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八月のある日、大三はわたしを金網のところに連れてきた。そこはちょうど道なりに曲がりくねって設置されたくぼみの部分だった。だから飄六玉は見えなかった。飄六玉からも見えなかっただろう。頭上は木々のぶ厚い葉に覆われ、そこだけ雰囲気がぼんやるりとしていた。
金網は二メートルほどの高さだったが、一か所、それが上から下まで裂け、侵入するには手頃な出入り口になっているところがあった。大三はこれをみつけてきたのだ。
大三は無言で裂け目のなかに足を踏みいれた。わたしは彼を止めた。どうしてこの中に入らないといけないのかときくと、彼は単語をつぶやいたが、よく聞き取れなかった。なかなかわたしが網のなかに入っていかないのをみて、彼は一人で茂みに潜っていった。すぐに見失った。わたしは網の外側で不安を感じていた。いってしまえば、これこそが罪の意識だったのだろう。悪をしていると実感したのがこのときがはじめてだった。
決断するのに長くかかった。十五分くらいだったとおもう。わたしは下半身の内側に寒気を感じて、落ち着いて立っていることができなかった。動かなければその寒さは振りほどけなかった。何度も迷った末、金網に入っていった。大三が消えた方向に茂みを分けて進んだ。歩きはじめると、寒気はどこかに消えた。
まっすぐ行くと、思ったよりもかんたんに草むらを抜けることができた。そこには草も木も生えておらず、風通しの悪い雰囲気もなかった。枝葉の裂け目に空と雲がみえた。空と雲は同じ割合で浮かんでいた。わたしはなるほどねとつぶやいた気がする。そこには小沢があったのだった。
大三はすこし上流の岩場で、足を水にいれて遊んでいた。サッカーボールくらいの大きさの石を持ち上げては運び並べる。この作業を繰りかえしていた。
大三を見つけるとわたしはほっとした。このときすでにわたしのなかから罪の意識は消えていた。目の前にある落ち着いた光景に押し流されてしまったのだった。むしろその小沢にいることが、きれいなことであるのかもしれないと思った。この小沢がわたしたちの前にあらわれたことが何か意味のあることのように感じられて、そうとしか思えなかった。
岸辺の岩場には苔が広がっていた。それは日の光を受けるせいで芝生みたいに乾いていた。わたしは触った。それはやわらかく、さらさらしているが、その裏側の硬い石の感触が伝わってくるようだった。まるで動物を撫でているみたいだとわたしは思う。しかしそのような感触の動物を触ったことはないのだった。
大三がわたしの到着に気が付いた。すこし離れたところから、なんだ、いつの間に来ていたのかというような感じで、おーいと呼んできたので、手を振って返した。そして引き続き苔を撫でていると、また、おーいといってくる。要するにこっちに来いという意味なのだった。わたしは大三に近づいていって、何をしているのかときいた。
彼は石を積み上げて生け簀を作ろうとしていた。しかしそこに並べられた石からはいったい何が出来上がろうとしているのか想像もつかないくらいの悠長さが感じられた。それは大規模な工事になるだろう。十歳そこそこの少年が手作業でやるとなれば五ヶ月はかかって普通だ。それでも大三は完成するかもあやしい生け簀の暁について、大げさに教えてくれた。こういうことだった。飄六玉の生け簀には大量の鯉が泳いでいるが、いささか数が多すぎて窮屈そうである。それに鯉なんてものは泥水の中でも生きるのだから、どこで育てようが変わらない。ならばこの沢に生け簀を作って、飄六玉からこっそり鯉を連れ出してきて養殖すればいい。それで育ちあがった鯉を飄六玉に売る。――わたしは、大三は馬鹿なんじゃないかと思った。第一に飄六玉の生け簀は鯉を養殖するためのものではないし、こっちに生け簀を作って養殖するといったってこの程度の規模でできるはずがない。そもそも鯉を養殖する意味があるのかもわからない。鯉はそこら辺にいたし、買い取ってくれるともわからない。
わたしはああそうなの頑張ってねといい、岸辺の隅に体育座りをして大三の仕事をするのを眺めていた。彼はベルトコンベア上のロボットみたいに効率の悪い作業をしていた。一往復で済むことを二往復かけてやるのだった。彼がこんなにも馬鹿だったことを、そのときはじめて知った。というか、わたしはたいして大三のことを知らなかったのだ。どうしてわたしはこいつと遊んでいるのだろうか? と考えざるを得なかった。まず彼と二人で田んぼを荒らすのが楽しかったということはある。次に互いの距離の取り方が互いの性格に合っていたというのもあるだろう。接しやすい、これに尽きる、と結論できた。しかし、現在から過去へ向けていわせてもらうと、わたしの思う以上に強い感情があったのだった。わたしは彼が脱ぎ捨てた靴と靴下を拾い集めてひとつにまとめる。そして作業の最中に彼のぶつぶつ小言をいうのをきいて、口元で笑っていた。振り回されているという事実が、わたし自身を涼やかにさせていた。
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