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 当時小学校で流行っていた遊びがある。単純なものだ。じゃんけんをして子の中から一人鬼を決める。鬼になったものは目かくしをされた上で、逃げる子をつかまえなければならない。これは教室の中で行われた。だから、子をつかまえるのは不可能というほどでもなかったが滅多になかった。多くの場合、休み時間いっぱいを目かくしし通すことになるのだったが、文句をいうものはいなかった。鬼も子もそれをたのしんでいたのだ。子は、あほな動きをする鬼を高見で見物するのが楽しいし、鬼は、わずかな笑い声や足音をたよりに追いかけるのが新鮮だった。

 これは女の子だけの遊びだった。走る必要もないし、力もいらない。男の子は挙動が乱暴でおかしなことをしてくるので混ぜるわけにはいかなかった。彼らは外でドッチボールをするのだった。

 わたしが鬼になることは何度かあったけれど、そのうちの一回に偶然が起こった。目かくしに使っていた布は厚手のもので目をあけていても向こうがすけてみえないくらいである。目をつむれば夜よりも明らかな暗闇だった。わたしはその暗闇の中にいた。夜に遠い音がよくきこえるのと同じように、目かくしをすると耳が良くなるのだった。押し殺されたささやきやゴム底のくつ音が八方からきこえてきた。わたしはどの子が一番近くてつかまえやすいか吟味していた。障害物の存在も含めて考えなければいけない。それはれっきとしたスポーツのようにわたしには思えたし、戦略と戦術が存在した。定石があみ出され、それをくずす新手が日夜考案された。それだけわたしのクラスが熱中していたということだ。

 しかしその日はおかしな音がきこえた。堂々とした音だと、一時めくらになったわたしは思ったのだけれど、実のところはただ普段の生活をしていた人間なのだった。わたしはその音をつかまえる向きに忍び寄っていった。音は歩いていた。しかもこちらに近づいてくるのだった。わたしは半分混乱しかけていたが、鬼をやめる好機だと身がまえた。音は自分の前をななめに通りすぎようとしていた。

 教室の後ろは、人が三、四人すれ違えるくらいには幅広かった。そしてわたしはそこらへんにいたのだ。わたしは通り過ぎようとする音をとらえるために、両手両足を広げて、下手くそなはんぷく横跳びみたいに、わーあと叫びながら踏み込んだ。あほみたいだが本当にそうした。そのとき、右うでに人がぶつかってくる気配がしたので、すぐさまかかえこんだ。音の正体は特段抵抗しなかった。やったやったと目かくしをはずして、正体をみた。それが大三だった。

 大三をはじめて認識して、言葉を交わしたのがそのときではじめてだった。私は誰だこいつと思っていたし、大三もまた同じことを思っただろう。冷淡な無表情がわたしに向けられていた。自分の顔が赤くなってくるのを感じた。苦笑いでごまかしてから、わたしは少し謝って、二三言葉をかけた。大三はかんたんな単語をいうと教室を出ていった。それ以来わたしは彼に話しかけるようになった。

 あの時の、驚きと戸惑いと侮りのこもった大三の目をわたしは覚えている。冷たくてすき通っていた。わたしをすかして見ていたのだった。彼は生まれる時代を間違えてしまったかのように、物静かな少年だった。少なくとも小学生のうちは。

 飄六玉の裏の小沢には毎日通った。そこに通っている間は鯉に石をぶつけに行かなかった。あの若い色黒の従業員はまだ鯉の守りをしているのだろうか。想像するとおかしかった。

 大三は一人で作業をしていた。わたしが手伝おうとすると邪魔だといわれた。しかしはっきりいって彼はその仕事には向いていなかった。石の選び方、運び方、組み上げ方、どれをとっても動物以下だった。生け簀はすぐにくずれ、何度もふり出しに戻った。でも彼はあきらめなかった。彼は馬鹿だったのだ。それを乾いた岩の上からわたしは眺めていた。たまに昼寝することもあった。

 雨の日は小沢には行かなかった。大三といえども工事現場の安全には留意するらしかった。そういう日は、大三の家でテレビゲームをして遊んだ。彼の部屋にはニンテンドーのソフトがほとんどすべてそろえてあったのだが、それらは部屋の至るところに散り散りになっていた。

 彼はわたしにゲームをやらせた。彼自身はそれを眺めているだけで、自分でプレイすることはなかった。一度クリアしたものは二度とやらないという主義なのかもしれないとわたしは考えた。が、格闘ゲームもこばんだ。二人で遊ぶにはちょうどよかったのだが、わたしは電子回路とたたかわなければならなかった。わたしはいつも負けた。

 雨の日はいつも静かだった。ゲームの最中に彼は助言、あるいは指示をつぶやいた。その助言は往々にして、攻略の行き詰まりに対してなされたのだが、しばしば誤りを含んでいた。それが嘘なのか単なる記憶違いなのか知らないが、わたしはあっさりとだまされたし、大三が訂正を加えることもなかった。わたしは長い時間をかけた後でその不正に気づくのだったが、文句はいわなかった。偽の情報をわたしはたのしんでいたからだ。ゲームをプレイするという点においては何の問題もなかった。

 小沢に大きな生け簀を作るためだけにあれだけの努力ができた大三という人間が、たくさんのゲームソフトを持っているという事実がわたしにはよくわからなかった。テレビゲームに熱中する同年代の子どもたちはみんな自然の中で遊ぶということに興味を示さないからだ。逆もそうだった。多くの人々はデジタルの人間かアナログの人間かに分断されていて、行き来することはなかった。オーガニックしか食べないという人はファストフード店では食事をしない。それと同じことだった。

