三.迫る闇

 こうして、小弓ときらとの交流は始まったのだった。

 二人は三日と置かずに会い、町をぶらついたり、他愛無いことを語り合ったりした。

 手先の器用なきらは裁縫も得意で、小弓の着物をつくろってくれた。こういったことは、からきしな小弓であるから、痛んでも下手な継ぎ当てしかできない。若き女職人の手によって、ほつれは元が分からないくらいに修繕された。

「さすがだなあ、わたしもこれくらいの腕があればいいのだが」

「なに言ってんだい、刀振るのに比べたら、お遊びみたいなもんだよ」

 きらはころころと笑う。つられて小弓も笑った。

 代わりに小弓は、力仕事を請け負った。鍛えた肉体は汗ひとつかかず、薪割りや水汲みなどをてきぱきとこなした。これには、老母のみちも喜んだ。

 さらに小弓は、きらに護身のための柔術を教えた。杖を使って相手の腕をからめたり、急所を突いたりするのだ。女の力でも、大の男を怯ませることができる。

 きらは物覚えが良く、二、三度繰り返しただけで習得した。

「すげえなあ、なんだか強くなった気分だよ!」

 鼻息を荒くするきらに、小弓は釘を刺す。

「あくまで身を守る技だ、自分から仕掛けようなどと思うてはならんぞ。怯ませたら逃げるなり大声で助けを呼ぶこと。よいな?」

「はあい」

 そうした日々を過ごすうち、小弓の心境に微妙な変化が生じていた。

 鍔鳴りが、耳に痛いのである。

 刃を鞘に収める。そのとき、きんと響く高音に、眉をしかめるのだ。

 そして思う。

 きらと過ごしている時間に、こんな音はない。そして、息が詰まるような瞬間も、これまた刹那たりともない。

 小弓は、復讐などとは無縁の日常に触れてしまったのだ。それはまるで、

(夢のような……)

 地に足がつかぬ感覚。しかし、夢はいずれ覚める。だから楽しいのか。ならば……。

(今だけは。今だけでも)

 小弓は、このつかの間の夢に甘んじることに決めたのだった。


 数日経った、ある夜。

 町外れの煮売屋『○まるいち』で、一人の男が荒々しく酒をあおっていた。

 小弓に軽々とあしらわれた、あの無頼漢だ。

 名を陣伍じんごという。

 刀を飛ばされた夜以来、陣伍は町に近づかぬようにしていた。報復を恐れていたのは、この男のほうだったのである。図体と腕力に物を言わせ横暴を働いているが、根は小心者なのだ。

 しかし断酒も限界だった。住処とする隣村には酒を出す店がない。様子をうかがいうかがい、馴染みの店まで辿り着いたのであった。

 すでに五本の銚子が空になっている。

 ただただ酒を飲み干す陣伍に、親仁は手際よく肴を出し、酒を出す。五十の坂は越えていようか。無口な性分で、余計なことはいっさい言わない。それでいて適当に話にも付き合ってくれるところが、陣伍の気に入っていた。世間の鼻つまみ者であるから、商売人なら当たり前の気づかいにも人いち倍感じ入るのだ。

 酔いが回り、盛大におくびを吐いた陣伍の口から飛び出したのは、

「畜生、あの野郎!」

 小弓への罵声だった。

 赤子のようにあしらわれた屈辱を思い出したのである。自業自得とはいえ、一度煮えた腹は治まらない。

(何とか仕返しをしてやる……)

 それにはまず、相手を見つけなければ。

(そうだ、親仁なら何か知っているかもしれねえ。訊いてみよう)

「なあ親仁よ、最近、見慣れねえ浪人を見てねえか?」

 親仁はあたりめを炙る炭火から目を上げて、

「浪人でございますか。さあ、見たことないですねえ」

「どこでもいいんだ。町中でも、この店でも」

「そんなに出歩きませんからねえ。店に来るのも常連ばかりですから」

 そう言って、焼き上がったあたりめを陣伍の前に置く。

(ちっ、役立たずが)

 陣伍は盛大に酒をこぼしながら猪口に注ぐと、乱暴に乾す。

「ああ、畜生! どこにいやがる! 素面ならあんな野郎、ぐしゃぐしゃにしてやるのによ」

「その浪人ってえのは、どんな人だったんです?」

「あ?」

「見かけたら、お報せしますよ」

「おう、気が利くじゃねえか。なに、すぐ分かるよ。ありゃあ、女だからな」

「女……ですか?」

「おう、成りは男だがな、俺は鼻が効くんだ。間違いねえ。男女おとこおんなだ」

「そうですか。覚えておきますよ」

 そのとき、千鳥足の町人がのれんを潜ってきた。しかし陣伍の顔を見るなり、慌てて回れ右をして逃げていった。

 気をよくした陣伍は、ぐいと杯を乾して叫んだ。

「親仁、もう一杯だ!」


 陣伍が店を出たのは、それから一時(約二時間)後のことだった。

 しこたま酒を食らった足取りは危うく、土塀に打ち当たったり、どぶ板を踏み外しそうになったりする。そのたびに大きな音が鳴り、人々の眠りを妨げた。

 醤油問屋の脇を通り過ぎようとしたときだった。

 路地から伸びてきた腕が、陣伍の身体を暗がりに引きずり込んだ。

「ひっ……」

 固く、ひやりとしたものが首筋に押し当てられた。匕首あいくちだった。

 陣伍はとっさに、相手の顔を見ようとした。

 月は煌々と照っていた。

 しかし相手の顔は《闇》だった。

 穴が開いたかのように、何もなかった。

 陣伍の股ぐらから、腹に溜まった酒が流れ出していった。

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