五.決着
日暮れ時の《月見が丘》を見るのは、初めてだった。
西に傾いた陽を浴びる草原は、行く筋もの影を東に伸び縮みさせている。丘自体が、巨大な生き物のように蠢いている。異様な……そして忌まわしい風景だった。
黄昏――
このような時刻ならば、化け物の類も出ようか。
化け物――野鎌。
(ならば、この手で斬る)
小弓は荷物を草の陰に置くと、丘に向かって声を上げた。
「鈴原小弓、文のとおりに参ったぞ!」
がさりと音がして、丘の中腹辺りに人影が立ち現れた。
(む……?)
小弓は刹那、戸惑った。
そこに立っていたのは、町外れにある居酒屋の親仁だったのだ。夜歩きの際、店の外からちらと見留めた覚えがあった。まだ還暦にもなっていないだろうが、背も曲がり、老けた印象を与える男だ。
親仁はゆるやかな足取りで、丘を下ってきた。
「使いの者か?」
小弓は訊ねた。
すると、どこからか、くつくつという音が聞こえてきた。
それが親仁の喉から漏れ聞こえる音で、恐らくは笑い声だと気づいたとき、小弓は全身の血が凍った。
「違えよ。呼び出したのは、おれさ」
小弓は愕然となった。
親仁の口から発せられたのは、芯のある壮年の男の声だった。そしてそれは忘れもしない、十年前の、あの《闇》のものだったのである。
「野鎌の文蔵!?」
「ふふ、懐かしい名だな」
「その姿は……?」
「ひでえもんだろう? こうでもしなきゃ、足は洗えねえのよ」
「なに……?」
「おれはな、人殺しに飽きたのよ」
「飽きた?」
「そうよ。やることは簡単だがな、頭は要らねえ。腕がありゃ、阿呆でも馬鹿でも出来る。それが厭になったのさ。おれは足洗うのに、この身体を代償にしたんだ。南蛮商人から手に入れた薬で肌を焼き髪を抜いて……こう見えてまだ四十前なんだぜ」文蔵は己の頬をぺたぺたと叩いた。
「野鎌の文蔵は行く方知れず……そういうことになってるんだ。だからおれの周りを嗅ぎまわる奴は、生かしちゃおけねえ」
「ほざけ! 父と母の
小弓は抜刀した。正眼に構え、切っ先を文蔵に突き付ける。
文蔵は屈み込むと、草むらの中から一振りの刀を掴み、鞘を抜いた。無骨な刀身が茜に染まる。だらりと刃を提げたまま、すっと背筋を伸ばした。
「来い」
小弓は思わず息を呑んだ。
文蔵の立ち姿は無防備に見える。しかし、脚が動かなかった。不用意に飛び込めば、跳ね上がる刃に身体を裂かれる――直感が教えていた。
「なんだ、威勢がいいのは口だけか」文蔵はにやりと口元を歪めた。
「腰抜けめ。十年前と一緒じゃねえか」
その言葉に、小弓は逆上した。
「やあっ!」
一足で間合いを詰めると、右袈裟に斬り下ろした。文蔵は一歩退いて刃を躱すと、前方に倒れ込むような動きを見せた。同時に、下から跳ね上がった刃が小弓の顔面を翔び抜け、前髪を散らせた。
小弓は後方に飛び
文蔵は緩慢な動作で身を起こす。
小弓の額を脂汗が覆っていた。たった一度の仕掛け合い――それだけで、彼女の心は掻き乱れていた。
先の文蔵の一撃。避けたのではない。激情に任せ体を深く入れてしまった小弓の首は、あの一撃で落ちていたはずなのだ。
(わざと外した!)
