15

 次にふたを開けたとき、鍋は居間のこたつの真ん中にあった。四角いこたつの辺々にわたしたち三人は座った。

 お父さんは四穂と夕飯を食べるのは久しぶりだなといった。両腕をこたつ布団の中に突っ込んでしきりに首を振りまわしていた。

 四穂はそうかしらと素っ気なく答えていたが、できるだけ父親のことをみないようにしていた。事務的に小皿に具をよそうと、父親の手を引っ張り出して、小皿に触れさせた。縁のところをそっと撫でさせるような感じである。父親はいつまでも自分の小皿に触れていた。

 もう食べていいわよと四穂はいった。でもわたしはまだ食べ始めなかった。彼女に関しては知らないが、わたしは、父親が物に口を運ぶのを観察したかった。こういうことをいうのはどうかと思うけれど、盲人が物を食べるのをみたことがなかった。それはもしかしたらすごく特殊な技術が要るのかもしれない。

 父親の小皿の中には、桜型の人参があった。彼は四穂によって同様に存在が示された箸を小皿に差し入れ、何かを掴もうとするがうまくいかない。肉や野菜は挟んだ瞬間に重心をずらして抜ける。こまごまとした具どもはそもそも気付かれないのだった。

 やがて彼は小皿の壁面に張り付いている何かに気づいた。それは人参だった。それから箸は、人参以外の具材などみえていないような動きを始めた。

その隣で四穂はせっせと食事を進めている。その動作はあまりにも流暢に過ぎる。

「もうエプロンは脱ぎなさいよ」と四穂がいった。

 わたしはエプロンを脱いだ。肌は乾いて白くなっていた。

「そんな格好でひとのエプロン付けないで」

「でも、よくあることじゃない」

「それって一日中裸で過ごすってことが?」と四穂はいった。「それともひとの父親のまえでずっと素っ裸でいること?」

 ようやく掴んだ人参を、父親は口に運ぼうとしていた。だがしかし、唇の寸前で落とした。彼はただ箸を舐めて珍味を味わうような顔をしていた。

 人参はこたつの縁にずっとあった。たぶん父親は、自分が何を食べようとしていたのかわからないままだったのだ。あるいはこれから先、死ぬまで、自分が食べ損ねたものが何であるか、どんな味か、想像するしかないのだ。

 あの人参は、鍋を食べ終え、片づけるときに、四穂によってさりげなく回収された。

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