第二章
1
〈大三〉の話を四穂にきかせている途中で、この話は退屈でないか、とわたしはきいた。四穂は、
「全然、往来のお話はすごく上手だよ」
そういってくれた。
わたしには自信がない。自分をきいてほしいという願望はあるけれど、それをことばでもって必要なだけ十分に説明できる気がしない。紙の上ならまだしも、空気の上に一から十まで順番通りに並べることができない。必ず一か所、たとえば二と七とが入れ替わってしまう。時系列というものも、因果というものも、わからない。一時期、それでほんのちょっと絶望したことがある。しかし結局人が話すという行為は麻薬的に中毒的なのだった。
ひらき直ってしまって、身振り顔ぶりでもっておぎないながらの会話こそが、伝わっていなくても通じている気がする。それは詩とか音楽とかみたいだ。
相模原にも新潟ほどではないがちょっとした見物になる田園地帯があった。相模川かその支流から水を引いてくるのだ。相模川はそのあたりでは一番大きな川であり、象徴的でさえあった。それに流されると一気に平塚のほうまで下ってゆき相模湾に出ることができ、そのころには流された人間は溺れ死ぬ。毎年何人かがそうやって死んでテレビに出ていた。相模川の周辺ははるか昔に起きた流域変化の影響でゆるやかな階段のようになっている。わたしと大三はその段々の一段目に住んでいた。二段目にあがると急に自然がなくなって都会っぽくなる。わたしは二段目にはいきたがらなかった
一段目のドロップアウトから見おろすと、田んぼはタイル状に連なって下流へ伸びていく。秋にはカメラをぶら下げた男があぜ道を歩いていくのをよく見かけた。彼らは稲穂を近くから撮り、遠くから撮り、映りの良さを確認するとどこかへ帰っていった。カメラを構える人たちの気分を自分の中に再現することはかんたんにできた。何をきれいに思うかはだいたいみんな同じのようだった。
夏のあいだはよく田んぼで遊んだ。用水路でかんたんに水遊びができるからだった。わたしたちはとくに田んぼをめちゃくちゃにするのを楽しんだ。これはありふれているかもわからないが、用水路に衝立をはめるか除くかして勝手に水を出し入れするのだった。夏のあいだは水を張らないといけないのを知っていてあえて水を干した。これを一帯にしていた。もしかするとわたしたちが収穫量を落としていたのかもしれない。どうしてこんなことをしたのかというと農家の人も誰ひとりわたしたちを止めなかったからだと思う。
――つまりあなたと大三くんは悪ガキだったのね、と四穂はいった。
わたしたちにとって田んぼに向いたすべての行いは悪でなかった。もちろん善とも思わない。人の排泄が悪であるなら、それも悪になるかもしれない。
田園地帯の隅には平屋建ての大きな家が建っていた。飄六玉と彫られた看板を掛けていて、どうやら割烹みたいなものらしかった。その裏手には六杯ほどの生け簀が掘ってあり、中には鯉が泳いでいた。鯉料理を専門にした店なのだ。田園に出かけると必然その割烹が視界に入ることになるのだが、大三は鯉に石を投げつけることをひとつ習慣づけていた。暇だなあ、そうだ、鯉に石を投げに行こう、という具合だった。ときには魚用の餌を持ってきて撒き、餌に群がってきたところに石をぶつけた。それで鯉を殺すこともあった。
割烹は黙っていなかった。あたりまえだ。わたしたちが現れるのは決まって十一時頃だった。だからかんたんに対策された。その時刻になると調理服を着た若い男が店の裏手に待ち構えているのだった。彼は二〇代くらいで背は高く腕は太かった。色黒で、鼻は横向きに広がり、顔全体が象に潰されたみたいだった。わたしたちが近づいていくと彼は蠅を払うように手を振った。それでも気にせずわたしたちは歩み寄っていった。彼は、見た目は怖そうだったが威圧するところがなかった。わたしたちが十メートルくらいまで近づいたところで、学校に言いつけるぞ、と彼がいう。するとわたしたちは一目散に走って逃げる。そしてしばらくしてからまた割烹に近づいていく。このやりとりが一日中つづくこともあった。学校にいいつけられたことは一度もなかった。
大三とわたしとには共通する点がいくつかあった。走るのがあまり早くないということ、一人っ子だということ、両親が共働きだということ――わたしと大三が仲良くなったのにはそういったことが関係してはいたが、いまひとつ、その夏のわたしには彼のことが理解できないでいた。というのも、大三はこれといって会話という会話をしない。もちろん小学校では友だちに対して普通に話しているのだが、わたしと遊んでいるあいだの彼のことばにはセンテンスといえるものはなかった。まるで日本語を覚えたての外国人の子どもみたいに、自分の目的や欲望を一単語で表現するのだった。だから例えば飄六玉の意味を訊ねると、鯉、といった。そこでわたしは意味を推し量って、なるほどとかいったりしていた。
一段目から田園地帯に降りてゆくゆるやかな斜面は、夏のあいだ濃い緑に覆われている。林と呼ぶには茂りすぎているし森というにはやや規模が小さい。そういう木と草の集まった一帯が、飄六玉の生け簀のすぐ向かい側にまで迫って来ていた。その一帯を押しとどめている金網には立入禁止と張り紙がしてあったが、ところどころ金網は破られ、茂みのほうの地面には人ひとり通れそうなけものみちができていた。近頃雨は降っていないというのに地面はつねにぬれていて、そのせいか足元からはひんやりとした、足首を掴まれるような温度が感じられた。そこだけ夏に忘れられたのだったか。
いかにも陰鬱で不愉快な感じをわたしは抱いた。その近くを通るときにはそそくさと足を動かして、できるかぎり乾いた地面の上に立った。大三はというと、金網を蹴ったり揺らしたり、向こうを覗き込んだりするという悠長さである。わたしは熱いと感じるべき日差しを温かく感じながら彼を待った。彼は飄六玉の次にそこに興味を持ち始めていた。それはすぐに分かったことだった。
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