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 新しい生活はわたしを戸惑わせることなく平然と流れた。元々あの家に入り浸っていたというのもあるのだろうが、四穂とお父さんとの関係は家族と呼ぶのが怪しくなるほど乾燥していたし、この空間を家庭と呼ぶにはあまりにも事務的だった。そういった状況がわたしに入り込むすき間を与えていたのだ。それは四穂一人の過程といえば一番しっくりくる。彼女は毎日朝昼晩のご飯をつくり、水回りの掃除をし、洗濯機を回す。週に四度分別したごみを出して、近所のスーパーへ買い物に行く。洗濯機には乾燥機能が付いているから手間を省けるが、それでも服をたたむ必要がある。彼女はすべてを受け持っていた。お父さんの朝食と昼食に彼女は付き合い、必要であれば手助けをする。昼食は基本おにぎりかサンドイッチなどを作って居間に置いておく。そうすると自動的にお父さんが平らげるのだ。

 無論お父さんは、そしてわたしも、家事を手伝わない。手伝わせてもらえないからだ。彼女は他人と協力するよりも自分一人でやったほうが速いと考えていた。そして実際その通りなのだった。わたしがひとつの仕事を片付けるのにかかる時間よりも、彼女が五つの仕事をこなしながら片手間でその仕事をやる時間のほうが短かった。加えて、驚くことに、大学に通いながらでも彼女は自分の時間を持っていた。成績も上位だった。

 お父さんは彼女の仕事量には気づいていない。でもそれは当然といえば当然で、生まれて来し方家事などというものに手を染めていない人間にとっては、それら全般が自然現象に変わりないのである。わたしもそうだったのだ。お父さんが、相模原にいる四穂のいとこと四穂とを比較し、いとこのほうを持ち上げていたという話を思い出すにつけて、お父さんには見る目がなかったのだなと憐れんだ。あるいは見えていたとしても遠くのほうしか見えていなかったのだ。老眼である。

 居候を始めたばかりのころ、四穂の容量の良さを知って手放しに褒めた。そのとき、彼女はそれを認めたうえで「こういうのを恵まれているっていうのよ。自分でも不思議なくらい手際がいいの。マルチタスクでマルチタスクができるくらいよ。だから料理とか掃除で忙しい忙しいっていう人には全然共感できない。普段は適当に話を合わせるんだけどね」と悪びれない。

「家事が一切なくなったらって考えたことないの?」とわたしはきいた。「そしたらもっと自分の時間が作れるじゃない」

 そうでもない、と彼女はいった。「一日のうちにある程度単純作業をする時間が必要なの。家事をしながら頭の中で全然関係ない、くだらないことを考えてるのよ。そういうのって、普通なら授業中だとか暇な時間にするものでしょ。でもね、私にはくだらない妄想って動きながらじゃないとできないの。妄想する時間が自分の時間なのよ。だから誰にも手伝ってほしくない。」

「四穂も大分変わってる」

「あんたは暇な時間にするタイプなの?」

「どっちでもできる」

「あらそう」と彼女はいった。

 ちょうど洗濯物を畳んでいる最中だった。彼女はわたしと会話しながら淡々と洋服を仕分けして重ねていく。そしてわたしの目を見なかった。四穂はわたしと話しながらでもくだらない想像をしているのかもしれない。

「そういえば四穂と初めて会ったのはバーだったじゃない」とわたしはいった。

「正確にいえば、それより前のカフェだったけど」

「あの日もそうよ。あのとき、お父さんはどうしてたの? 家にほったらかしにしてたの?」

「さあ、どうだったかしら」、四穂は天井を見上げた。「夕食を遅くしたんじゃないかしら。別に珍しいことでもないし。バーのときは夕食の後に往来に会ったのよ」

 わたしは四穂の粗を探そうとしたのだった。完全な円が作図できないのと同じように、彼女にもほのかな凹凸があるかもしれない。そのとっかかりが、わたしが彼女と対等になるためには必要だった。わたしとお父さんの存在が、まるで彼女のルーティンに含まれた一つの単純作業であるように思えてくる。考えすぎであったとしても現実的だった。

 長く続いた晴れの日はだんだんと雲に覆われてゆき、春休みが始まる一週間前にはまた雪が降り始めた。新潟の放送局はこれについて三十年に一度の大雪だと表現した。新潟の雪は年によって降り方が異なる。内陸部に多く降る年と沿岸部に多く降る年があって、ほとんどの場合は前者になるのだが、今年は後者の年で、その中でも際立っているのだという。まだ雪は降りつづけるだろう、とお天気キャスターは他人事のようにいった。二月が終わろうとしているのに、むしろ積雪は嵩を増していった。それでも大学は休みにならない。四穂は毎朝、二倍くらいの太さになって登校していった。いったい四穂以外の誰が大学に行っているのだろうか。大きな疑問だった。学期が終わった瞬間、わたしはたくさんの単位を落とした。それがあまりにも多すぎたから大学から呼び出しがかかったくらいである。しかしわたしは行かなかった。

 春休みの期間中に大学構内に入ったのはたったの一度きりである。わたしは大三を探さなければならなかったのだ。

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