5

 わたしは横浜線の各駅停車にのって、どこまで行くものかと考えていた。

 車内は肩と肩が触れあうくらいには混雑している。騒々しい走行音に比べて、人々は猛獣の檻に入りこんでしまったかのように静かだった。夜を向こうにする窓にはわたしの顔がうつっていた。その顔は鏡でみるよりもかわいかった。

 ギターの人は名前をいわなかった。それどころか、わたしたちが何度呼び掛けても見向きせず、ひたすらギターを弾き歌いつづけた。ついにわたしは大声で、あなたの名前は? と訊いたのだったが、やがて広場にいた人々がわたしのことをみているような気がしてきたのでやめた。ギターを弾いていないほうの彼といえばすこし遠くに回って他人のようにしていたのだった。

「どうして電車に乗った?」と彼はわたしの隣で耳打ちするようにいった。

「なんとなく。あのギターが変な人だったから」

「それだけ?」

「そうよ」

「お前もよほど変だと思うよ」

 電車が減速をはじめ、やがて止まり、何人かの乗客を吐き出し、飲み込んだ。車窓の景色が加速していった。

「君はわたしの名前を知ってるんだから、ちゃんとわたしの名前で呼びなさいよ。すくなくとも、お前なんて呼び方しないで」

 彼は窓の外に目をそらした。そんなところも昔の知り合いに似ている。窓にうつった白い顔が、ものすごい速さで動きながら、夜の住宅街をみおろしていた。

「ねえ、君って本当に友だちいないの? 一人くらいいるでしょ」

「いじめないでくれよ」と彼はいう。

「誰かと付き合ったりは?」

 彼は首振り人形のように首を振った。

「部活は?」

「別にそんなことしなくても、俺は全然退屈しなかったよ。楽しかったよ。この三年」

「どうして」とわたしはまたきく。まるで新聞記者か七歳児だなと自分で思う。「ボランティアをやってたとか?」

「恋愛をやっていたから」と彼はいった。「お前の知らない人だよ」

 夜は一層くらやんできて、窓にうつるわたしの顔をよりくっきりと、かわいくさせた。市街地は暗い。それぞれの家が放つ生活光は泥棒が喜んで近づいていきそうなくらい弱いのだ。もしも強い光があるとすれば、わたしたちを運んでいる箱以外にない。それは轟音を撒きながら海に下っていた。

「どこで降りる?」と彼はきいてきた。

「さあ、決めていない」

「俺、行きたいところがあるんだけど」

 どこかの駅で彼は前触れもなく電車を降りた。わたしは半分置いて行かれそうになりながら一緒に降りた。わたしたち以外に降りた人はいなかった。電車は光を内部に閉じ込めたままホームを抜けて消えていった。ホームが急にさみしくなった。

 改札を抜けてロータリーに出る。一度くらいは訪れたことがありそうな街並みだった。造りが凡庸なのだ。彼はひび割れたアスファルトの上をどんどん歩いていった。わたしはそのあとについていった。彼の歩き方だけ取ってみれば、すごくスマートだった。学ランをずり上げズボンのポケットに手を入れ、空から吊るされたかのように背筋はぴんとしていた。重心よりも前に足が出、靴底は地面にこすれるかこすれないかの低さを保っていた。頭は毎回同じリズムで上下した。三四歩の差がわたしと彼とにあった。その遠さで背中が小さくみえる分、彼の征服が簡単に感じられた。学ランの黒が夜に紛れそうだった。

「昔この辺りに住んでいたんだ。小四のころまで。引っ越してからは初めて来た」

 町のいたるところに空き地があった。そこには雑草がぼうぼうに生えている。家と家とのあいだに隙間風が吹いているみたいだった。道ばたのすこし高い草が足首を撫でた。下を向くと、ローファーの甲が汚れているのに気が付いた。わたしは急に疲れを感じて座り込みたくなった。視界は暗くぼやけていた。もう一人では帰れないくらいには入り組んだ路地に入っていた。

 彼が振り返りいう。「おい、となり歩けよ。話しづらいだろ」

 眠くなってきた、とわたしはいう。

「早起きなんかするからだよ」

「七時起きよ」

「ちゃんと睡眠とれよ」

 歩くのが嫌になるくらいわたしは眠かった。今何時、ときいた。

「七時前くらいじゃないか」、彼は前に向き直った。「たしかこの辺りに神社だったか寺だったかがあったんだよ。なあ、八幡宮って」

「神社」

「昔、引っ越す前はその神社でよく遊んだんだ。缶蹴りしたり、社にできた蜂の巣に石投げつけたりして。だけど何年か前に火事にあって無くなった。ちょっとしたニュースになったんだぜ。放火で全焼したんだ。犯人が捕まったかどうかは知らない。知ってる?」

 知らない、とわたしはいった。

 彼は立ち止まった。

「俺の記憶が正しければ、ここだよ」彼は親指で自分の背中を示していた。

 そこは、わたしの見た限り空き地でしかなかった。けれど、そういわれてみればなるほどたしかに霊験がなくはなさそうだった。まだらに草の生えた二十メートル四方の土地の真ん中には大きな石の土台が埋め込まれていた。一度でもそこが神社だったと知ってしまえば、その石は神社の足が置かれていた踏み台にしかみえなかった。

「なんとなく思い出せる。この広さは覚えてる」

 彼は空き地に入っていって、さながらここにわたしの家が建ちますという記念撮影でもするかのように両手を広げた。彼は歩きまわりながら、でも子どものころと今とで大きさの感覚に差があるからもしかしたら違うかもしれない、ただの広い土地かもしれない、でもこの石があるってことはやっぱり神社だったんだよきっと、とかいっていた。

 わたしは土台の石の上に体育座りをした。石は微妙にでこぼこしているので座りやすい位置にお尻を合わせる。冷ややかさが伝わってきた。それは石からだけではなかった。そこにはもう春の温かさは存在しなかった。日が沈むとともにどこかに吸いこまれてしまったのだった。わたしは両膝に両目を当てて、彼の声が遠ざかって行くのをきいていた。

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