二.手のひら
きらの家まで四半時(約三十分)ほどのあいだ、小弓は彼女の生い立ちを知った。
父の
子はなかなかできず、みちの腹が膨れたのは夫婦になって五年も過ぎた頃だった。初めは大した反応を見せなかった善助も、出産が近づくにつれて落ちつかなくなってきた。
(この手で高めた指物の技は、おれだけのものだと思っていた。だが一代で潰えさせるにはあまりに惜しい。どうせなら赤の他人なんかじゃなく、このおれの血を引く我が子に継がせたい。どうか、健康な男の子でありますように……)
そう思っていたのである。
しかし生まれた子は女だった。そのうえ右足が捻じれ、まともに歩くことができなかった。
善助の落胆ぶりといったらなかった。母子を捨てなかっただけましだったが、もう己の技を伝えることも、これ以上子を作ることもあきらめてしまった。もともと少なかった口数がめっぽう減り、今までにも増して仕事に没頭するようになった。
善助はきらを無視した。幼心に残る父の記憶は、ほとんどが背中ばかりである。きらは、初めのうちはそれが父親というものだと思っていた。しかし知恵がつくようになり、その原因が自分の存在にあることを知ってしまった。
畳の上でふっと涙がこぼれたとき、抱きしめてくれたのは、母だった。
「大丈夫だよ、あたしがいるから」
その言葉とあたたかさが、きらを迷いから救った。
みちは善助のぶんまできらに愛情を注ぎ、褒め、また叱った。炊事、洗濯、裁縫……人並みのことはこなせるように
きらが六つになった年、善助は流行り病で死んだ。
残された蓄えと、善助の知人が何かにつけて面倒を見てくれたが、いつまでも頼ってはいられないと、みちは内職をして家計を支えた。きらも手伝った。
ひと月が経ったある日、久しくそのままにされていた父の仕事場を掃除していたきらは、
目の前に父の背中がよみがえった。愉快な思い出など何ひとつないが、それでもきらにとってはたった一人の父だった。
傍には、木っ端があった。
ふと、頭の中に小さな犬の姿が浮かんだ。
気づくと手は木っ端を掴み、一心不乱に鑿を滑らせていた。
そして――木っ端は、犬のかたちになった。
ひどく歪ではあった。しかし、初めて鑿を握った人間の業とは思えなかった。
皮肉にも善助の悲願は、彼の知らぬところで果たされていたのである。
それからきらは父の知人を頼り、指物の腕を磨いた。八年が経ち、いまだ道半ばではあるが、それでも座卓や
「なんと……」
小弓は、この一見か弱げな少女に秘められた力に感嘆した。女一つ身で生きていくための並々ならぬ苦労を思った。背にかかる体重が、ずしりと響いた。
「あっ、ここです」
きらは言って、小弓の背から降りた。古びた長屋が並ぶ職人たちの住処だ。あちこちの家の隙間から、太い
きらが戸を静かに引き空けると、人の動く気配があった。障子が空き、みちが半身を覗かせた。髪には白いものが多いが、まだまだ肌の色は明るい。
「ただいま」
「あれ、早かったねえ。ん、誰かいるのかい?」
「お客さんだよ。小弓さまとおっしゃるんだ」
きらはみちに事の次第を説明した。みちは目を丸くし、畳に手を突いた。
「娘の危難を救っていただき、何とお礼を言っていいやら……」
「いや、こちらこそ夜分に押しかけて申し訳ない。どうぞ、お休みになっていてください」
道は何度も頭を下げながら、寝所へと戻っていった。
きらは行燈に火を入れると、小弓に座布団を勧め、台所へ消えた。
家の様子を窺う。贅沢さとは縁遠い暮らしぶりだが、畳に塵芥はなく、きちんと片づけられている。家具はきらが作ったものだろうか。おぼろに照らし出された表面には、木目が描く艶やかな文様が浮かんでいる。座卓に触れてみると、しとりとしたぬくもりがあった。
「こんなものしかないですが」
きらが小鉢を持って戻ってきた。大根と茄子の糠漬けが載っている。
「かたじけない。そうだ、これを飲もう」
小弓は竹筒を取り出した。中身は酒である。月見のあてに持参していたものだ。
「あたし、酒なんて飲んだことないです」
きらは恐縮して首を振る。
「そうか。ま、何ごとにも始めてはある。試してごらんなさい。茶碗はあるかな?」
小弓は受け取った茶碗に酒を注ぎ分ける。
「ど、どうやって飲んだら……?」
「少しずつだ、一気に飲むと
きらは恐る恐る酒を口に含んだ。一口飲んで、ほうと溜め息を吐く。
「うめえなあ」
「よかった。この味が分かれば、世の中がもっと広くなる」
二人は漬物を齧りながら、杯を重ねた。きらはいける口だったようで、すぐに竹筒は空になった。
「あたし、小弓さまの話も聞きたい」酔いが回り、いくぶん打ち解けた口調で、きらは訊ねた。
「この近くのお人じゃないよね。旅をしてるの? どんなところで生まれたんだ?」
「そうだな……」
小弓は、記憶を手繰る。
彼女の生家は奥州の城下町にある、多くの門人を抱える剣術道場だった。主である父の
小弓は柳斎と、妻ふくの長女として生まれた。物心つく前から竹刀を握り、稽古を受けてきた。女だから剣を使えぬという考えは柳斎になかった。素質があれば研き鍛える。門人には武家の娘も少なくなかった。
小弓は無心に稽古に励んだ。道場主の娘だからという思いもあったが、それ以上に、
「好きだったからだ。剣を握っているひと時は、わたしの気持ちをたまらなく
そして小弓は強くなった。十三になる頃には彼女に勝てる門人はいなくなり、父はその強さを認め、免許皆伝を許したのである。先ほど小弓が使った技は、『
きらとは正反対に、小弓にとって父は偉大な存在だった。厳しく、そして優しい。彼女はいつもその背を追い、剣を振るってきた。
しかし、その時の小弓は知る由もなかったが、父にはもう一つの顔があったのだ。それが悲劇を招いた。
小弓、十四の冬だった。
「いつもどおりの一日が終わり、わたしは眠りに就いた……」
夜更け、小弓ははっと目を
覚醒し切るより先に身体が反応した。手は
ようやく働いてきた頭に、くぐもった悲鳴が響いた。
それが誰のものか、分かってしまった。
(父上、母上……!)
