湯呑み茶碗の印象

小原光将=mitsumasa obara

第一章

1

 雪は天からの手紙である。

 この生ぐさいセリフを知ったのがつい先日のことである。新潟にやってきてちょうど一年がたっていた。この土地に住む人たちはこのセリフにどう反応するのか、おおよその想像はつく。わたしと同じだと思う。

 初見の雪はすごい。その落ちてくるのは、重力によって叩き落されるのでない。それは無重力のなかに意志をもって降りてくるような、思わず生命を与えてしまうほどの錯覚を起こさせる。ふりきったあともすこしの厚さ残った雪が地面に普段ありえない色をまく。それに囲まれていると今日という日が昨日のつづきでないように思えてくるのだった。雪は貴重なのだった。少なくとも東側では。

 相模原では雪は一年に一回降るか降らないかだった。たとえ降ってもあまり積もらない。一日たてばすっかりとけてしまう。そうなると大人は喜んで仕事に向かうのだけれど、子どもであるわたしとしては、積もらなければ始まらないのだった。

 毎年新潟の豪雪がテレビでニュースになる。わたしはこたつに肩まで入ってそれをみていた。画面の中では、ひとの背丈の何倍もの積雪が道路の両脇にきれいな壁をつくっている。家の一階が埋もれてしまって二階の出入り口から出入りしなければならない。雪のせいでインフラが止まり保存食で急をしのぐ。――はっきりいって、あこがれた。新潟のひとはものすごく幸せに違いない。相模原には渇いた風が吹いていて、空には雲一つない。最悪。そう思っていた。

 一年前に新潟に越してきたときもまだ幻想はつづいていた。あと八か月もすればいくらでも雪が降ってくるだとか、雪でどう遊ぼうかだとかを真剣に考えた。そのためだけに新潟にやってきたといっても間違いでなかった。しかし、九か月がたったときにはどうしようもなく新潟を離れたくなっていた。

 センター試験前は必ず雪が降るから遅延に気をつけるべしと関東ではよくいわれた。新潟にきて1年目の冬、センター1日目の新潟市の積雪量はわたしの身長の半分だった。その日の外出はあらゆる方面から禁止に近い表現をされ、受験生たちは試験を落とすか命を落とすかという二者択一の回答を迫られた。その結果、大半が前者を選んだのだ。すくわれないなと、無関係なわたしは思った。

 センター2日目、受験生たちが起き出すころ、わたしといえば友人の家で布団にくるまっていた。友人の名前は四穂といった。彼女も布団に入っていて、二人で横になるにはすこし小さすぎるベッドの上でわたしたちは一人分の大きさになっていた。お互いがお互いを抱き枕にする感じだった。

 わたしは目覚めてはいたけれど肌寒さのせいで動き出せないでいた。どうせ大雪の日曜日なのだから、昼すぎまでぐったりしていても悪くないだろうと思われた。四穂のからだがすこしずつわたしから剥がれていくのがわかった。

 ベッドを出ていこうとする四穂に、どこに行くの、ときいた。

「朝ごはんを作りに。お父さんも起きてるだろうし。あんたも食べるでしょ。」

「食べるけど、まだいらない」わたしは布団に頭を半分隠している。「早起き。雪は?」

「昨日の倍はある」、窓をのぞきながら四穂はいった。クローゼットを開けて、下着を着はじめる。服を着ていなかった。わたしもそうだった。

「今日はバイトだから。もうすぐしたら出るけど、どうする。帰る?」

 彼女に朝から仕事があることをわたしはそのとき知らされた。

 彼女はセンター試験の試験官補佐をしに行くのだという。丸一日拘束されるが、なにも考えずに試験中立っているだけでいい。そのわりに時給は高い。大学から求人が出ていたのだった。

 しかしこの雪である。昨日の試験をおこなえたのだから大学構内には入れるだろうがセンター試験が終わったあとに雪がどうなっているか分からない。ただでさえ新潟の天気は分からない。

「むしろ受験生のほうがかわいそうじゃない?」

 四穂は白い清潔な靴下をとりだして右足から履いた。

「わたしの服はどこに?」とわたしはきいた。

「洗濯しちゃった」四穂は背中を向けて、「夕方には帰ってくるから、そのころにはあんたの服も渇いてるわよ」

 四穂はワイシャツとスラックスに着替え、すこし長い髪を後ろで束ねた。するとすこしガーリッシュな男の子に見える。「きょうはそこでおとなしくしていなさい」とかいって、布団をずり上げ、わたしの頭をおおいかくした。

「ねえ」布団の中でわたしはいう。「新潟って毎年こんなに雪が降るものなの。今年だけ? わたし雪ってもっと平和なものかと思ってたわよ」

「写真でみるのが一番なのよ。たまに雪山に出かけて雪遊びするのがちょうどいいの。たくさんありすぎても邪魔。かんたんにどかせないし」

 四穂は父親の分の朝食を作りに一階に下りて行こうとしていた。わたしにはもうすこしだけ四穂にここにいてもらいたかった。「朝ごはんくらい、自分でどうにかできるでしょ、あなたのおとうさん」とわたしはいった。

「食パンがどこにあるかもわからないのよ。あの人。」

 たしかにその通りだ。

そういえば、と彼女はつなげた。「お父さんが昔いってたけど、雪は燃えないごみなんだってね」

 四穂の顔が近づいてきてわたしに額を合わせた。それで掛布団越しに、わたしの唇にキスした。

 四穂がいなくなると、わたしはついさっきまで何かを考えようとしていたような気がしてきた。しかし何のことやらさっぱり忘れていた。雪が燃えるか燃えないかなんてものはその程度の議論でしかなかった。わたしは昼すぎまで寝なおそうと思って目を閉じた。すぐに眠りの中に落ちて行った。

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