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四穂に出会ったのが大学一年生の夏で、その出会いは、偶然か必然かでいえば少なくとも必然ではなかった。わたしが彼女の存在に気づくことができたのは間違いなくわたしに過去があるからだろう。考え方を少し変えれば、高校を卒業したその日に四穂に出会っていたともいえるのだ。だから、わたしは四穂に出会ったことを語る前にまず高校を卒業した日とその翌日の話から始めたいと思う。その次に四穂の話をしたい。でも、彼女の話が本題であるかというとそうでもない。
高校の卒業式が終わり、体育館横の自転車置き場にはもう自転車は置いていなかった。昼をとうに過ぎ、わたしはお腹がすいていた。早いところ家に帰りたかった。しかし、目の前にいた男がなかなか帰らしてくれなかったのだった。
わたしと彼とはいかにもねんごろといった感じで話していたと思う。卒業する二人の、静かに悲しいあいさつというよりも、それは、休み時間にでもできそうな、たとえば今日は目をつむったまま登校しようとして車に引かれそうになったというような馬鹿ばかしい話だった。で、わたしはそれを適当に笑って空腹を紛らわしていた。しかしそうやって話半分にきいているうちに、気づくと彼は重苦しい表情になっていた。口調も訥々としている。わたしは笑えなくなる。
一回声変わりがきて、もう一度声変わりがきたみたいな声で彼はいった。「どうして、こっちの大学に受かってるのに、わざわざ日本の反対側に、なんか、行かなくちゃ、ならないんだ」
彼はわたしが高校生活の丸々三年をつきあった相手であった。なぜ彼と付き合わなければならなかったのか、いまではよくわからない。背が高くて、とくに運動もしていないのに強そうだったからかもしれない。そのくせふだん話すことはやさしいので振りづらかったというのもあるのかもしれない。
入学して一ヶ月くらいで彼はわたしに告白してきた。告白するとは好きだと相手に伝えることをいうのだが、顔の恐い彼の場合それはちょっとした脅迫だった。そのとき彼とは二、三回話をしたことがあるくらいで、情報はなかったし、興味もなかった。ただ、当時わたしが一種のなぐさみものを求めていたのは事実であって、ちょうどよく目の前にあらわれたのが彼なのだった。
交際関係は交際に関心のうすいほうの人がその主導権を握っているというのはよくいわれる話だが、彼との恋愛はそれを裏付ける証拠になった。わたしはいつだって彼と別れることができた。たいして好きではなかったし愛着もなかった。別れたとしても失うものはない。つきあいたいと思うひとが他にいなかったというのもある。
二年の四月にはじめて彼とセックスをした。屋上につづく扉の前にある、三畳ほどのスペースでわたしたちはセックスをしたのだ。わたしたち以外の人も、そこでたまにセックスをしていた。しかしいつだったか、どこかの誰かがそこでセックスしているのを教師に見つかってしまい、それ以来、そこでセックスするのは禁止になった。学校でセックスをするのは禁止にならなかった。わたしたちが最後にセックスをしたのも、同じ時期だったかもしれない。
それはなりゆきだった。わたしと彼は三畳ほどの冷たい床の上に足を広げ壁に寄りかかり、おもしろいのかおもしろくないのかもよくわからない、たとえばこのあいだ友だちの家に泊まったとき下着を忘れたので友だちのを借りたらそれがブリーフだったとかそういったことを、鼻で笑いながら話していた。しかし、階下に声がきこえるたびに二人して意識がそのほうに向かうので会話は途切れ途切れだった。途中でふと彼が話すのをやめて、わたしの顔をじっとみつめてきた。口はまっすぐに結ばれていた。何のことかとみつめ返すと、表情から彼のしようとしていることがすべて察せられた。
やがて彼のほうからキスをしてきた。みつめ合ったまま一分くらい膠着していたときだった。たどたどしく近づいてきた彼の顔に焦点があわなくなると唇に唇が当たった。全身が羽毛に包まれたようにくすぐったくなり、白目をむく。これはわたしに限らず、女子全員にいえる現象なのではないだろうか。女の子というのは巷で思われている以上にキスが好きで、それがいちばん感じるといっても妥当なのではないだろうか。いったい彼のキスがどれだけうまいのか、当時のわたしには判断がつかない。体がやたら反応して、肩と腰の筋肉がひとりでに軋むような音を立て、あごは無防備に上がりつづけた。いつのまにか倒されて横になっているわたしには、彼がこまめに胸をさわるのも、太ももにそってスカートのなかに手を滑らそうとするのもどうでもよくなってしまって、覆いかぶさる彼の唇をひたすらむしゃむしゃしている。キスは人間をここまでだらしなくさせるのだった。あとから友人にきいたところによると、セックスのうまさというのは女を感じさせるかどうかであるが、結局私たちが感じるのは自分が愛されていることを実感するときである、それ以外の物理的な官能は実際麻薬的中毒的であるけれどもそれそのときで終わってしまう、つまりセックスのうまさとはとりもなおさずキスのうまさといっていい、ということだけれど、その通りだとは思う。――彼は起き上がるとわたしの両ひざを力でこじ開けて、ショーツをみた。生理だったらどうしたつもりなのだろうとわたしは思う。でもわたしは生理ではなかった。彼はわたしの太ももに頭をはさんだ。鼻さきが、ショーツにこすれるくらいの近さで、しばらく動かなかった。彼の考えていることはわかっていた。
