6

 中学二年生の冬、土曜日だったように思い出す。わたしは買物の用があって相模線で三駅先の少し大きい街にいた。買物にはひどく難しいところがあって三時間かけて悩んでも決まらず、結局何も買わずに帰ることにした。しかしせっかくきてただ帰るのではもったいない感じがしてくるので、一人で入るのに良い雰囲気のカフェをさがして、長い名前のドリンクを頼んだ。そのカフェはデパートの最上階にあり、細長い店内の一面は巨大なガラス窓になっていた。そこからはあまりきれいとはいえないけれど街を見おろすことができた。わたしの住んでいる近くにはそういう場所がなかったから、窓際のカウンター席で甘いドリンクをのみながらわたしはうっとりしていた。

 九時過ぎにカフェを出た。空には黒い雲がかぶさっていた。赤いマフラーをわたしはまいていたけれど、息を吐くたびに白い粒が毛糸のほつれにくっついてきらきら光っていた。駅までの道のりがわたしには楽しかった。やかましい人ごみと町を装飾する電球の中にわたしは溶けこんでいた。

 人々はみんな同じ方向に流れていた。その先には駅があるのだ。駅の改札は大河川から水を引く取水口みたいに人々を少しずつ吸いこんでいた。流れはときどき止まる。信号機にせきとめられてデモ隊のようなわだかまりができるのだった。立ちどまると人ごみの中でも冷気が上がってきた。短いスカートをはいてきたことを少し後悔した。わたしはスーツを着た背の高い男のうしろにぴったりと身をよせて風をしのいだ。信号が青に変わった。

 大三を見つけられたのは、背の高い男が小走りに横断歩道を渡ってゆき、わたしを置いてけぼりにしたおかげだった。背の高い男は何人かを追い抜き、すり抜けていったが、最初に追い抜いたのが大三だった。

 わたしは一目で気が付いた。三年前の姿からは大きく異なるけれど、髪の質感や立ち居の細かいところが昔と変わらない雰囲気を帯びていて、あるいはななめうしろから見る横顔やほおのふくらみがわたしにはっと強い印象を蘇らせた。背はわたしよりもずっと高い百七十後半はありそうなほどで、知らない学校の制服を着ていた。ブレザーにネクタイをしめていたからどことなく育ちの良さげな感を感じて、一歩退いてしまいそうになる。わたしと大三とは少し離れていたのだ。大三が横断歩道をわたり終えたときわたしは道路の真中にいた。小走りに追いかけて制服の背中をひっつかまえた。わたしの手はそでから小さく先っぽだけ出ているだけだった。

 大三はこちらを振り返ったが、わたしを認めるのに長い時間を必要とした。

 彼の正面を見た瞬間にわたしはそれを記憶して何が何でも忘れまいとした。そして三年の間で彼の顔がどのように変化したかを観察した。顔は細長くなって、鼻は高まった。目と眉は変わらず、口まわりの皮ふがやわらかくなったような気がする。その顔は幼いといえば幼かったが、老けているといわれると老けていた。髪型は昔とまるで同じだったから、ちょうど顔の上半分を子ども下半分を大人にしてつなぎ合わせたような具合だった。でもそういう顔は実際、TVの中では良く見る類なのだった。

 長い一瞬間のあとに大三が、ああ、お前かといった。声はまだ変わっていなかった。三年ぶりの再会にしてはひどく淡々とした反応で、彼はその間も歩みをやめようとしない。歩調を合わせながらわたしは話をした。そのほとんどが昔のことと最近のことだった。その中間の話題は出てこなかった。まるで落丁した歴史書を何度も読み返しているみたいだった。

 大三はこの近くの私立の中学校に通っているのだという。ブレザーの胸に大きな校章がぬいつけてある。スラックスはストンと真っすぐ伸び、ローファーは新品みたいだった。

 これから帰るのかとわたしがきくと、いいやと答えた。これから少し遊びに行く。

 大三がセンテンスを自然に話しているのに少しおどろいた。しかし突き放すような調子は変わりないこんな時間に何するのとわたしはきいた。が、彼は大したことではないと濁すので、余計に気になって何度もしつこく問うた。もしも大三が適当な嘘をついてわたしを落ちつかせたら、それで十分であるはずだった。わたしは嘘も本当も本当だと思い込んで満足するたちなのだから。でも大三は口をにごすだけだった。わたしはだんだんと苛立っていった。わたしが苛立つのに比例して彼もわたしの倍くらい苛立っていった。

 うるせえなしつこいんだよと大三はいった。お前には関係ないんだから黙ってろ。

 でもいうくらい別にいいじゃないのとわたしはいう。

 他人のことにいちいち口出しするな、お前には関係ない、昔からずっとそうだぜ、頼んでもいないのにちょろちょろつきまとって、口出ししてくる。

 どうしてそんなに怒ってるの?

