11

 次の日の朝はありえないくらいの快晴だった。蒸し暑い自分のアパートに帰ってくると部屋の中がやけにしらけていた。騒々しい教室に教師が入ってきたときのような、しんなりとした無音の瞬間がつづいていた。やがてぽつぽつと話し声があがり、加速度的に増えていく。何かを求められているような気分になった。ためになる知識を、面白い小話を求められているのだった。



 四穂の部屋にはじめて入ったとき、そこが普段人の生活する空間でないのかと思った。それほどまで整えられていて、物が少なかった。あるいは今日昨日に引っ越してきたばかりといったかんじだった。正方形に近い長方形の部屋には、ベッドとカラーボックスの本棚しか置いていない。クローゼットはぴったり閉ざされていた。ベッドの横の壁に大きな窓があり、そこから月がみえた。満月だった。本棚はわたしの知らない本に埋め尽くされている。マンガも含まれているけれど、興味を引くタイトルはなかった。

 どこに座ればいいのかわからなくて立ち尽くしていたわたしに、実家暮らしはこんなものでしょ、寝るか布団に入るしか使うことないじゃないの、と四穂はいう。私、一人暮らしなんて考えられない。だって、なんでもかんでも自分の勝手になるなんて怖くないの?

 この記憶が正しいかどうか定かでない。もしかしたら酔いによる想像だったかもしれない。

「一人暮らしをしたら私ぜったいまともな生活できないよ。食事も家事も私のために私が決めないといけないことになるでしょ。そしたら一気に自堕落になって不潔になるんじゃないかしら。掃除しなくても誰にも文句をいわれないし、何を食べるかなんて、私毎日お父さんの食事を作ってるけど、本当はおいしくて健康的な食事には興味ないの。でも、お父さんはね、自分がいつ何を食べたのかいちいち覚えていて、一週間前の献立まで覚えているんだけど、このあいだはこれだったから今日はこれとこれを作れって。仕方ないからそうしてるのよ。ひとりだったら毎日マックかもしれない。そのほうがいいんだけど、でもそうなるのはいや。だから一人暮らしは信じられないの」

 などといっていた気がする。四穂はこの家の仕事のほとんどすべてをやっているのだった。四穂の母親は数年前に離婚して家を出ていってしまった。

 わたしたちはベッドの上に腰を下ろした。シーツは今日洗ったばかりのように清潔だった。わたしたちのあいだに一瞬沈黙が降りてきた。

「何か話して」沈黙を嫌ったのか四穂はいった。「好きな人はいるの? 好きな人の話をしましょ」

「じゃあそっちからしてよ」

「いいや。いやよ、いないもの」

「なんでもいいからとにかく話しなさいよ」

「じゃあお父さん、お父さんの話をしてもいい?」

 彼女はどうしてもお父さんの話がしたいらしかった。

「私のお父さんは目が見えないんだけどね」と彼女はいった。

 四穂の父親はある朝突然目が見えなくなった。五年ほど前のことだ。その日は雲一つ見つけられない快晴で、新潟ではまずありえない天気だった。四穂と四穂の母親は居間でニュース番組をみていた。すると、寝室から父親が大騒ぎしながら起きてきた。

父親はなぜ家の中がこんなに暗いんだと大声を撒き散らしながら四穂たちを探して居間に入ってきた。四穂と母親はすぐに父親がふざけているのだと判断した。新潟を皮肉っているのだろう。こんなに晴れる日は十年待っても来ないというほどだったから。加えて父親は普段からおふざけが過ぎるタイプの人だった。自分しかおもしろくない冗談を満足げにやる類の人間だった。

 いつまでたっても、暗い、暗い、目がみえない、と主張する父親に対して早々に飽きてきた母親は、眼科に行って来たらどうなのといった。彼は、なんだよ、こっちは真面目なんだよ、と言い残して、本当に家をとびだしてしまった。

「悪いのは私とお母さんなのよ。ちゃんと、お父さんの目を見ていれば、おふざけじゃないってことは分かったはずなのよ。でも私たちはテレビに夢中だった。それにおふざけの過ぎるお父さんならそのぐらいやるだろうとしか思わなかった。お昼ごろになったら、どう? びっくりした? なんていいながらニコニコして帰ってくるの。いつもそうだったから、今回もそうなるだろうってテレビをみて待っていた。王様のブランチをみていたからその日は日曜日だったかな」

 昼ごろに家の電話が鳴った。母親がでるなり、びっくりしたような声を出した。それは近所の大学病院からだった。単刀直入に医者はいった。『おたくのお父さん、本当に目が見えなくなっていますよ』

