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 お父さんの発言はわたしを本気にさせるには十分過ぎるほど軽かった。わたしはお父さんと話したあと、一旦自宅に帰った。そして一週間分の洋服の着替えと生活に必要なものと箸をバッグに詰め込んだ。玄関に立って整っているともいえない部屋を見返し、忘れ物はないかどうか確かめた。このときわたしは胸の内側にくっついた粘体のようなものを感覚した。つまり、自分が忘れ物をしかけているということなのだった。そのためにわたしは五分以上も立ち尽くさなければならなかった。

 わたしの頭の中では、四穂の家で生活するために必要なものがひとつひとつ取り出され、厳しい精査を受けていた。家の中での生活を思い出しているうちに、それが湯呑み茶わんであることをわたしは思い出した。飄六玉の湯呑みである。わたしはお父さんの予備の湯飲みを借りていたのだった。いつどこにそれをしまったのか、見当をつけるのに時間はかからなかった。わたしはキッチンの上の食器棚を漁り、いちばん奥からほこりのかすかに積もったそれを引っ張り出した。その湯呑みはわたしの手を冷たくし、落ち着けた。あの感触だった。

 わたしは右手に茶わんを握りしめたままアパートを出た。昼間の日差しを受けた雪は表面だけ溶けだして夜になると固まる。これを毎日繰り返して雪はなめらかになっていく。その日の雪はまだスノーブーツのエッジが刺さる程度にはやわらかかった。とくに意味もなく、雪の上をぎこちなく走った。砂浜を走るよりも疲れる。下を向くと、白さが限りなく長いフラッシュのようにわたしを照らした。目が痛くなるので上を向いた。むらのないのっぺりとした空だった。


 夕方、大学から帰ってきた四穂はわたしの荷物を見、驚いた声を上げた。荷物の多さにではなく、わたしの服を四穂の部屋の床に並べていたのもあるのだろうが、なによりもまずわたしがこの家に住むということに驚いたのだ。「この家に住むことにしたの」と何度いっても冗談として、きかなかった。四穂がお父さんを読んでその次第をきくとやっと本当だと認めた。半笑いだった。

「いちばんびっくりしたのは、あなたが本気だってことじゃなくて、お父さんが本気だっていうことね」と彼女はいった。「わたしは一応反対しないでおくけど、責任は持ちたくないわよ。実家には何かいったの?」

 何もいっていないと伝えると、「ひと昔前だったら、こういうのも全然アリだったんじゃないかしら。よくわからないけど、あなたのことはあなたが何とかしてね。家族のこととか大学のこととか」ということである。

「わかってる」とわたしはいった。生まれたときからずっとそうなのだ。

 わたしは荷物の中から湯呑みを取り出して、四穂に見せた。

 四穂はそれを手に取りいろいろな角度から観察を始める。

「それが飄六玉の湯飲み。いつか見たがってたでしょ」

「そうだったっけ……」

 四穂は材質を確かめるように、側面を指ではじいた。鈍くくもった音がした。

「破天荒な大三くんといい、空き缶に自分の名前を入れて伝えようした名無しくんといい、お父さんといい」

 わたしはその次に四穂が挙がるのでないかと思った。しかし彼女は自分を評価したがらなかった。

「あなたのまわりには変な人しかいないのね」

 四穂もまたそのうちの一人なのだった。よその子が自分の家で暮らすことになって、反対することも喜ぶこともないのだから。

「でもこの湯呑み結構いいんじゃない? 耐熱かしら」

「さあ、それで飲んだこと一度もないから」

「あらそう」

 四穂は湯呑みを持って一階へ降りていった。

 自分の洋服を片付けてから一階に降りて台所をのぞいたとき、湯呑みはそこにあった。銀色の調理場にはお盆が置かれていて、その上に湯呑みが三つ乗っていたが、そのうちの一つがわたしのだった。他の二つは四穂とお父さんのものである。それらはセラミックでできており、柄はおとなしい。これに対するとわたしの湯呑みは現代的に過ぎた。ガラス茶わんとしては清楚なほうではあるけれど、明らかに時代が違う。

 わたしは荷物を移してしまったのだった。直観として、一生、この家に留まりつづけるのかもしれないと考えた。気が遠くなった。仮にその生活が快適で、幸せであったとしても、わたしは他のものを求めずにいられるだろうか。

 人間には感覚できない速さで雪は日々溶け出し蒸発し還っている。この家の小さな庭に積もった、五十センチだった雪も、今では三、四十センチまでに減っている。確実になくなっているのだけれど、消えるかなと思ううちは消えない。雪のことなどすっかり忘れてしまったある日、最後の残雪は蒸発するのだ。あるいは春も夏も秋も越えるような積雪ができないかぎり同じことが繰り返される。わたしは雪がはやくなくなってしまえばいいのにと憎んでいたが、心の中では、耐えてくれとも願っていた。そうでなければあまりにも理不尽だ、と。

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