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わたしたちは小田急線の海老名駅から新宿方面にのって町田で降りた。駅南口の階段を出るとき、ちょうど母親から電話がかかってきた。無視した。
彼はヤニくさい路地を一言もなく通り抜けて、サンマルクのとなりにある、一度火事にでもあったかのように黒ずんだビルに入った。そして狭くて急な階段を三階まで上がると、そこに一つしかないドアを開けた。彼は控えずに、まるで自分のマンションに帰るように足を踏み入れた。
そこは店というよりは、インテリア展示場にありそうなすこし広めのキッチンを改造してカウンターを取り付けたといった感じだった。清潔感があり、無機質だ。ほそながい部屋のつくりにカウンターチェアが十個並んでいる。彼は奥から五番目に腰かけた。わたしはそのとなりに座る。ほかに客はいなかった。店員もいない。キッチンの向こうに一つとびらがあって、そこに誰かがいるのかもしれないと考えていると、注文するときにだけ出てくるんだよ、と彼が教えてくれた。
「メニューがないけど」
「カレーとコーヒーとコーラしか出さないよ。何をどう頼んでも千円。お代わりしても千円」
「メニューが多くて悩んじゃうわね」
「頼めば水も出してくれる」
「余計悩ませないで」
わたしはカレーとコーラを頼むことにした。彼がカウンターのベルを鳴らすと、間延びした静けさのあとに、奥のとびらがだらだらとひらいて、三十歳くらいの男が出てきた。わたしはカレーとコーラを頼んだ。彼はカレーとコーヒーを頼んだ。
「コーヒー自体は悪くないんだけど、カレーとコーヒーの相性があまりよくないんだ。でもコーラのほうがもっとよくない。一番いい選択がカレーと水を頼むことだけれど、それで千円も払わないといけないのはシャクだ」
店員の男はうなぎのようなぬるっとした輪郭をしていて、目はクレヨンで塗りつぶされたようにうつろだった。そのうなぎは五分と待たせずにカレーとコーラを、次にカレーとコーヒーを運んできた。カレーにはたしかにレーズンが添えてあった。しかしそれは添えるというにはいささか量が多すぎた。米の三分の一くらいはあったのだ。
わたしたちはゆっくりと時間をかけて食事をした。その間にすこし会話があった。ちょうど左のような内容だった。
「あなたはわたしの名前を知ってるのに、なんで名前を教えてくれないの? 不公平じゃん」、わたしはきいた。
「不公平でも公平でもないよ。そんなむずかしい言葉を使う話じゃない。ちょっとだけ知識に差があるってだけ。誤差だ」
「自分だけ秘密を持っているのがおもしろいんでしょ」
「すごくおもしろいよ」、彼はコーヒーにミルクを注いだ。ほんの数滴でもコーヒーは色を変える。「一度知られちゃったら取り返しがないじゃないか。名前をとられるより名前を知られるほうが恐いんだ。そういう時代なんだよ」
「あなた友だちはいた?」
「いたら卒業式の日に自転車を捨てたりなんかしないよ。けっこう大切にしてた自転車なんだけど。やっぱり取りに戻ろうかなあ」
「ねえ、さっきからあなたのことなんて呼べばいいかわからないの」
「適当に呼べよ。気にすんなって」
「出任せでもいいからなんて呼ばれたいかいってみなさいよ」
彼はカレーを口にして、カウンターのベルを見つめながら咀嚼し、飲み込んだ。
「彼」と彼は口にした。
カウンターの向こうにいたうなぎがじっとわたしを見つめていた。温度のない目線だった。
わたしは〈彼〉のことを君と呼ぶことにした。
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