四.すれ違い
「わあっ!」
力の限りに叫んで、小弓は布団から飛び起きた。文机に置いていた湯呑が、ごとりと倒れた。
五つ(朝七時)を少し回った頃合いで、障子から透かし入る朝日の中、脂汗に濡れた小弓の蒼白な顔が浮かんでいる。
胸を押さえる。心臓が狂ったように跳ね回っていた。
(恐ろしい、夢だった……)
しかし、その内容を小弓は忘れている。忘れているが、恐ろしかったという記憶だけは身体にこびり付いている。その残滓を捉えようと頭の中を探るが、手に触れるものはない。突き出した腕すら見えず、まるで、
(闇が満ちているような……)
厭な予感がした。
小弓は布団から出ると、倒れた湯呑を起こし、身支度を整えた。
(散歩でもして、気分を改めよう)
そう思って宿を出ると、往来が何やら慌ただしい。好奇の表情を浮かべた人々が、右から左へと次々に駆けていく。
小弓は通りかかった町女房を呼び止め、
「もし、何かあったのか?」
「えっ? ああ、辻斬りが出たんだってさ。何でも、ごろつきが殺されたとか」
頭の芯が、すっと冷えた。
「どこで?」
「この道をまっすぐ行ったところの――」
最後まで聴かず、小弓は走り出していた。
目抜き通りが東西に交差し、大口の問屋が軒を連ねる一角だった。米、炭、油、木綿……上質な品を求める人々で、陽が昇ってから沈むまで賑わいの絶えることがない。
それも小路を一本入ってしまえば、別世界のように静まり返る。折り重なった庇が陰を作り、昼なお暗い。多少の悶着があっても、人々は目もくれない死角だった。
その入り口に黒山の人だかりができ、六尺棒を抱えた役人が声を上げながら整理を行っている。小弓は人の群れをすり抜けて、先頭へと飛び出した。
「う……」
思わず、息を呑んだ。
積み上げられた材木の足元に、大きな男が仰向けに倒れていた。
間違いない……数日前の夜に、きらを襲った無頼漢だった。
喉笛を真一文字に掻き切られ、おびただしい血が辺りを染めている。その傷跡はおそらく匕首によるものだろうが、無駄の全くない、鮮やかなものだ。青ざめ歪んだ死相は、命の灯が消える瞬間、底知れぬ恐怖に震えていたことを如実に示していた。
「下がれ、下がれ!」
役人に押し返されて、小弓は人の群れを抜けた。
思ったことは、
(偶然とは思えぬ)
それだった。
自らに関わった人間が、何者かの手によって殺された――十年に及ぶ旅で、その事実が持つ意味を小弓は理解していた。
(私の命を狙う者が、近くにいる)
剣を取る者の持つ鋭い勘は、本人の知らぬところで警告を発するのだ。そしてその確信は、昨夜見た、闇のような悪夢と混ざり合う。
(まさか、奴が……?)
《闇》――憎き敵が、己の傍に……。
冷や汗が滲んだ。拭おうと懐紙を取り出そうとして、
(や……?)
襟元に差し込まれた文に気づいた。いつの間に……小弓ほどの手練れが、気配すら感じ取れなかったのだ。
慌てて文を開く。そこには乱雑な仮名文字で、こう記されていた。
かたきを うちたくば こよい くれむつ つきみがおかまで こい
(これは!)
間違いない、奴だ――そして向こうは、小弓が狙っていることを知っている。文が震えた。血の気の引いた指先が、逃げ出そうとでもするかのように、わなないている。
小弓は握り潰していた文を胸元に突っ込み、宿への道を引き返した。
今宵、暮六つ(夜六時)。
そこで、この長い旅に決着がつく……。
(まずは心身ともに、落ち着かねば)
小弓は湯殿に向かい、熱い湯を浴びた。腕や脚を揉み込み、感覚を確かめた。
部屋に戻り、ぬくもった身体が落ち着くと、刀の手入れを始めた。目釘を抜いて柄を外し、刃を拭い、打粉をかける。再び拭い、油を塗る。身に沁みついた作業を、倍の時間をかけておこなった。
それから食事を摂った。飯に湯をかけたものを、大根の漬物でゆっくりと食べた。柔くなった米を口に含み、漬物を齧って、噛み締めた。
食べ終えると、横になり目を閉じた。心を平らにするように努める。何も考えず、これから直面する死にも思いよらず、瞼の裏の闇と向き合う。やがて訪れた眠りに身をゆだねた。
目を覚ましたのは、八つ(昼三時)頃であった。
小弓は着替えを済ませ、荷物をまとめると、宿を引き払った。長い逗留で懇意になった女将は突然の出立に驚き、
「これはまた急なお発ちで……」
「よんどころ無い用事ができてな。次第によっては戻れぬやもしれぬので」
「そうですか。長いことご贔屓にしていただき、ありがとうございました」
「こちらこそ世話になった。では……」
「あの……」
女将の声が引き止めた。
「む?」
「知っているのですか?」
「何がだ?」
「何って、きらちゃんですよう」
「あ……!」
小弓は愕然とした。
きら!
