳴った。唇が痛んだ。わたしはそれを何かで割りたかったのだが、割るものがない。トニックウォーターはどこからともなく現れどこへともなく消えたのよ、と四穂はいった。これが彼女の酔い方なのだった。
「どうして急にお酒なんて買ってきたの? 今までにあった?」とわたしは訊いた。
四穂はいった。「最近、春休みに入ってからずっと調子が悪かったのよ。だからね、元に戻そうって」
「体調が悪いわけでなくて?」
「気持ちがだるいのよ。空気が少しだけ抜けた浮き輪みたいに、当てにならない感じがするの。どうしてかしら……」、四穂はコップに口をつけた。「たぶん私の問題だと思う」
「わたしが住みはじめたからじゃないの? わたし、何かあったらいつでも出ていけるから。準備はすぐにできる」
しかし彼女は首を振った。「違う。私の問題」
四穂はジントニックを干した。わたしは半分以上残ったジンを流しに捨てた。飲もうと思えばまだ飲めるくらいには素面だったが、これ以上は悪いことを招き寄せそうな気がしたのだ。止まっている換気扇の汚れを見ていた。
「明日、合格発表なんだって」と四穂はいった。
「へえ」
「見に行かないの? 掲示板が出てるわよ」
「一年前だったらね」
「大三くんが受かってるかもしれないのに?」
わたしは声を出さずに笑った。彼女はわたしの笑った顔を精査するように見つめていた。
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