小弓はぎりりと歯を噛み締めた。
「どうした、来ねえならこちらから行くぞ」
文蔵の身体が矢のように
「あっ!」
小弓は草むらの中に押し倒された。文蔵は振りかぶった刃を叩きつけた。受け止めた小弓に圧しかかり、刀ごと真っ二つにしようと体重を掛けてくる。
「死ねえ!」
「ううっ……」
押し負ける――小弓は死を悟った。十年の悲願は果たされることなく終わる。憎き敵を目の前にして――。
「小弓さま!」
聞き慣れた声が、《月見が丘》に響いた。
小弓は思わず、声のした方に顔を向けた。
そこには、杖にすがり、よろめきながら丘を駆け登ってくる、きらの姿があった。
虚を突かれた文蔵の身体を蹴り飛ばし、小弓はきらに駆け寄った。
きらは草むらにつんのめって倒れた。
「きらどの!」
身体を抱き起した。擦り剥いた膝頭に血が滲んでいる。
「どうしてここへ!?」
きらは呼吸を荒くしながら、
「着物の繕いをしようと思って宿に行ったら、急に出立なされたって聞いて……それで、女将さんが部屋でこれを見つけたって」
懐から取り出したのは、文蔵からの呼び出し状だった。
(置き忘れていた……)
それすらも記憶になかった小弓だった。心は何ら平らになっていなかったのだ。
「それで大急ぎで駕籠を拾って……」
「そうか……」
「ばか!」
きらは大喝した。
「う……」
「何で黙って行っちまうんだよ! あんまりじゃないか! そりゃあ小弓さまは強いけど、でも、もしかしたら……死ぬかもしれないだろ! そしたら、もう会えなくなっちゃうだろ!」ついに、きらは大声を上げて泣き出した。
「覚悟くらい、させてくれよ……急にいなくなるなんて、耐えられないよ……」
小弓は己を恥じた。薄情者から逃れようとして、薄情者になり下がった己を強く恥じた。
「……すまぬ。許してくれ、きらどの」
「ああ……もう。杖、どっかに行っちゃったよ」
きらは洟を啜りながら辺りを探る。小弓は草の陰にそれを見つけ、ついでに巾着袋も拾い上げた。
ふと、小弓の目が細められた。
「きらどの、頼みがある」
「えっ……?」
「……お別れは済んだか?」
文蔵は刀の峰で肩を叩きながら訊ねた。
小弓は立ち上がり、文蔵を振り返った。
その双眸は暮れゆく陽の中に、赤々と燃えていた。
刀を鞘に納め、姿勢を低くとる。
「ほう」
文蔵はそこで、初めて構えらしい構えを見せた。切っ先を地に向け、下段にとった。
そして、双方は動きを停めた。
きらは身を固くして、対峙を見守る。
風が幾度か抜け、山間に落ちていく陽が周囲から色を奪う刹那、小弓の足が地を蹴った。
抜き放たれた一閃――『
「あっ!」
きらが叫んだ。
『早颪』は――弾かれた。
文蔵は太刀筋を見切ったのだ。
体幹を崩された小弓は、胴ががら空きになる。
文蔵は凄絶な笑みを口元に浮かべた。
そのときだった。
「ふっ!」
小弓の口から銀色の光が
「ぎゃあッ!」
文蔵は悲鳴を上げて目を押さえた。
小弓は地面を踏み締めると、渾身の袈裟懸けを叩き込んだ。文蔵はおびただしい血を吐き、草の中に倒れ、即死した。
見開かれた左目には、小さな縫い針が突き立っていた。
それはきらの裁縫道具だった。小弓は縫い針を口内に含んでおき、接近した一瞬に吹きかけたのだ。
汚い手だった。しかし、正攻法では文蔵の腕に敵わぬ。ここで、いま、勝たねばならない――その一念が、小弓を踏み切らせたのだった。
(終わった……)
小弓の手から刀が落ちた。全身の力が抜け、その場に膝をつく。
「小弓さま!」
きらが駆け寄り、小弓の身体に抱きついた。
「怪我はないか!?」
「ああ、大丈夫だ」小弓はきらの肩に手を置く。
「わたしは、やったぞ」
きらは無言で何度も頷いた。そして声を上げて泣いた。
小弓も、大きな声を上げて泣いた。
(父上、母上、小弓はやり遂げましたぞ……)
「ああ、今夜は満月だなあ」
袂で涙を拭いながら、きらが言った。
小弓が顔を上げると、東に連なる稜線の上に月が浮かんでいた。満月にはいま一歩届かぬが、まろやかな陰はどこか、ほほえましかった。
小弓は刀を拾い、鞘に納めた。
鍔鳴りは、耳にこころよく響いた。
敵討ち ざき @zaki_yama_sun
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