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 春休みに入って間もなく大学の二次試験が行われた。つまり朝から昼すぎまで志願者に問題を解かせ、採点し、点数の高かった順に取っていこうということだ。その日もわたしは関係がないので昼まで寝ていた。が、四穂は朝早くに大学へ出ていった。出ていくときにわたしの枕元で彼女は、替え玉受験のバイトに行くの、といった。寝ぼけた頭には冗談だと判断できなかった。わたしは目覚めない掠れた声で、ばれないように、といった。

「違うわよ。試験監督の手伝いに行くの」、四穂はわたしの頭をはたいた。「悪いんだけど、お父さんに朝ご飯を食べさせてやってくれない? 七時ごろには起きるから。食べさせるっていっても、手に持たせるだけで大丈夫よ」

 朝食と昼食が冷蔵庫の中にあることをいうと四穂は静かに遠ざかっていった。

 わたしは、わかった、といって眠りに戻った。

 目覚めたときカーテンを透かしてくる外の明るさが暗かったのでまだ朝も早い段階だと思った。わたしはゆっくりベッドから出、服を着、横の髪を手ぐしで整えながら一階へ降りた。

 お父さんは居間で紙を読んでいた。わたしが襖を開けると顔を上げてこちらを振り向いた。四穂から頼まれていたことを思いだした。

 おはようとお父さんがいったのでおはようございますと返す。

「もう朝ご飯は食べました?」、わたしはきいた。

「まだ食べてないよ」

「じゃあ今から出しますね」

 台所につながる襖を開けた。

「たぶん、もうお昼ご飯になるけどね」

 このときまでわたしは時間を確かめていなかった。遅かったとしても八時だろうと思っていた。しかしとっさに目をやった時計は十二時の十五分前を示していた。

 ぞっとした。昼まで寝過ごしてしまったことに対してでなく、この男が朝食を食べずに平然と小説を読んで、わたしを起こそうともしなかったことに対してである。焦っている風もない。この男は四穂がいなければ本当に死にかねないのだ。盲目の人として、朝食にありつけないことにもっと恐怖を感じるべきなのだ。朝食にありつけないとき、昼食にも夕食にもありつけないのかもしれないとは考えなかったのか。冷蔵庫の中に用意してある朝食すらも自分の意志で食べられないのだ。問題はただ盲目にあるだけでなく、より大きなものとして、四穂による過保護にあった。朝食を食べない理由になるためには、盲目はあまりにも弱すぎる。しかしそれを受け入れてしまうくらいに彼は楽観し、想像力を欠いていた。まるでスポイルされた動物みたいだ。

 わたしは起きるのが遅くなったことを謝った。そして意見した。次もしこういうことがあったら気遣い無用で起こしに来てもらって構わない、あるいはこんなことをいうのは何だけど、わたしも四穂もいない場合は自分でいろいろとできるようにした方がいい、と。

「大丈夫だよ。わかってるから」、お父さんは軽くいった。「今日はゆきちゃんがいるって知ってたから」

 そういう問題ではないのだった。

 冷蔵庫を開けると朝食はすぐに目についた。白米と卵焼きと漬物である。食べやすいように並べてある。その隣に昼食としてサンドウィッチが置いてあった。いずれも二人分だ。わたしはとりあえず朝食を居間にもっていった。

 お父さんの食事は不器用なので時間がかかる。わたしが直接食べさせたほうがはるかに速いだろう。しかしそうすることによって彼がもっとだめになるのだ。わたしも朝食を食べた。卵焼きは冷えていても美味しかった。

「ゆきちゃんっていま何歳なの?」とお父さんは訊いてきた。

 箸が止まる。「十九です」

「誕生日は?」

「九月一日です」

「ふうん、まだ先だね」

 お父さんは米の塊を口に入れて咀嚼した。

「毎年夏休み明け初日なんですよ」

「うん」

「だから夏休みが終わるの嫌じゃなかったんです」

「うん」

 朝食は大した量ではなかった。わたしが食べ終えたとき、お父さんはまだ卵焼きを残していた。

「四穂って普段アルバイトしてないですよね」とわたしは訊いた。

「うん。たぶん」

「今日みたいに即日のバイト以外やってないのって、やっぱり家事が大変だからなんですかね」

「どうだろうね」

「なんというか」、言葉が濁る。「自分のためにもできることはやっていったほうがいいと思うんですよ。……たとえば自分でご飯を取りに行くとか」

 お父さんは困ったように笑った。「……そうだね、そのくらいはできないと。でも、そもそもが限られているし、四穂がやらせてくれないんだよ。いいたいことは分かるよ」

 わたしのいいたいことがそういうことだったのか自分でもわからない。後先考えず口に出したのだ。わたしはそれ以上言葉をつなげられなかった。わたしもまた自分でできることを四穂に奪われた身なのだった。

「できることといったら、相談することくらいだよ」とお父さんはいった。

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