そこには沈黙というよりも、さらに深い静寂があった。踊り場のすりガラスが黄色く光っていた。磯の香りがする、と彼がいったような気がした。階下から生徒と教師の雑談するのがきこえてきた。平和な内容だった。まさか自分の頭の上で今まさに処女が処女を失おうとしているとは思うまい。やがて階下の話し声もきこえなくなると思い出したように彼は動きはじめた。わたしの足をエビのようにそろえさせ、ショーツをお尻のほうからめくっていく。それから彼はズボンを半分脱いで、大きくなったものを見せたあとで、自分はゴムを持ってきていないといった。わたしは何もいわない。実は教室にもどってバックのなかをさがせばすぐに出てくるのだった。しかし、そんなことするくらいだったらわざわざ学校でセックスをしたりはしない。ゴムがないほうが痛くないと彼がいうのでそうさせた。それが嘘だったとしてもどうでもよかった。定かではないけれどわたしはけっこう濡れていたと思う。彼はわたしの膝裏を両腕でそれぞれ抑えこみ――わたしの体はだるまみたいになる――体重に任せて押し付けてくる――
まるで自転車置き場の放つ沈黙がわたしの声をかき消したような雰囲気が、わたしたちのあいだには漂っていた。彼は耳を澄ましてわたしの発言をきき取ろうとするがそもそも発言していないのである。
「……。えーと……。で、遠距離でやるか、それとも別れるのか。そういう話をしてたんだよ」と彼はいった。
いつのまにその話になっていたのかわからない。でも彼はその話がしたいのだ。
「なんでわたしが決めないといけないの」とわたしはいった。「べつにわたしどっちでもいい。そんなの自分で決めたら」
そっちのほうから付き合いだしたんだから、といい出す前に彼は口をはさんだ。
「べつに俺はもう、終わっても、いいけど。楽しかったよ。楽しかったけど、お前がいやいや付き合ってるのはわかってたから。いつ振られるんだろうなって冷や冷やしてたんだからないつも」
「いやいやなんかない」
「あれだぜ……」、彼はいう。「お前にとっては、いつあがってもいいぬるま湯だったのかもしれないけど、俺にとっては、いつまでも浸かっていたい水風呂だったっていう、ことだよ」
わたしは一ミリだけ首を振った。
彼は日常の言葉遣いを取り戻しつつあった。反比例してわたしの言葉はどんどん弱くなっていく。
「いやいやじゃないなら、どんな気持ちだったんだよ」、わたしの反応を待ってから、彼はつづける。「夏休みに入る前に、どこの大学にいくのか、きいたよな。そしたらお前、入れるところに入るって。俺のことなんか考えてないんだなって。俺がどうしてそんなこときいているか、興味ない顔して。ほのめかしてるんだろって思ったよ。俺と同じ大学には絶対にいかないし、卒業するまでには別れるつもりだって、そういっているようにしかきこえなかった。そうじゃなかったとしても、そうなるんだろうなって」
自分の気持ちがどんどん冷めていくのをわたしは感じていた。
「話がそれてる」
「ほかに誰か好きな人とかいるの?」
「そんなのいない」
「じゃあなんなんだよ」
「何が?」
押し問答になった。訳のわからない決めつけあいがはじまる。しかしどれだけそれが熱を帯びても、お互いに別れるという結論は出てこなかった。
「いいや、もう帰る」と彼は突然歩きはじめた。
待って、といったほうがいいような気がした。しかし、彼がその言葉を期待して行動に出たと考えると、いうのが嫌になった。負けたような気がするのだ。
彼は自転車置き場を抜けて建物の陰に消えていった。それを見送りながら、こういう別れ方が一番いいのかもしれないなと思った。わたしはそこらへんの草に唾を吐いた。唾を吐いた瞬間、建物のかげから彼がひょっこり顔を出してきた。
「今日の夜までに、どうするか決めて携帯に電話しろ。絶対だからな」
彼はまた物かげに消えた。
彼とはそれ以来一度も会っていない。その日の夜電話もしなかったのだった。いまどうしているのか、たまに考えてみるけれど、途中でどうでもよくなるのが常なのだ。そしてそのたびに、こういう別れ方もありだなとはにかむのだ。
わたしは自転車のない自転車置き場でずっと立ち尽くしていた。彼とまた鉢合わせにならないためだった。