(どうして忘れていた!)
動転していた、などとは言い訳だ。目の前に現れた敵にのぼせ上がり、かけがえのない人――そう思っていた人――すら見えなくなっている。小弓は唇を噛んだ。ひと言、声をかけてから行くか……いや、
(出来ぬ)
こんな薄情者が、どんな言葉をかければいいというのか。恥ずかしい……その一念で圧し潰されそうだ。
きら。
職人の手のひら。
屈託のない笑顔。
(いま、わたしに出来ることは……)
「鈴原さま、お顔の色が……」
心配そうに覗き込んでくる女将に、小弓は巾着から切餅を出して握らせた。中には二十五両入っている。
「わたしが戻らなかったら、これをきらどのに渡してくれ。頼んだぞ」
「えっ、これは――」
すでに小弓は暖簾を潜っていた。
脇目も振らず、雑踏を抜けていく小弓。再び平らに戻った心には、何者の姿も映っていない。
ちょうどその頃。
「あ……」
縫い物をしていたきらは、ふと針を動かす手を停めた。そして、
(小弓さまの着物、繕わなくっちゃ)
二日前、小弓と会ったときである。袖口を枝に引っかけたとかで、きらはそれを修繕する約束をしたのだ。しかしその日は二人で町をぶらつき、甘酒などを飲んで過ごしてしまったから、頭からすっぽりと抜け落ちてしまっていたのだ。
(忘れねえうちに……)
きらは母に断ると、裁縫道具の入った袋を持ち、家を出た。きらの家から小弓の宿まで、およそ五町。きらの足だと四半時(約三十分)かかる。
杖を巧みに繰りながら、きらは歩を進める。
以前よりも、ずいぶんと歩きやすくなった。小弓が重心の移し方を教えてくれたおかげだ。左足にかかる負担も減ったし、身体の凝りも和らいでいる。
(小弓さまに出会えて、本当に良かった……)
きらは心からそう思っている。その気持ちは、窮地を救ってくれたからだけではない。
小弓は、一念に生きる女のあり方を見せてくれたのだ。
指物師の道に踏み入ってから、きらの周りには常に、
(女のくせに……)
男たちの声にせぬ声が付きまとう。腕が定まらぬうちは酷かった。今ではその声も小さく、聴こえたとしても無視できるようにはなった。だが気分のいいものではない。
(嫉妬だ。醜い妬み心だ)
そう思いながらも、とまどい揺れる自分がいた。
それに比べて小弓は、
(何と強く、まっすぐなのだろう)
揺れても迷っても、なお自らの道を進み続ける。たとえそれが、血に濡れた道であっても。
あの夜、目の前にかざされた手のひらを思い出す。
――わたしが怖いか?
あのとき、きらは首を振ったが、本当は怖かった。それでも首を振ったのは、信じたかったからだ。自分を救ってくれた恩人には、あたたかな心があることを。手のひらを重ねたとき、それは間違っていなかったと分かった。
小弓を思えば強く在れる。進もうと思えるのだ。
目抜き通りは日暮れが近くもあって、行き交う人も忙しない。きらは努めて隅を歩くが、杖が他人の足に絡まないように進むのは難儀だ。
「こっちから回ろう」
きらは、路地を一本入った。
もしこのとき、きらがいつもの道を通っていれば、《月見が丘》に向かう小弓に出会ったであろう。
二人は気づかずにすれ違い、互いの目指す場所へと、遠ざかっていった。
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