6

 目が覚めた瞬間、自分が眠ってしまっていたこと気付いて後悔しかかった。

 石の土台の上にわたしはいた。胎児みたいに体を丸めた体勢で横になっている。彼は、わたしの頭のすぐ上にあぐらをかいていた。背筋はゆがんで、あごを突き出すように頬杖をついていた。

 起き上がって前髪をととのえる。まとめた後ろ髪がほどけかけていたのでいっそのこと解いてしまう。彼がおはようといった。こんばんはと返す。「今何時?」

「十時くらい」

 わたしは全身をまさぐって失っているものはないか確かめた。わたしの体はまったくきれいなままだった。下着は、この空き地のように手つかずだった。彼はわたしをみてほほ笑んだ。しかしそれはあざ笑っているようでもあった。

「ずっと横にいたの? 何時間も」

「大丈夫。苦痛じゃなかったから」

「そう」

「泣いてたんだよ。君が寝ているあいだに」

 わたしは彼が何をいっているのかわからなかった。

「君は、一週間にどれくらいの頻度で」、彼はわざともったいぶって間を取っているのだとわたしはみる。「泣くの?」

「泣く? そんなの、一週間に何度もあることじゃないわよ。今日だって泣かなかったんだから」

「俺は毎日泣くんだよ」

俺のいうおかしなことを冗談だと思わないで、と彼は表情した。

「毎日必ず一度は泣かないといけないんだ。そうしないと」

 その先を彼はつづけなかった。まるでこれ以上話が広げられなくて沈黙する初対面の人間のように。実際彼とは初対面なのだったが。

彼がふたたび話しはじめたとき、それはまた違う話になっていた。

「悲しいとか、いやなことがあるわけでなくて、俺の体の構造が生まれつきそういう風になっているのかもしれないなって思うんだ。排泄みたいなもので」

「ふうん」

「そういうのって誰にでもあるだろ」

 わたしは自分が最後に泣いたのはいつだったか考えてみた。しかしわたしはしばらく自分が泣いていなかったことに気が付く。高校三年間では一度も泣いていない。中学卒業のときも泣かなかった。小学校の卒業式はなぜか泣いた。もっとも近いときが中学一年の冬だったことをわたしは思い出した。あのときわたしは相模線の車内でうずくまって泣いたのだった。満員電車だった。小刻みに震える床がおしりに痛かった。近くにいたおじさんが声をかけてくれた。おじさんの革靴が目の前にあったので、わたしは革靴に向かっていろいろといった。ごめんなさい。なんでもないです。ただお腹が痛くて、いや貧血で、いや生理なんです。すべて偽りだった。誰かがわたしを座席に座らせてくれた。座席にぬるさを感じた。おじさんの革靴がどこまで行くのかと訊いてきた。降りるべき駅はとうに過ぎていた。そしてどの駅にも降りたくはなかった。結局終点まで行き、折り返したのだった。

「父さんも母さんも、俺が毎日泣いていることを知らない」と彼はいった。「他人にいうのははじめてだよ。泣くっていっても、さらっと泣くときもあれば、本格的に何時間もかけて泣くこともある。そのときの気分次第だ。風呂場だったり、朝布団の中だったり、学校のトイレでこっそりしたり、外で人にみつからないようにしたり――俺にとっては一種のゲームみたいなものなんだ」

「それって本当の話?」

彼はうなずいた。「こういうのははじめてだけどね」

 わたしは彼の目もとをじっと調べた。涙の乾いた後があるかどうか探したのだ。しかし目やにのひとつもみつからなかった。疑い深く観察していると彼の目がわたしの目と重なった。真正面からだと、彼はますます女の子みたいにみえた。彼のきれいな肌をみていると、ひとつの疑問がわたしの中に浮かんできた。それは、言葉にしないかぎり何も解決しない種類の疑問だった。

「君ってオナニーするの?」とわたしはきいた。

 彼は目を丸くして驚いた。

「オナニー」

「オナニー」と彼はいった。「それって自慰とかマスターベーションとかのことだろ?」

 うなずいた。

「そんなことしたことないな」と彼はいって鼻を触った。「俺がそういうことをするようにみえるの」

 みえるとかみえないとかではない。男だろうが女だろうが多かれ少なかれオナニーはする。自分を慰めることはする。それがわたしにとっての一般理解だった。

「君には性欲がないってこと?」

「いいや……性欲はちゃんとある。なんでこんなこといわないといけないんだ。でもあるよ。きっと、ただ、性欲を発散する必要がないってだけなんだと思う」

 どうしてとわたしはきく。

 彼は首をかしげる。

「女の子と寝たこともないのね」

 彼はうなずく。

「寝てみたいとは思わない?」

「それってつまりどういうこと?」と彼は訊き返してきた。

「そのままの意味よ」

「……わからない」

 彼は長く小刻みに首を振りながらわたしの背後の遠くのほうを眺めていた。

「もしも、俺がそういったらどうする?」

「どういうこと?」、彼のそらした目をわたしはのぞき込んだ。

「用はつまり、寝てみたいって俺がいったら」

「さあ」

「まじで……ちょっと考えてみて」

わたしはちょっと考えた。そしていった。「そういったらっていわれても、わたし、寝ないわよ。あなたとはたぶん」

 彼は細く息を吐いた。それから笑った。出来合いの笑いだった。じゃあ、帰ろうかといって彼は立ち上がった。尻をぱんぱんと叩く。

 待って、とわたしはいった。

「やっぱりうそ。さっきいったのはうそ」

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