7

 神社の焼け跡をあとにして、駅にもどり電車に乗った。そのあいだわたしたちは何か会話していただろうか。思い出せない。わたしは混乱していたのだ。どちらかといえば、彼と寝たくないことがわたしの本心だった。しかし咄嗟にわたしは本心が嘘であるという嘘をついた。これがわからなかった。わたしたちは相模大野で降りた。ホテルはありえないくらいすぐにみつかった。

 結局彼とは寝なかった。ホテルの薄暗い部屋に入るなりやっぱりできないとわたしはいった。わたしはまだ三年付き合ってきた彼とは実質別れていないことになっている、いずれ別れることになっても、少なくともいまはだめだ。そう説明すると、彼は電話して別れることを伝えればいい、君の彼ってのがどんなだか知らないけど、もう学校で顔をあわせることもないんだから、悪くないだろう、という。わたしは彼との電話の約束を思い出した。彼は携帯電話を睨みつけわたしを待っているのかもしれなかった。そしてわたしたちがどうなるのかをわたしに決めさせようとしている。

 彼と寝たくなかった理由をうまく言葉で説明できない。それはすごく精神的に抽象的な形を胸のなかに作り上げていた。彼自体にはなんら落ち度はなかった。彼が自ら引き下がってくれることが一番よかった。現在交際相手がいるということはたかだか都合のいい言い訳でしかなかった。

 電話はしたくない、とわたしはいった。

「どうして部屋に入る前にいわなかった」と彼はいった。「いまさらフロントにやっぱりいいですなんていえないぜ。それとも、あのカップルめちゃくちゃ早かったな、とか思われるんだぞ勘弁してくれ」

 彼は上着と靴下を脱いで部屋の中をみてまわった。テレビをつけると一面きれいな肌色が映った。クローゼットを開閉し抽斗を出し入れして冷蔵庫を開けた。中にはビールの瓶と缶がすき間なく詰まっていた。彼は缶を一つ取り出して机に置いた。

「じゃあいいわよ、もうやっぱり」とわたしはいう。「その代わりあなたの名前教えて。名前の知らない人とするなんて気持ち悪いもの」

 これで彼が引き下がってくれたらとわたしは考えたのだった。

「そう。でも俺が嘘をいうかもしれないよ」

「嘘をつかないで」とわたしはいう。

「なるほど」

 沈黙が降りた。仮にわたしが悠長に服を脱いでまた着なおしたとしても余りある時間だった。彼の口がもごもごと動いていた。

ベッドに腰かけてわたしは待っていた。シーツにはしわが寄っていた。何回伸ばそうとしてもそれはもとのしわに戻るのだった。

「いうよ」、彼は両手を挙げた。そして彼は自分の名前をいった。

「そんなにしたいの?」

「知らないよ……本能なんだ」

 必死だった。

 わたしの隣に彼が座りにきた。制服のズボンはなにか仕掛けでもしてあるかのように大きく膨らんでいた。そういうタイプのズボンなのかもしれない。

ワイシャツの前ボタンを外したあと、彼は自分の袖のボタンを外すのに手間取った。焦らないのとわたしが代わりにやってあげると、今度彼はわたしのワイシャツを脱がそうとしてくる。彼の指先をみていると幼稚園児に折り紙を教えているようなもどかしい気分になる。なぜわたしが幼稚園児に折り紙を教えないといけないのか。

わたしの前がはだけた。上半身が裸になった彼は痩せているから白いのか、白いから痩せてみえるのか。これからこの腕と胸に抱かれることを思うと無性に自分が大きく太ってみえてくるから嫌だ。背後にあった大鏡に振り向くと電車の中ではかわいらしかったはずのわたしの顔も黄色くくすみ垂れ下がっている。鏡が悪いのだとわたしは思った。彼の顎がわたしの肩に乗った。彼のうすい体が平面的に押し付けられてきて、一方わたしの体は反発してじりじり倒れていく。やがて崩壊するように二つの重なった体がパタンと落ちる。と、彼が信じられないくらい硬い。やはりズボンに仕掛けがあるだけで彼はそこまで興奮していないのではないかと冗談を心のうちでささやいたが、実際それまでセックスしたことのある唯一の人はこんなに硬くはならなかった。その人の硬さを常温に放っておいたバターとするなら、彼のそれは冷凍庫で一日固めたバターだった。そしてまるで何かを塗りたくるみたいに、彼の硬さはわたしをぐりぐりと押した。右手が左の胸を下着の上から触ってきた。パンの生地になったみたいだった。

 嘘、とわたしは叫んだ。両手で彼を押し上げた。

 彼は身を起こして耳の穴をいじって、「うるさいな」

「嘘の名前をいったでしょ」

「いってないよ。本当だよ」

「嘘よ」

「嘘じゃない」

「嘘」

「どうして嘘だと思う?」、彼は大きく肩で息をしていた。

「本当のことじゃないから。そんな名前じゃないから」

「それじゃあ理由になってないよ」

「とにかく嘘なのよ」

「名前なんてもうどうだっていいじゃないか。面倒なことにこだわり過ぎない方がいい。別に、ほら、もっと大事なことがあるんじゃないかな」

 たとえば、とわたしはきく。

 彼は顎を引いてアデノイドみたいな顔をした。眉を吊り上げ見開いた目は血走っていた。

 部屋が暗く、静かになったように感じられた。わたしたち二人とも、向かい合ったままうつむいてしまう。次に起こすべき行動を考えられなかった。雰囲気がさむく、痛かった。デッサンのモデルになったみたいに居心地が悪かった。

 しばらくすると猫のような鳴き声がきこえてきた。きゅう、きゅう、きゃあと誰かに撫でられることを求めているみたいだ。「猫」とわたしは声を出した。彼も無表情で反応した。わたしたちは頭を振って猫の声の出どころを探した。それはベッドの上の壁のむこうからきこえてきているのだった。二人して壁に耳をくっつけて猫の声を聴こうとした。こちらの部屋は静かだった。

 しかし、そのときには、もうすでに猫はいなくなっていた。どこかに行ってしまったのかもしれない。その代わりに、となりの部屋の女の喘ぎ声が微かだがきこえてきた。わたしと彼は喘ぎ声がきこえなくなるまで耳を壁にくっつけていた。

「で、どうするの」、彼はテーブルに置いておいたビールを飲み始めた。「もうやらないってことでいいんだよな」

 彼のズボンのふくらみは無くなっていた。

「別に」とわたしはいった。

「もういいよ。ばかばかしい」

 ばかばかしい、と何度もいった。今日会ったばかりの、名前もよく知らない人と寝るなんてどうかしている、それは自分の裸を見せるということだ、だけど、思うんだけど、名前よりも体のほうが大切に決まっている、そして体よりも心のほうが大切なんだ、ビールの銘柄よりも味のほうが大切で、味よりもつまみのほうが大切なのと同じだ。そういう風なことを彼はいった。もしかしたら記憶違いかもしれない。わたしがそう思っただけかもしれない。

「ぼくが悪かった。寝てくれなんていうべきじゃなかった。君に無理をさせた。悪かった。謝るよ。でも俺のいった名前は本当だよ。それは信じてくれ」

 彼はビールを空にしてもう一本冷蔵庫から取り出した。

「君はいつもお酒を飲んでいたほうがいいわよ。そのほうがいい人になるもの」

 わたしの言葉を彼は真に受けたらしかった。パンのようなにおいが部屋に充満していた。

 それからわたしはベッドに潜って眠りに就いた。その間、彼はずっとビールを飲んでいた。少なくとも襲われることはないとわたしは安心した。それが少し残念でもあったかもしれない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る