9

 三月の終わりに新潟に引っ越した。ようやくわたしの新しい生活が幕を開けたのだと思った。新居に入った日、うれしさが高鳴って眠れなかった。段ボールの荷物は固く封印されて部屋の隅に重なっていた。そこはまるでエレベーターの内部みたいだったが、これが好みなのだった。自分以外の不在がわたしには感じられた。密集した森の中に光が一筋刺したのだった。

 生活を重ねるにつれて必然的に部屋のものは増えていった。机や座椅子、小さな時計、照明、衣服、食器、はりねずみのぬいぐるみ、教科書や日蓮宗の新聞、郵便物――これらがわたしを苦しめた。わたしは物の少ない生活を求めていたのだが、物を求めなければ生活できないのだった。一番わたしを苛立たせたのがわたし自身の髪の毛だった。それは部屋の隅に寄り集まって毛玉みたいになっていく。一本見つけるとその横に一本転がっていて、そのまた横に一本……これが無限につづいていく。半日費やして髪の毛をかき集めて捨てても、翌日には髪が至るところで見つかった。それらは変化に失敗しただけのわたしの分身だった。そういう意味では、わたしの部屋には何百人ものわたしがいた。

 ある日の夕方、わたしが帰宅すると、青いガラスの湯飲み茶わんが四角いテーブルの角に、まるで崖をみおろすように、あった。わたしが置いておいたのだ。わたしは一目見て、気に食わなかった。湯飲み茶わんは余裕をもって、窓から差した夕日の光にあたっていた。

 湯飲み茶わんは居候に過ぎなかった。なのに、最近は調子に乗っているみたいだった。そんな気がした。わたしはキッチンの上の食器棚の奥に茶わんをしまって部屋を片付け始めた。。

 このときが四月だった。自分の住所に対する期待はまだ残っていた。新しい環境に慣れてしまいさえすれば何もかもうまくいくというような思想にわたしはとらわれていた。時間を無駄にしたとは思いたくなかったのだ。

 大学で会う人たちはみんなわたしに対して根拠もなく「遊んどけ」と助言した。あるいはたまに理由のようなものを付け加える人もあったが、その理由というのは往々にして楽観的に過ぎた。とにかくわたしは言われた通りにした。すなおに遊んどいたのだった。遊ぶとわたしは満足し、さらに遊んだ。そうすることによって、自分が偉いことをしているような錯覚にすら陥った。しかし、わたしの遊んだ内容をあとで彼・彼女らに伝えると、眉をひそめて首を振った。「そういう意味でいったんじゃない」

 わたしは自分の失敗を自分の不慣れのせいにした。けれども夏休みの直前、すでに新生活のあらゆる部分に自分が慣れきっていることに気が付いた。そして失敗はつづいていた。失敗することにすら慣れていたのだった。

「慣れるのがはやい分、慣れていることに気づきにくいのよ」と、あとになって四穂にいわれた。でもその頃はまだ彼女に出会っていなかった。

 四穂の話をしなければならない。

 四穂と出会ったのは夏休みのはじめ頃だった。わたしは実家に帰るのが面倒だったので丸々二か月新潟にいた。新潟の夏はひどかった。熱気は関東のそれと変わらないが、快晴の多い分関東のほうが過ごしやすい。二日か三日に一回雨が降り、雨が降らない間はだいたい曇っていた。わたしはさらに別のどこかに移住しようとさえ考えていたのだ。この土地への期待は潰れかけていた。その中に、発見が一つあった。それまでわたしは曇天の空が灰色であると思い込んでいたけれど、ある日、見上げると、空を覆う雲はうすい青色をしていた。空の色を透かしているわけではなく、純粋にそういう色をしていたのであった。とくに夕暮れ時になると曇り空は急に色を濃くし、ブルーベリーシェイクみたいに変わる。しばらく立ち止まって見上げていた。

記憶が正しければその日の夜、わたしは大学の近くのカフェにいた。ビールとパングラタンをたのんで、それを待っているあいだマンガを読んで暇をつぶしていた。ところがわたしはマンガに集中できなかったのだ。というのも、となりのテーブルに座った男女の四人が海外文学について熱心に感想を語り合っていたから。あるいは語りあっているというよりも、二人の男がほとんど永遠に論説していた。その対面で女の子たちはそれをうんうんきいているのだった。なんでそんな聴き方ができるのかわたしには不思議だった。そんな話をされたって退屈に決まっているのだ。実際、男二人の声、調子、内容、全てがわずらわしかった。ふんぞり返って腕組みしているやつなどはしきりに日本の小説を批判して外国のそれをほめたたえるのだが、どうして? と女の子が口をはさむとうんぬんかんぬんのどうたらこうたらがこういった批評をしているんだといった。それは質問の回答になっておらず、話を変な方向に曲げたのでしかなかった。ふうんという女の子の無関心に彼らは気付いていないらしかった。

