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 鯉の守りはわたしの頭をひっぱたいた。わたしは問いただされるままに、自分の置かれた状況を話してしまった。彼はわたしの首を左手でぐるりとつかんで、案内させた。犬とその飼い主みたいな格好で、わたしたちは小沢に出ていった。

 鯉の守りは大三を見つけるとどなった。ちょうどウシガエルほどの石を運んでいた大三はびっくりしてそれを落としてしまう。鯉の守りはわたしからはなれてかけ出した。大三のほうもわけのわからないまま走り出そうとしたのだが、水に足をとられるし、そもそも足が速くないしで、すぐに捕まってしまった。鯉の守りは大三を思いきりなぐった。でもどこをなぐったのだったかよく覚えていない。頭だったかもしれないし、顔だったかもしれないし、体だったかもしれない。とにかく大三は小沢のど真中でうずくまった。鯉の守りは大三を足蹴にして水の中に沈めた。

 鯉の守りの話によると、飄六玉の生け簀の水は、この小沢から引いていたのだった。鯉は泥水の中でも充分生きるが、食用としては泥臭くなってしまう。鯉の刺身をふるまう割烹としては天然物はむしろ下等なのだ。鯉の守りは最近わたしたちが現れないことにいやな予感を感じていたのだという。わたしたちが小沢にこもっていた二週間もの間、彼は毎日裏口の前に立っていたのだが、つい三十分前に生け簀を眺めているとそれが普段より濁っているような気がしてきた。少し見ただけでは透明と変わりないのだが、毎日鯉を守っていた彼には、鯉の映り具合や活きが違って見えた。彼は生け簀に手を入れて、水底をすくい上げた。するとおびただしい量の泥がまい上がり、鯉をかくしてしまった。彼は小沢の異変に気づいたのだった。

 しかしわたしには小沢はきれいにすき通っているように見えたし、大三が石を持ち上げるときにも土煙が流されていく様子はなかった。可能性として考えられるのは鯉の守りの感覚が相当敏感か、飄六玉の生け簀がただ汚いだけか、だった。鯉の守りはずぶぬれになった大三をたたき起こしてどなった。ここは私有地だ、俺たちが持ってる土地なんだよ、だからてめえらのやったことは犯罪と変わらねえ、不法侵入と自然をこわした罪だよ、もう警察は呼んでるからな、てめえらの人生はもう終わりだよ、刑務所に入っちまったらなにもかも終わりなんだ。

 そこにこけおどしの含まれているのは明らかだった。彼は警察が来るまでに積んだ石を元通りに戻せたら許してやるといった。始めから警察など呼んでいないのだった。彼は、また、こちらを振り返り、お前もやるんだよ、といった。

 やらないとわたしはいう。あれは全部大三が一人でやったことだから、わたしには関係ない、わたしは見ていただけだ。そんな風にいい返せば、余計彼を怒らせることは分かっていた。でも、大三がやったのは事実だった。仲間を売るというよりは、どちらかといえば正当さを追求するための発言だった。

 無論鯉の守りはキレた。お前が通ってる学校なんてもう分ってるんだよ、お前がいわなくても、お前の親の名前も勤めも、少し調べりゃ出てくるんだ、お前が他人の土地で小便たらしてるのも見てるんだぜ、担任の先生に言っといてやるよ、この子が俺の目の前でおしっこしてるのを最後までずっと見ていました、こいつが丸出しにしていたけつをずっと見ていましたって、お前の担任はどう思うと思う。

 こいつは馬鹿だとわたしは思う。同級生の男子と口げんかをしている気分だった。当時のわたしたちと同じ次元に彼はいた。しかし実際に行動を起こされて困るのも事実だった。

 大三はすでにいくつかの石をばらしていた。しばかれ、沈められ、抵抗する気力が失せたらしい。大人の拳ほどの石を四方八方に投げすてていた。それらは沢にしぶきを上げて落ちた。そのとき水底の小石をえぐり、泥を巻き上げた。土煙はやがて溶け、消えた。わたしは鯉の守りを見た。彼は煙草を取り出し口に持ち火をつけた。吐いた煙は風向きに沿って上流していく。彼はわたしに向かってあごをしゃくった。

 わたしも解体を始めた。未完成とはいえRPGが十回クリアできるくらいの時間がその生け簀にはかかっていたから、全てを終えるころには鯉の守りは十本弱のたばこを消費していた。わたしは、そしてたぶん大三も、解体しながら無作為を意識した。なるべく規則性の現れないように石を散らしたのだ。しかしそこに結果でき上ったのは不自然に平均化された、原形がぼかされただけの沢の姿だった。鯉の守りはライターをポケットにしまってよおしと声を張った。そこにあったのは自然でなく、まぎれもない人工だった。あの生け簀は形を失くして散りぢりになったのだったが、それを構成していた要素が今どこにあるのか、はっきりわかった。