 なんでおれが怒ってるのかお前が分からないから怒ってるんだ。なれなれしいくせして自分勝手で人の言葉を理解できない。

 わたしはできるだけ素気なく謝った。ごめんねといって、静かに下を向いた。

 こういうときにそういう顔するのもやめろ。したたかだとでも思うなよ、あざとくて気色悪いんだよ。

 どうしてそこまでいわれないといけないのとわたしはいった。もう何もいわないからやめて、わたしが悪かったから。

 弱者ぶるなと彼はいった。

 ごめんとわたしはいう。

 わたしたちは着実に駅の改札に近づいていた。次第に道幅がひろがり、人ごみがまばらになる。大三はわたしから二メートルほど離れていた。彼は早歩きだった。でもそれは急いでいるからというよりも、生来持っている彼のリズムなのだろう。わたしは彼に合わせるために少し頑張っていた。他の人々はわたしたちより倍くらい速く歩いていた。しかし彼らの姿勢はゆったりとしている。逆にいえばわたしたちが遅くて、わたしだけが遅すぎたのかもしれない。

 改札につく前にわたしにはどうしても大三にききたいことがあった。それをきけばまちがいなく彼は不愉快を感じるだろう。もっと怒らせる結末になるのかもしれなかったが、あるいは全く逆の反応をわたしは期待していた。

 三年前の夏休みの終わりに大三がしかけてきた所業のわけをききだしたかったのだ。さりげなくわたしは口に出した。

昔……なんてことがあったよね。

 ああ、ああと大三はふわふわしていた。

 あれでわたし、もしかしたらわたしのこと好きなんじゃないかって思ったの。

 だれが……? と大三はいった。……俺が……?

 沈黙。わたしは立ち止まってしまいそうになる。両肩に太い鎖が何重にも巻きついていた。わたしのローファーはつま先がけずれて光沢を失っていた。決して古いものではなかった。いつのまにかそうなっていたのだ。

 あれはただのセクハラだよ、と悪びれない大三。好きな奴にセクハラなんかするわけないだろ、どうでもいい奴にするんだよ。

 改札の前に来ると、大三は左手を顔の横にやって、ちらとこちらを見た。じゃあな。彼はすこし急いだ感じで、改札には入らず、行く道をそのまま行った。

 しばらく改札の前で突っ立っていた。何も考えずにいるためにはそうするほかになかったのだ。電車がホームに入って吐き出した人々がこぞって改札に殺到した。それで目がさめた。

 改札を抜けてホームへ降りていく。帰りの電車は今に出ようとしていた。つま先をはずませ階段をかけていくと、途中で階段を踏みはずした。二段飛ばしで着地するも勢いはおとろえずに次の足も踏みはずして二段飛ばしで着地した。スカートは上がってくる空気をつかんでひっくり返りそうになる。下げていたポーチも手足を振り回して落ちるようにホームについた。近くのドアにかけこんだのと同時に背後でドアがとじた。

 切れた息が目の前にいるサラリーマンの胸にかかっていた。わたしは下を向き身をちぢこませた。息を落ちつけるためにわたしは何度も深く吐いた。しかし、呼吸はむしろ激しくなっていくのだった。やがてそれは嗚咽に変わった。わたしはドアに背をもたせて座りこんだ。嗚咽は激しくなりつづけ、涙が出てきた。そのときに革ぐつに助けられたのだった。

 沿線を往復して、最寄りについたのが二時間後だった。そのころには帰宅ラッシュも止んでいて、その駅に降りたのはわたし一人だった。改札を出て、階段を下り、地元の道に出るとき、大きな綿状の雪が無数に浮かんでいた。ほのかに積もった雪の膜をわたしは踏み抜いていた。

 手の平を空に向けたときちょうど一つのかたまりがたなごころに乗ってきた。わたしはそれを真近で観察しようとするが、またたく間に溶けて水滴に変わった。わたしは雪から何か意味を見出したかったのだ。示唆とか暗示とかいったものを、雪が今日このとき降り始めることによってわたしに伝えようとしているのではないか。しかし手に取って細かく調べることのできないものから、どういう風にして教示をくみとるのかわたしは知らない。

 しばらくすると雪は止んだ。最後の一つがわたしの理解をすり抜け、地に積もったとき、わたしはもっと雪を見るべきなんだなと思う。わたしはまだまだ観察が足りていない。目前の情報をみすみす逃しているのだ。無視しつづけているのだ。

 雪に対する憧れがめばえたのだった。ローファをぬらして家に帰ると誰もいなかった。家中真暗で外と同じくらい寒い。わたしは都合がいいと思った。自分の部屋で服を脱ぎはだかのまま布団にはいり、ゆっくりとオナニーをした。わたしは十分に終わらせられた。

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