その横でマンガを読むのがなんとなく恥ずかしくなった。文学を読まないやつは馬鹿だ、という風なことを彼らがいっていたからだ。そのマンガはすごく丁寧で新鮮なものだったのだけれど、ついわたしには自信がなくなってしまう。

 マンガを読み終えたころにパングラタンとハートランドビールが一緒に運ばれてきた。混雑していても全然あせらないカフェなのだった。マンガを脇に寄せてふと隣のテーブルに目をやった。こんなに難解で衒学的な話をしている男連中はもしかしたら教授とかそこらなのかもしれない、と。しかしそこにいた四人は全員ちんけな格好をしていて、若く、目の色は黒かった。わたしと同じくらいだった。

 ひとつ、わたしが目を剥かなければならないことがあった。その四人の中に彼がいたということだった。三月九日にわたしと歩きまわった彼が、その四人の中に含まれていたのだった。しかしわたしは実のところ、彼の顔も、彼の存在していたこともすっきり忘れてしまっていて、彼がほんとうに彼であるかどうかは定かではない。そういった感じで、驚きをいったん飲みくだすようにわたしは一口ビールを傾けた。

 眺めれば眺めるほど、隣のテーブルにいる彼と、わたしの記憶の中にいる彼のイメージは近づいていく。それはやがてぴったりと重なろうとしている。このときにはじめて彼の名前をまだ知らなかったことを思いだした。

 彼は、あるいは残念なことに、女であるようだった。IRUKAとプリントしてあるピンク色のTシャツを着ていたが、その胸元はそこら辺の女よりも明らかに膨らんでいたし、衒学者の二人からは女として扱われ、呼ばれていた。しほさん、と彼は呼ばれていた。これがいわゆる四穂なのであった。

 わたしはとりあえずパングラタンを平らげて、ビールを干した。クリーミーな味を占めた口を苦い泡で洗い流すと、ようやくわたしは彼女が別人であることを認めることができた。長い時間観察していると彼女はわたしの視線に気づいた。何か用でも? といった感じで眉と唇を動かした。そうよ、とわたしは表情する。しかし彼女は無視して四人の議論の中に戻ってしまった。

 そうよ、で固まってしまった自分の顔は、いつものなんでもない顔を忘れて色々な顔に試行錯誤しながら変わた。無視するならそれでいいと、わたしは店を出た。この一件でいろいろな過去が清算されればよかったのだ。が、そうはならなかった。

次に彼女に会ったのは二週間後、バーでお酒を飲んでいるときだった。一人でカウンターに座っているとたまに田舎くずれや教授に声をかけられてタダ酒が呑めることがあるのでしょっちゅう通っていた。わたしはとりあえず二百五十円を投げてビールをキャッチした。

 ビールを半分まで飲んだところで彼女が入ってきてカウンターに座った。わたしの二つとなりだった。ひと目で彼女だとわかったのは、IRUKAのTシャツを着ていたからだ。わたしはすぐさま話しかけた。「ねえ、あなたって、海外文学はすきなの」

「海外文学?」、彼女はすこし引いていた。「嫌いでもないし、好きでもないわよ。本は本。おもしろければおもしろい」

「ふうん。そうなの。それだけ?」

「それだけ」

「もっとこう。なんかないの。意味とか必要とか」

「知らない。いちいちそんなことを考えながら本を読む人っているの」

「……」わたしは吹き出した。「もっと難しい話をするのかと思ってた」

「どうして」

「わたしあなたのこと見たことあるのよ、つい最近に」

 わたしは先日のカフェでのことについて一から百まで説明した。できるかぎり短く。彼女がわたしの同窓生によく似ていることも話した。彼女はカフェでの議論でそうしていたのと同じようにうんうん肯いてきいていた。

「ああ、思い出した。となりでマンガを読んでいたちいさな女の子。ビールをのんでいたことにびっくりしたんだった。未成年じゃないのかなって。あなたが読んでいたマンガ、わたしも読んだ。あなた、わたしたちのほうずっと睨んでいたじゃない。だから、うるさくて怒っているのかと思ったのよ。だから知らんぷりしたの」

 ははははと笑った。

「名前は」とわたしはきいた。

「多田四穂」と四穂はいった。「名前は」

 わたしの自己紹介はひどく要領を得なかった。酔っていたからだ。

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