 大三はふるえていた。唇は青く、全身の肌は固く張っていた。一歩歩こうとするたびに彼の曲げたひざは死に際の虫の足みたいにけいれんした。小沢の涼しさ、照らさない太陽、風などによって濡れた全身から熱は逃げたのだった。彼は死にそうな顔をしていたというと誇張になるが、彼の顔は死人みたいだったといえば納得できそうだった。

 おつかれさんと鯉の守りはいった。何の含みも感じられない言葉だった。ガキだったらガキらしく家でゲームしてればいいのによ、クーラー浴びてたほうが気持ちいいのによ、余計な気い働かせるから寒い目見るんだよ。そして大三とわたしの頭を順番にひっぱたいた。痛みはないが感覚が鮮明に残った。叩かれた箇所にだけぶ厚いテープが張りついているみたいだった。

 それから鯉の守りはわたしたちを引っ張って飄六玉に連れていった。彼の手柄を知らせるためなのだった。茂みを出、田園地帯に上がり飄六玉の裏出についたとき、むっとするようないきれがのどにつまった。わたしが吸いこんだ塊はエアコンの室外機から吐きだされた熱気だった。粘膜に溶けこんで内側から侵食していくようなにおいがした。わたしたちはそこで待たされ、鯉の守りは裏口に顔をつっこんで店内の誰かと話した。大三のぬれたシャツの背中が室外機の風によってふくらんでいた。彼に表情はなかった。

 割烹の屋根の下に入ったのがそのときで初めてだった。また、最後でもあった。鯉の守りはわたしたちを表から入れて座敷に上げた。もう逃亡する気も、抵抗する気も、悪態をつく気も失っていた。少なくともわたしにはちょっと怒られるだけで全てが済むのだと思えた。奥から主人らしき男が出てきてテーブルの向いに座った。つづいて主人の妻だろう人が湯呑み茶わんと麦茶の入ったポットを盆に乗せてやってきた。湯呑みは三つあった。それらを置くと、その女と鯉の守りは奥に下がった。厨房の影の影にかくれたのだった。そこから会話を盗み聞いていたのかもしれない。

 あの小沢のことは別に構わない、と主人はいった。うちの生け簀はたしかにあの小沢につながっているけど、うちの土地ってわけではない。ぼくが生まれる前からあれはあったけどね、誰のものかわからないし、ぼくたちだって無断で水を引いているんだ。立入禁止って看板が下がっているだろう、あれも気づいたら下がってたんだ、誰だかわからないけど、少なくとも国じゃないことは確かだよ、国だったらもっと形式的で事務的だもの。それに自治体名も書いていない。でも結局は国の土地だろうね、それを主張しないだけ、主張するまでもないと考えているのかもしれない。二人はあの沢で遊んでいるのを見つかったってきいたけど、ぼくとしては別に構わないよ。石を動かしたって泥を立てたって構わない。ただ、水場に子どもだけで遊ぶのはあぶないと思う。浅くても溺れるときは溺れるし、もしかしたら上流のほうでどこかのダム湖とつながっていて向こうで雨が降ったときにこっちが増水するかもしれない。急な増水に気づくのが遅れたら子どもなんかはすぐに流されてしまうよ。そしてほとんどの場合、相模川まで流されたら死ぬ。子どもは溺れればすぐ死ぬし、死体は発見されない。魚に食べられてしまうからね。だからおすすめしない。あの小沢が相模川に合流するのはきっと間違いない。

 主人は三つの湯呑みに順番に麦茶をそそいで配った。湯呑みはガラスでできていて、ほとんど球体に近かった。底は青色で、せいそなかざり模様が入っていた。わたしたちはお茶を飲まなかったが主人はのんでいた。まるで一つの料理を食べ終えた美食家のように。

 僕の息子は嘘吐きだ、と主人はつづける。自分のいいたいことのために事実をねじまげて利用するんだ。自分でも気づかないうちにそうしている。だから面倒なんだよ。あいつは自分が正しいと信じ切ったまま嘘をつく。だからどれだけあいつに本当のことを伝えても無駄なんだよ。

 わたしはうなずいた。

 生け簀が小沢とつながっているのは事実だけど小沢でちょっと遊ばれたくらいじゃ泥は入ってこないんだ。水をくんでくるパイプの中にはろ過装置が組みこまれていて、鯉が食べてはいけない――人間が食べてはいけない――物質を排除してくれる。泥が少し立つくらいなら問題はない。大雨のときにも生け簀がにごったことはない。生け簀の底に泥がたまっていたとあいつはいっていたけど、あれはいつものことだ。あの程度では魚は泥臭くならない。野生の魚がどういう環境にいるのか知らないんだよ。だから気にしないで――ただ、鯉に向かって石を投げつけるのはやめてもらいたい。一応商品なんだ。もしも鯉に傷がついたらお客さんの前には出せなくなってしまうし、鯉にもストレスがたまる。だからやめてもらいたい。石を投げつけるのを除けばこの辺で遊んだり鯉を見にきてもらって一向に構わない。少なくとも君たちにはこっちの迷惑を分かってもらいたい。わかったかい?