叫び出しそうになった小弓は、右の袖口を強く噛み締めた。
邸内を人が駆ける音が続いた。
ふっと、音が止んだ。
(行った……?)
緊張が緩みかけた小弓の目の前で、押入れが引き開けられた。
小弓は賊の顔を正面から見た――見たはずであった。
しかし、目鼻が付いているはずのそこには真っ黒な《闇》があるばかりだった。
《闇》もまた、小弓を見ていた。
小弓は刀を抜けなかった。利き手の袖口を噛んでいたので当然なのだが、それを振り解く力がなかった。
ただただ、怖かったのだ。
「おい、そっちに誰か残ってるか?」
仲間の賊と思しき声がした。《闇》は少し考えるような素振りを見せ、
「いや、誰もいねえ」
冷たい声で応え、押入れを閉めた。
小弓が押入れを出たのは、一番鶏が鳴いた頃だった。
寝室では血の海の中に、
のちの調べで、両親が寝入り前に飲んだ酒に薬が入っていたことが分かった。それを口にしたため前後不覚になり、賊の襲撃を防ぐことができなかったのだ。
半年ほど、小弓は口が利けなくなった。引き取られた叔父の家で、暗い部屋に一日中籠った。
そして生気を取り戻したとき、小弓の胸には黒々と滾る一念があった。
両親の敵討ちである。
(あの凶賊ども、一人たりとも生かしてはおけぬ!)
叔父の反対を押し切り、小弓は身体一つで旅に出た。父の
そして初めて、あの時押し入った賊の一人を捕らえたとき、その口から信じられない言葉を聞いた。
「お前の親父は、刺客だったのだ!」
つまり、金で殺しを請け負う人斬りだというのだ。あの惨劇も、賊頭の恨みを買ったせいだというのである。
(嘘だ!)
しかしそれは二人めの賊が同じ言葉を吐いたことで、動かしがたい事実となった。
……懊悩の末、小弓は誓った。
たとえ父が何者であろうとも、肉親を殺された恨みを呑んで生きていくことはできない。
(わたしは、敵討ちを果たす!)
そしてついに小弓は、《闇》の名を知った。
野鎌とは、阿波や土佐の国で《かまいたち》を指す言葉である。目には見えず、一陣の風と共に人を殺傷する恐ろしい妖怪だ。
この男はどの盗賊の傘下にも入らず、各地を転々としては依頼に応じて手を貸す、流しの賊だという。さむらい崩れで剣の腕は相当のものだということだ。
そして奇怪なことに、小弓の家に押し入った賊の誰ひとり、その容貌を記憶している者はいなかった。面体を隠しているわけではない。しかし思い出そうとすると、部分は散逸し、全体はあいまいとなってしまう。
その二つ名の通り、妖怪じみた男なのである。
(野鎌の、文蔵……)
小弓はその名を血が出るまでに噛み締めた。
そして十年が経ち、小弓は二十四になった。賊はこの手で討ち果たしてきたが、いまだ旅は終わらない。最後の一人――野鎌の文蔵を討ち果たすまでは……。
話を聴きながら、きらは小さく震えていた。小弓が口を噤むと、放るように茶碗を置き、頭を畳に擦りつけた。
「も、申し訳ねえ! つらいことを思い出させちまって……」
「気にするな。もう何度思い出したかしれぬ。一度や二度増えたところでどうということはない」
「でも……」
沈黙が降りた。
きらの目は、畳の上に置かれた刀を見ている。その刃を濡らした血を思っているのか。
「わたしが怖いか?」
小弓は訊ねた。きらははっと顔を上げた。その前に、小弓は己の手のひらをかざす。節くれ立ち、竹刀
「この手は、人を斬るぞ」
きらはごくりと唾を呑んで―呑んで、
「怖いもんか! 小弓さまは、あたしを助けてくれた、優しい人だ!」
己の手のひらを重ねた。荒れていて、あちこちに
「ほら、こんなにあったけえ。血が
今度は、小弓が唾を呑む番だった。
「……すまぬ」
小弓は詫びた。己の大人げなさを恥じた。
再び、沈黙が降りる。
先に口を開いたのは、きらだった。
「……この町には、まだしばらく居なさるのかい?」
「うむ……もうふた月になるからな。そろそろ発とうと思っている」
「もう少しだけ、延ばすことはできないかい?」
「む?」
「せっかく出会えたんだ、あたし、もっと小弓さまとお話したい」
「……そうだな。私も、きらどのの仕事を見てみたく思う」
それは本心であった。
「ぜひ!」大声を出し、慌てて口元を押さえるきら。
「いけねえ」
その仕草が愛らしくて、小弓はようやく相好を崩した。きらも笑った。そしてふと、真剣な眼差しになり、
「その敵ってやつ、見つかるといいね」
「見つけるさ。必ず」
小弓は頷き、漬物を口に運んだ。仄辛く甘い味が、妙に沁みた。
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