第三章

1

 センターが明けて雪はふつと降り止んだ。しばらく、一週間くらいは晴れがつづいた。太陽があたり一面はびこる雪を白くするので、屋外では目が焼けるのだった。

 大学は休みに入るのをまだためらっていた。二回か三回かの授業などどうでもいいとは思った。しかしそれに一生に近いものを捧げている人もいるのだった。わたしは大学に入ることはあったが、ずっと図書館にいてマンガを読むか音楽を聴くかしていた。図書館にはすぐれたマンガは置いていない。あるのは、活字でやればいいことにわざわざ絵をつけたようなものばかりだった。それでも読んだ。

 自宅にはほとんど帰らず、図書館にいない時間は四穂の家に入り浸るようになる。お父さんとも仲良くなったから自宅以上にくつろいだ。お父さんはTVニュースをつけたまま点字の小説をなぞっていた。わたしはお父さんの向かいでマンガを積み上げていく。実際、わたしはマンガを読むのがものすごく遅い。他人が三十分かかるところに一時間半かけたりもする。小説を読むのは他人と変わらないのだがそこに絵がつくとぱったり止まるのだ。というのも、わたしが十分に楽しんでいるからだ。同じページにより長くとどまれる分、ひとつわたしは得していた。

 わたしが逃げているあいだ、四穂はずっと講義を受けていた。彼女は真面目だ。真面目でない人も大学には行くが、彼女の場合講義をすみずみまで理解していた。講師がうっとうしく感じるくらいに。そういう人は中々いない。素直にすごいとわたしは思う。

 わたしは手持ち無沙汰になるとお父さんの読んでいる紙を盗み見た。ひと目真白だから普通の小説よりもきれいだと思ってしまう。もしも世界中の小説のインクの色が一斉に白くなったらどうなるだろう。つまり本がたんなる紙の束になってしまうということだ。それでも、小説を美しいという人は美しいといいつづけるのだろうか。たぶんいいつづけるのでないか。他方、マンガを美しいという人はうんともすんともいわなくなるだろう。少なくともわたしは絶対にいわない。では、この盲人はなんというか。これを考えていると時間が速く流れた。

 点々を追うのに疲れると、お父さんはわたしに話しかけてくるのだった。わたしが近くにいるのがわかっているのだ。実はこの人は目が見えているのでないかと、たまに勘ぐったりする。この数年まわりをだまし続けているのだ。そのほうが女の子の裸を見ても言い訳できる。

 お父さんは最近自分が尿管結石になるようなつもりがあって気が気でないという。彼は毎日緑茶を三リットルは飲んでいるし、運動はまるでしないからいつ結石ができてもおかしくない。あるいはすでにできているかもしれない。結石は場合によってとんでもない激痛を引き起こし失神もあり得る。それでお父さんは恐れおののいているのだ。「目が見えなくなるより怖いよ」

 なぜそのような話を彼がしたかというと、ちょうど読んでいた小説に緑茶を飲み過ぎて巨大な結石を作った男の話が出てきたからだという。その男はわき腹の激しい痛みを妻に相談したのだが、妻はただの尿管結石ではないかと指摘した。男はそんなちゃちな病ではないと思ったので、片腹痛し、とあざけった。すると妻は、じゃあやっぱり尿管結石ですよ、といった。それだけの話である。男が医者に行くとやはり結石がわかった。

 お父さんは「ぼくはもうお茶を飲まないことにするよ」といって、湯呑みをわたしに寄こした。

「いらないです」とわたしはいう。本当にいらなかった。喉は潤っているし、茶碗の造形にも興味ない。しかし湯呑みはわたしの前に静かに提示されていた。

「一人暮らしをしているんだよね」、前触れなしにお父さんはきいてきた。わたしは少しまごついた。「どの辺りに住んでいるの?」

「大学の横の居酒屋通りのあたりです。だから毎晩うるさいですよ」

「それはやだね」

 この家はわたしの家から一キロは離れている。近くに人の集まる場所もないので静かだった。

「最近は帰ってないですけどね」、自嘲混じりにいう。

「いっそ住み着いてもいいよ」とお父さんはいった。「二人で暮らすにはこの家は大きすぎるし、四穂も最近機嫌いいみたいだし」

「機嫌いいんですか?」

「そうじゃない?」

 わたしには何ともいえない。

「アパートの荷物をいくつか持ってきて、洋服と食器を揃えれば十分でしょう」

「いいんですか。冗談だったとしても、わたし、わからないですから」

 お父さんはうふふと笑った。口をすぼめたまま口角を上げようとするので奇天烈な顔になっていた。

わたしはお茶を飲んだ。それはお父さんが寄こしたお茶である。ずっしりとして手に収まりがよく、材質は白くて、雪みたいに照っていた。でも温かかった。熱さにも冷たさにも耐える容器である。

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