 わかったとわたしはいう。大三も小さくうずいた。主人は立ち上がって、待っていなさいといい残して去った。

 大三は湯呑み茶わんをにぎりしめ、その水面をながめていた。淡白な目だった。彼の服はまだぬれていて、となりにいると変なにおいがただよってきた。

 日は傾き、黄色かった。飄六玉の窓からはなめらかな稲の並びが少し影をおびだしているのが見えた。日の暮れはまだ遠かった。しかし窓を抜けてわたしたちの座るテーブルの上に落ちた光には終わりにつき進んでいく不可逆的な転換が含まれていた。湯呑み茶わんは薄い影をテーブルに伸ばしていた。水面のゆれが影に反映した。

 主人が皿を持って帰ってきた。皿の上には小魚の揚げ物が盛りつけてあった。主人は余りものだ、食べて帰りな、と。それは揚げたてである。白いゆげが光の中に映えた。主人はわたしたちに箸をわたして、自分は手で一つつまんで口にほうりこむ。

 わたしたちが小魚の揚げ物を食べ終わるのに、時間はかからなかった。決して少なくない量が皿にはあったが、わたしたちには遠慮を感じる余裕すらなかった。定かではないけれど、そこには十歳そこそこの少年少女が感じ取るには余りあるほどのうまさが含まれていたのだろう。

 皿が空っぽになると主人は満足したようすだった。今のはな、息子が揚げたんだよ、さっきの息子がね、才能ってのは誰が何をもってるかわからないね、おいしかったかい。そういった。

 わたしは素直に感心していた。こんなにおいしい揚げ物をつくれるなんてすごいな、と。しかし大三は違った。彼はまずそうな顔をして、まずい、といった。その顔は本当にまずかったのではないかと思わせるほどですらあった。もう一度まずいと大三はいい、湯呑みの茶をのみほした。

 厨房から怒声がきこえてきた。男の声だった。次の瞬間には鯉の守りが座敷まで走り出てきて、大三の後頭部をげんこつでたたき落した。大三はなぐられた勢いでテーブルに顔をぶつけた。

 すかさず主人が止めに入ったが鯉の守りは応酬をやめない。わたしは座敷のすみまでしりぞいて観戦していた。観戦と呼ぶにはおののきすぎていたけれど。主人は鯉の守りの腕につき飛ばされ尻もちをついた、そのまま動かない。大三は皿をつかんで投げる。顔にむかって飛んできたのを、鯉の守りは寸前でよけて、大三の下腹にけりを入れた。座敷に転がったまま大三は湯呑み茶わんを投げようとするが、鯉の守りがのしかかり、両うでを押さえつけるのにはばまれた。鯉の守りが完全に制圧しているかにみえた彼らのからみも、大三が腕に噛みついたことでつかのまにほどける。鯉の守りは飛び上がって、ひゃああと悲鳴を上げる。左手で歯型を押さえながらも、彼は大三にけりを入れることを忘れなかった。鯉の守りが離れると大三はすぐさま立ちあがり、邪魔するものを全てふきとばし、飄六玉を出ていった。

 鯉の守りは逃げ出した大三を追おうとしたが、すぐに主人に止められた。今度は彼がしばかれる番なのだった。わたしも急いでくつをはいて飄六玉を出た。誰のだかわからない男性の怒声がわたしの背中を押し出した。田園地帯に出ると日が強く差していた。飄六玉の表は西を向いていた。

 光に目をくらませながら、私は逃げだした大三を見つけた。彼は田んぼの真中を、つまり一枚の区画の中央を西に向かって歩いていた。整列した稲を分けて胸から上がのっそりとうごいていた。踏みしめられ立ちあがる感じもしない稲の道をわたしは追った。追いついたとき、彼ははだしで、手には湯呑み茶わんをにぎっていた。

一枚のたんぼを抜けると、次のたんぼに入り、稲をラッセルして進んだ。日がくれるまでわたしたちが何枚のたんぼをわたったかわからないが、そのようにしながら帰路についた。

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