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 店を出たとき空はほとんど紫になっていた。西のビル群の向こうだけが明るかった。

 どうだった、と彼はきいてきた。

「おいしかったわよ。レーズンがすこし多かったけど」

「いつもはあんなに多くないんだ。今日はあの魚みたいな奴の機嫌が良かったのかな。なんか顔が元気だったし」

「……たぶん、レーズンが余ってたんじゃない?」

 彼は指を鳴らした。

 横浜線の町田駅に向かって歩いていると、一方通行の道を逆走しているような気分になった。すれ違うひとがわたしと彼との仲をどうみているのか気になった。でも多くの人はわたしたちを視界の端にも入れていない。それはただのわたしの過剰な自意識だった。

 駅前の広場に出た。そこでは今日卒業したばかりの中高生がたむろしていた。その込み入ったあいだをスーツ姿が下を向いて通り抜けていく。あたりまえのようにぼーっと突っ立っているホームレスもいる。嫌なにおいが地面から吹きあがってくるような気分だった。人ごみの中で彼が舌打ちしたのをきいた。

 横を歩く彼はすこし上を向いていた。雲は青黒いあざみたいに浮かんでいた。星も月もみえない。方角が悪いのかもしれなかった。彼が何をみているのかわたしにはわからなかった。

 広場の真ん中の変な形をしたオブジェの下で、ギターを弾いている人がいた。それで誰かに聞かせようということなのだろうけれど、彼のまわりには誰もいない。彼がどんな曲を弾いてどんな歌を歌っていたのかもう思い出せないが、彼の声はそこら辺の笑い声にかき消されそうになっていた。

「へんなやつがいるぞ」、彼はギターの人を指さした。

「君のほうが変よ」とわたしは返す。「君って昔の友だちに似てる」

「今はもう友だちじゃないの」

「はじめから友だちじゃなかったわ」

「なんて名前のやつ?」

「そんなこと知ってどうするのよ」とわたしはいった。「大三っていうの。大きいに三って書いて」

「大三」と彼は声を低くしていった。「変わってるんだか変わってないんだかわからない名前だな。もしかし大一、大二っていう兄弟もいたのかな」

「一人っ子よ」

「意味不明」と彼はいった。「その友だちはどんなやつだった?」

「たとえば」、わたしはすこし考えて「こういう人ごみがあっても、人ごみだと思えないやつ」

「じゃあなんだと思うんだろう」

「なんとも思えないの」

「ふーん。それってただの馬鹿じゃないの」

 彼は指で鼻の下をこすっていた。それからあごの下もこすって、首を撫でた。

「でもギターのやつのほうが俺より変だよ。だってこんなうるさいところでギター弾いてるんだもん。静かなところでやればいいのに」

 このとき、なぜかわからないけれど――もしかしたらギターの人が馬鹿にされるのが気に入らなかったのかもしれない――、わたしは彼にどうしても自分が変だということを認めさせたかった。それに彼の名前をききださなくては気分が満足しなかったのだ。わたしは賭けをやろうといいだしたのだった。

「あのギターの人に名前をきいて、教えてくれるかどうか賭けをしましょ。わたしは、教えてくれる」

「俺も教えてくれると思うけどね」

「それじゃあ賭けにならないじゃない。君は教えてくれない方でしょ」

「どうしてそうなるんだ」といいながら彼は左の鎖骨を撫でている。「こうしよう。名前をきいて、ひらがなで書いたときの文字数が偶数か奇数か。俺は偶数」

 賭けの内容を互いに確かめた。わたしが勝ったら彼は名前を明かす。彼が勝ったらわたしは今夜この駅に泊まる。

 わたしは彼の手を引っ張って、人ごみを抜けてオブジェの近くによった。ギターの目の前まで行くと、案外彼がちゃんと弾けていることに気が付く。そこには夕方の柔らかい風が吹いていて、人ごみのむささは消えていた。

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