8

 早朝にホテルを出た。駅前の街には冷たく白いもやが溜まっていた。日の光の通り道が朝靄にうつってはっきり見えていた。スーツを着た何人かの人たちは駅に向かっていた。彼らとは逆の方向にわたしたちは歩いた。

 朝起きたとき、彼はけろっとした顔で、俺はいま酔っているから何をいいだすかわからないぞ、といった。彼が酔っているとは思えなかった。

 ホテルを出るときに彼はビールの缶をひとつ持ち出した。警官にみつかったら即座に連れていかれるだろう。飲みかけなのか、どこかで捨てるのかと見ていても、そうでないらしい。着崩れた制服には似合っていた。

 彼はときどきわたしの顔を見てため息をついた。後ろ髪をいじくりまわしながら、ときどき立ち止まってわたしを待たせた。彼のようすのおかしいのは明らかだったが、酔っているせいではない。彼はそこまで飲んでいなかった。何か声をかけようとしたが適切な言葉を考えることができなかった。

 わたしたちはひどく婉曲な道をたどって駅に近づいていた。まるで山手線を逆回りに乗ってしまったみたいに。それでも最終的に駅にたどり着こうとしていた。

「チンダル現象」とわたしはいう。強迫観念に追われたのだった。「チンダル現象って知ってる?」

「知ってる」と彼はいう。「すき間から差す光の筋道が見える現象のことだろ」

「うん」

「なあ」

「何」

「好きな人がいたという話を、さっきしたじゃないか」と彼はいった。わたしは不自然を感じた。彼の声は明らかに震えていた。「あれはお前のことだよ。それに退屈じゃなかったわけじゃない。ずっと怒っていた」

 わたしは黙ろうと思った。わたしの全ての発言が男のプライドとかいうなにかを傷つけるような気がしたからだ。男は、自分の考えを率直に話そうとすればするほど吃る生き物なのだった。逆にいえば吃らない男のいうことは信用してはいけないわけだ。

 彼はいった。わたしを好きになったのは名前からだったということ、げた箱でわたしを見つけてさらに好きになったこと、そのあと間もなくしてわたしに恋人がいるのがわかったこと、すぐに別れないものかと待っていたら三年たっていたこと、それらを彼はゆっくりと話した。「石の上にも三年っていうね」と笑った。「昨日、自転車を捨てるためじゃなくて、ただなんとなく、さみしかったから、学校に行ったら、校門のところで、お前の恋人と、すれ違った。俺はあいつのこと知ってたけど、あいつは俺のこと知らなかった。そういうのって、ほんとに、不公平だと思う。でも、あいつの顔みたときに、俺うれしくなってさ、俺にも春が来たんだなって。変な意味じゃない。地獄みたいな三年が終わって、俺を苦しめていた奴が、不幸になったと直感した、っていう意味だよ。それで、いい気分で自転車を引いていったら、お前がいたんだよな。こっちのほうが、本当に春が来たって思った」

 春が来た、という言葉は彼が使うには少し古臭かった。もっとうまいメタファーがあるはずなのだ。

 彼の声はずっと前から軋んでいて聞き取りづらかった。そして駅に着くころには涙で顔が訳のわからないことになっていた。引き笑いのような嗚咽がうるさい。

「あのとき、俺、嘘の名前をいったんだよ」と彼はいって、謝った。「どうして、嘘だと気付いた?」

「あれは適当にいったのよ。君と寝たくなかったから。でも本当の名前だとは思ってたのよ。嘘をつかれたなんて思ってもみなかったの」わたしは小さくごめんといった。

 彼は、持っていたビールの缶をわたしに渡した。缶の中で何かが転がっていた。

口に出していうのが苦手だから、紙にかいた、と彼はいった。「ラブレターじゃなくて、名前を書いた紙だよ。名前を書いた紙が、入ったビールの缶を、君に渡した。

駅の改札の横に、ホームレスがひとり立っていて、汚かった。改札はきれいに掃除されており、床のタイルはピカピカ輝いている。ラッシュが来ればそれはすぐに汚れてしまうだろうに、夜中かけて誰かが磨いているのだった。その人物のことを想像すると、わたしは途方もない争いに加わってしまったような気分になる。

ホームレスは空き缶の詰まったビニール袋をぶら下げていた。それを金にするのだった。わたしはいますぐ帰ったほうがいいような気がしていたし、もう少しだけ彼と居てもいいような気もした。はっきりいって、彼の涙の子供じみているのが、わたしをいたたまれなくさせていた。なぜ彼がこんなに泣いているのか、彼に訊こうとしたが、思い直して止めた。いうまでもなく彼の日課なのだった。

「わたし、電車で帰るけど、あなたはどうするの」

 歩いて帰れるから歩いて帰る、と彼はいった。

 さよならをいって改札に歩いていくと、途中でホームレスが近づいて来て、無言でビニール袋を広げた。一秒間、わたしとホームレスはみつめあった。

ビールの空き缶とポケットの中のごみをとりあえず袋に放りこんだ。ホームレスはお礼をいうように白い口髭をもごもごさせてもとの位置に戻った。

 彼は右手を挙げてわたしを見送った。実際は見ていなかった。送っただけだった。

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