 大三がわたしにゲームをやらせていたのは、もしかしたら彼がゲーム嫌いだからかもしれないと一時期考えていたが違った。彼はデジタルにもアナログにも無関心なのだった。テレビの前で遊ぶとか、自然の中で遊ぶとか、そういった区別はどうでもいいと思っていたのだ。彼は自身の行動の結果に対してのみ関心していた。逆に一度結果を出してしまえば、目標を達成してしまえばという意味だけど、とたんに熱が冷めてしまうのだ。

 彼が目指していたのは生け簀の完成だった。わたしの見立てではほとんど不可能そうだったけれど、彼は完成させるつもりだった。結末からいってしまうと、生け簀は完成しなかったし、彼は八月も半ばの段階であきらめてしまうことになる。わたしたちはその日以来小沢に近付いていないのだった。

 晩夏にさしかかったといってよかったのだろう。その日はまるで相模原全域にクーラーが導入されたかのようにすずしかった。乾いたそよ風が青い稲に波紋を起こしていた。空は晴れていたが太陽はどこにも光っていなかった。小沢の入口の近くはあいかわらず湿っていて、ほの暗く、気味が悪かった。一旦小沢に踏み入れば、そこは自分のふとんの中みたいに居心地よかった。

 小沢の存在を知って間もないころ、それがどこから始まり、どこへつづいていくのか調べたことがあった。大三が作業している間、わたしは沢の上流と下流を探索しに行った。上流は生け簀から五〇メートルほどさかのぼったところで途切れていた。まるで箱庭ゲームの水流の表現のように、何の脈絡もなくそこからはじまっていた。目の前には一〇メートルほどのコンクリートの壁があった。その壁から水がわいてきているみたいだった。調べてみると、実際、壁の底のアーチ状のすき間に沢はつづいていた。わたしはひざまづいてすき間をのぞきこんだ。そこには暗闇の気配があったが、感じとれるもの以外はなかった。闇を抜けて水がざわざわと広がり出ていた。下流も同じようにコンクリートの壁の中にすいこまれていた。その流れは地中奥深くにもぐっていくかと思われた。

 小沢がどこから来てどこへ向かうのかは結局わからなかった。百メートル弱の区間においてのみそれは日の光を浴びて光る清流なのだった。

 正午は回っていた。大三はもう三時間動き放しで生け簀をつくっていたが、疲れの影は一向に見せなかった。工事はその四分の一がもうすぐ出来上がるだろう段階だった。いつものことだったから彼には相当の体力がついていたのだろう。進捗具合は過去にくらべて最速だった。

 空の色がうすらいできていた。そよ風が強まって小沢をかけ上がるように吹きだした。先までの石の上のすずしさはころっと表情を変えて、無機質なものにかわった。風が元あったすずしさを押し流して、その気を急かすような気体がわたしの肌にぶち当たった。

 わたしは身ぶるいして猫背になった。ふいに腕に当てた自分の手のひらが温かかった。鳥肌が立っていた。居場所を失ったような感覚だった。どこかへ移って動きつづけなければならないような。

 寒くはないのかと大三にきいた。彼は別にといった。彼はむしろ汗をかいていたくらいだ。わたしは立ち上がってあたりを見回した。そこは見かけの上では、小沢を囲んだ草木の茂みでしかなかった。

 トイレに行きたいんだけど、とわたしはいった。トイレがこんな場所にないことはわかりきっていた。より直接的にいえばわたしはおしっこがしたかったのだった。当然大三はトイレに行きたいという発言を言葉通りにしか受けとらなかった。改めておしっこがしたいんだというと、そんなことをわざわざ宣言するなという風なことをいわれた。その通りだった。

 わたしは小沢へ入ってきた方の茂みの中へ入っていった。大三は気にとめてすらいなかった。飄六玉の裏手に出るけもの道をはずれて、くさむらのより濃くなっているところをさがした。ちょうど良いところは見つからなかったが、野中で用を足すのにちょうど良い場所などあるわけがないのであった。わたしは虫の少なそうな、下草の無いところを選んで下半身を脱いだ。

 清々しい恥というのを、その時はじめて知った。青葉のざわめきが鮮明になった。それがわたしの感じた初めての自然なのかもしれない。

 しゃがみこむと、わたしを急かしていたあの気配はふっとどこかに消えてしまった。実はそれはもっと遠くのほうにあったのだった。顔をあげて、息をついた。しゃがんだ姿勢は楽でなかったがのんびりできた。

 しばらくじっとしていると、雨どいからたれてくる夏の雨水のような勢いで、それが排出された。頭部だけきょろきょろ回して、周囲を警戒していた。わたしは地に伏せたすずめだった。わたしに欠けていた点があるとすれば、もしいたずらな子どもに襲いかかられても飛んで逃げることができないということだった。

 わたしの警戒は無駄ではなかったのだが、結果から考えると、無駄だったのだ。そのとき草を分け、下草を踏む音をわたしはきいた。しかもこちらに近付いてくるのである。それは間違いなく人間の歩く音だった。わたしはあわてて、来ないで、と叫んだ。大三がやってくるものと思ったのだ。しかし、すると、音はむしろ速度を増して近付いてくるし、先よりも適当な道のりを選ぶのだった。もう一度叫ぶと、音の正体はついにわたしを捕捉した。

 おどろいたまなざしでわたしを見おろしたのは、飄六玉の鯉の守りだった。三、四歩はなれた茂みの影から、首を出してのぞいていた。排出の勢いは極地に達していて土をけずる程だった。無論わたしはすずめではないからして、あるいは排出を途中でやめる術を持たないからして、見られるがままだった。鯉の守りは怒ったような、まずいような顔をしていたが、こちらを見ていた。

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