「あれは冗談じゃなかったんですか?」と母親がいった。

『冗談じゃないのはそっちですよ。目のみえない人に歩いて病院に行かせるなんて』

近くにいた四穂はその会話をかろうじて聞くことができた。そのとき四穂はくすくす笑っていた。

二人はタクシーで大学病院に向かった。それは時速三十キロで走って十五分ほどかかる道のりだった。車通りの激しい道を何度か渡った。これを目のみえない人が歩いていったのだ。およそ三時間かけて。四穂は考えを巡らした。道を歩く目の見えない父親の姿を想像したとき、崩れてくる顔を抑えきれなかった。

病院について受付の看護師に事情を伝えると、疲れた顔の医者がやってきて「やれやれ、あなたたちですか」といった。電話をかけてきた医者だった。四穂たちは最小限の説明のあとに、個室へ案内された。二人が個室に入ったなりその医師はあとはよろしくそっちで勝手にやってくださいとでもいうように、扉をパタンと閉めた。「いつまで待たせるんだ」という父親の声がきこえてきた。

父親は自分の家族が入ってきたことに気づいていない様子だった。椅子に座らされて目の前の壁の何もないところを人形みたいに眺めていた。焦点は壁の向こうのはるか遠くに存在し、入ってきた人間が家族であることにも気付いていない。四穂も母親もしばらく声をかけられなかった。どのように自分たちの存在を知らせるべきかいい方法がまったく思いつかなかったのだった。

「だって変でしょ。おかしいじゃない。同じ部屋にいるのに私たちがそういうまで私たちがいることにも気付けないなんて」

 父親が「そこにずっと立っているのは誰だ」と、訥々と言った。普段の話し方でなかった。その口調を四穂は知らなかった。「妻と娘はまだ来ないのか」

「私たちはさっきからここにいたのに、どうして気付かないのよ」ということを母親がいった。明らかに取り乱していた。母親はヒステリックな高音を発しはじめ、早口でまくしたてた。「目が見えないなら目が見えないってはじめからいえばよかったのに」

 それで夫婦喧嘩になったのだが、それは傍から見ていて彼らが夫婦であることを忘れてしまうほど激しかった。人がお互いを徹底的に人格の起源までをも正確に否定し合うのをみたのは四穂にとって初めてのことだった。やがて騒ぎを察した看護婦たちが乗り込んできて母親をどこかへ連れていった。

「精神科に連れていかれなくてよかったわよ。あのときのお母さんは気違いみたいだったから」

 四穂は訊いてもいないことを、知りたくもないことをつづく限り話した。それでもわたしが途中で眠くなるということはなかった。端的にいえばおもしろい話だったと思う。でもそれはけっして四穂の自分を語るエピソードでなかった。「で、お父さんとお母さんが離婚したの」と四穂は締めくくった。

「目がみえなくなったせいで?」

「ほかにもいろいろあったのよ。でも大きな原因はお父さんの失明とそのあとの夫婦喧嘩ね」

「かわいそうなお父さん」とわたしはいった。

「かわいそうじゃないわよ。普段からお父さんが紛らわしい冗談をいいまくっていたのがいけないのよ。お父さんは狼おじさんだったの。むかしは毎日のように嘘をいってたわ」

「昔は」

「目が見えなくなってからはまったく冗談をいわなくなったの。そもそも会話することも少なくなったしね」四穂は変な笑みを浮かべた。

 わたしにはその話が作り話にしかきこえなかった。自分の父親がある日突然失明し、結果両親が離婚することになった話を、ここまでためらいなく、投げなりに話せるものだろうか。作り話でないなら、四穂にとって、これはもう終わった、過去の出来事でしかないのだった。そして彼女自身と彼女の話とは徹底的に切り離されていた。

 四穂の話が段落して、次にわたしが話すことになった。彼女はわたしの恋愛に興味を持ったらしい。

わたしは四穂にいままで寝た男の数をきかれ、いままで付き合った男の数を言い当てられ、好きになった唯一の男をきかれてもいないのに打ち明けた。

 それでその男について話をしないといけないことになったのだった。大三の話だ。

 四穂が誰かのことを好きになったことはない。嘘かもしれないが、そういっていた。しかしなんとなく、彼女と一緒にいるとそんな気がしてきた。彼女はどんな男も好きになりそうではなかった。

 わたしはあっけらかんに、大三にまつわるひとつひとつを教えていった。その話が終わったとき、夜はもう朝に移り変わろうとしていた。

もしかして女の子みたいな顔が好きなのか、と四穂はきいた。

「そうだと思う」

「女の子のことが好きなんじゃなくて?」

「男のほうが好きよ絶対」

「女とは寝れないってこと」

 わたしはすこし考えた。奇妙なことになったと思う。そしてわたしの返答次第でそれはいくらでも増長できた。

 結局わたしがどういった受け答えをしたのか覚えていない。たしかなのは、女とは寝れないという発言の嘘がすぐにわかったということだった。

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