空に向かって大きく息を吐いた。息はもう白くならなかった。頭の上には小さな雲がいくつか浮かんでいた。その背景にくすんだ青色があった。太陽は、どこかの雲か建物に隠れてしまったのか姿ない。そのかわり月をみつけることができた。月は水に浮かんだコンタクトレンズみたいに薄かった。わたしは誰かと一緒の布団で眠りたかった。広々したベッドであればなお良かった。
自転車を引いた男がのんびり歩きながら自転車置き場に入ってきた。そしてそこら辺に自転車を停めて大きく伸びをした。学ランを着ていたので明らかにこの学校の生徒だった。卒業式が終わった学校にいまさらやってきて何をするつもりだろうと眺めていると自転車の横に座りこんで携帯電話をいじっている。わたしとは十メートルも離れていなかった。わたしは気まずくなる。先の会話をきかれていたのではないか。彼はときどきわたしのほうをちらちらみてきた。それはまるでもの珍しい何かをみつけ、遠くから観察するような目だった。でもそれはわたしの自意識が強すぎるだけなのかもしれなかった。
唐突に、男はいった。「卒業生?」
わたしはうなずいた。
「俺も卒業生だよ。同じだね」
不自然なくらい男は微笑んでいる。
「今学校に来たの?」
「そりゃあ」
「もう卒業式終わったけど」
「知ってる。出なかったからね」
彼は立ち上がり尊大な足取りでわたしのほうに近づいてくる。
「どうして、出なかったの」
「長い時間座ってるのが苦手だから」
「じゃあなんで今ごろ学校に来たのよ」
彼はわたしと距離を取って止まった。それが彼の自然な距離なのかもしれないが、わたしにとってはあまりにも遠かった。
「用があったからね」、彼は何でもないというようにいった。
「用?」
「その用はもう済んだけどね」
彼の顔はわたしの顔とほとんど同じ高さにあった。制服のそでは成長を見越して大きめに作ったのに結局あまり成長しなかったみたいに、手首をつつんでいる。あごから首すじにかけての輪郭はほそく、女っぽい。もう少し髪を伸ばせば女の子にみえたかもしれないが、残念なことにあごにうっすら髭が生えていた。女にだって髭は生えるけれど、すこしだけ違う。
「君、小島往来でしょ」と彼はいった。
「……そうだけど」
「変な人だとか思わないでね」、彼はいった。「一年生の四月に、同学年の全員の名前を調べたんだよ。そしたらひとりだけ変わった名前の人がいたんだ。もちろん最近はやりの当て字で、よくわからないごつごつした名前もいくつかあったけど、まあそれは面白くないよ」
変な人、とわたしはいう。
「どうして俺が顔を知ってると思う」
「さあ」
「朝、げた箱の近くで待ってたんだよ。小島往来って名前の人が、どんな人なのか。興味しかなかった」
わたしは、わたしを一目見たときの感想をききたいと思った。どうして彼はわたしのことを覚えていたのか。
「ねえ、帰らないの?」と彼はいった。
首を振った。「そんな気分じゃないから」
「どうして?」
「さあね」
「もっと感傷に浸りたいとか?」
「そんなところ」とわたしはいった。そして、この男に名前をきいたのだ。
「名前? 名前なんて知らなくたっていいだろ。適当に呼べばいいし呼ばなくたっていいよ。どうせ明日以降二度と会わないわけだし」
冷めてるんだね、とわたしはいった。すこしだけだけれどもわたしの機嫌はよくなりはじめていた。気障な人間には気が障るものなのだがそれ以上に見ず知らずの人との会話を楽しんでいたのだ。
お腹はすいているか、と彼は訊いてきた。午後は二時を回っていた。
「おいしいカレーを食べられる場所を知ってるんだけど。パラパラの黄色い米にビーンズカレーがかかってレーズンが添えてある。そこそこ安くて、なかなか食べられない。」
「二人で食べに行くってこと?」
「ちがう。誘ってなんかないよ。君が行きたいと思うかどうか。僕はべつにそこで食べないといけないわけじゃない。きみがどうしてもビーンズカレーにレーズンを添えたのが食べたい、連れていってっていうなら、案内するけど」
「……それって近くにあるの?」
「まあ大分」
わたしはしばらく考えたあとで、「じゃあそれが食べたいわ」
そういうと、彼はテクテク歩きだした。さっさとついて来いという態度だった。一瞬置いて行かれるのかもしれないと焦った。それがひどく懐かしい感覚だった。たぶん高校三年間で後ろについて来られ過ぎたのだった。慣れ過ぎたあまり前がおろそかになっていたのだ。前のひとの足跡をなぞってすすむということが蟻んこのように小さく思えていたのだった。
引き離していく彼をうしろから呼び止めた。
「自転車、忘れてる」
自転車置き場はたった一つの自転車のために存在しているみたいだった。
「もういらないから、寄贈するんだよ」と彼はいった。
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