第2話

 智人は梅雨の底冷えのするテントの中で目を覚ました。朝とはいえまだ肌寒い。腕時計を見る。寝袋から這いだしペットボトルに残っていた水を飲み干す。生ぬるい。だが一口飲むごとに胃袋が満たされていく。だるさが取れた。手元のペットボトルをパッケージに意味はない。スーパーのトイレの洗面所の水道。センサーの反応による停止にいらだちながらもなんとか目一杯蓄えた水だ。


「何やってんだろ? 俺」


 Tシャツを着がえると這いずるようにテントから這い出る。舌打ちを一つ。テントをまとめる。荷物をまとめバックパックを担ぐ。ブルーシートや段ボールで二畳から三畳ほどに区切られた迷路のような道を進む。そこは河川敷に自然発生したホームレスたちの住宅街だった。


 決闘に巻き込まれた日の夜。篠塚に車で最寄り駅まで送ってもらうと春休みの特別割引された切符を購入し普通電車を使い、途中駅で降り野宿で夜を明かし、再び自転車に揺られ故郷に帰ってきた。家のドアには鍵がかけらていた。チャイムを鳴らした。インターホン越しに母親が言う。


「誰なの? あなた」


 カメラが付いているインターホン越しに家出を詫びる。取りつく島もなく、玄関前で土下座した。しばらくするとドアが開けられた。許された、そう思って顔を上げるとどことなく自分と似ている気がする同世代の青年が立っていた。青年曰く。


「これ以上、母親につきまとうなら警察呼びますよ。っていうか、警備員はもう呼びましたから。じゃあ」


 そしてドアは閉ざされた。閉められると気付く。改めて思い返すとチェーンロックは外されていなかった。


「え?……」


 返す言葉なく、すごすごとその場を去る。物陰から玄関前の様子を覗き見ていた。しばらくすると警備会社の社名が入った車が玄関前に停められた。玄関先で警備員と話す母と先ほどの少年の姿を見た。間違いなく今まで一緒に暮らした母だ。その母が守るように少年の肩を抱いているのが目に入る。


 気が付いたときにはふらふらと自転車を漕ぎながらその場を立ち去っていた。千尋の家にも行ってみた。だが使用人が出て本人は取りついでもらえなかった。何より、面識のあるはずのそれぞれの使用人たちが智人を

智人と認識してくれなかった。


 寺井と拓也の家にも立ち寄ってみた。千尋の家とは違いまとめて建てられた団地群の一角であった。こんな形で訪問することがあろうかと想いながらドアの前に立つ。新聞受けの入り口を覆うように張られているシールに気がついた。「空き家です、チラシを入れないでください」そう書かれていた。


 スマホはさんざん試したが通信も発信も受信もできなくなっていた。そして、バッテリーが切れた。篠塚の電話番号だけはメモをとったが頼りようにもなにを頼ればいいのか、さすがに借金を申し込む気にはなれず、また、頼めばいくらか融通はしてくれたとしても、それを繰り返すわけにもいかないことはわかっていた。


 そして、作業着の男が渡してくれた現金で地道に食いつなぎながら居場所を求めて数日。彷徨ううちにテントが立ち並ぶ大きな河川敷にたどり着いた。ホームレスたちの住処である。そこの隅にテントを張っていると声をかけてくる者がいた。仕事の斡旋をしているというその男の言われるままに、肉体労働に従事することとなった。


 朝になると駅に向かい、マイクロバスに乗り、働いて、帰ってきてテントを拡げて眠る。そんな暮らしが始まってからさらに一か月ほどが過ぎ四月も半ばとなり世間では月末から始まる大型連休の話題で浮かれているなか、大型商業施設の建設現場で働いていた。朝の六時にマイクロバスに乗り込み一時間ほどかけて到着する。


 昼の十五分を除き夜の九時まで土砂や瓦礫の山を指示された場所に猫車で運び続けていた。山のように土砂が積まれた猫車を押す。罵声におののきながら強引に方向転換をした。腰の筋肉がひきつれたように感じた。思わず手を離す。猫車が倒れた。罵声が飛んで来る。そのようにして一日を過ごす。


 作業現場への送迎バスには男達の汗と皮脂と土の匂いが染み込んでいた。初めて嗅いだ時は吐き気を覚えた。今では違和感すら感じない。仕事が終わりバスに乗り込むときに賃金が各自に渡される。席につき財布にしまうとため息が漏れる。世間の相場よりだいぶ安い賃金でこき使われている。


 自分が何者か証明できないからである。高校を卒業して学生証も捨てた。母親から息子と認めてもらえない。それこそ自分の記憶を疑い、自分が朝田智人であるという妄想の囚人だとも思った。だが、恋い焦がれた寺井への想いと記憶に胸を締め付けられる。それだけが自分が自分であるということの唯一の証明であった。


 正規の仕事に雇われるには住所がいる。働いて金を溜めても部屋を借りるには戸籍がいる。全て失ったものだった。いつものように仕事が終わりバスの中でうたた寝をしていると飛び込んでくる声があった。


「あれやれよ。決闘代理人。金はいいし。法律変わって誰でもできるようになったらしいじゃねえか。外国の傭兵とかもできるようになったんだろ?」


「無茶言うな。すぐにぶっ殺されて終わりだろ? それに俺は戸籍がねえからな。無理なんだよ」


「でも戸籍がもらえるって聞いたぜ? 俺だって売っちまったけどよ。売れるってことは買えるってこった。人手が足りねえとただでもくれるらしいぞ?」


 この言葉に気色ばんだ。耳をそばだてる。犯罪者に身を落とすことと決闘代理人を行うこと。天秤に乗せた。席から立ち上がり男たちの前に立つ。男たちは二人とも白髪も髭も伸ばし放題。その顔は日焼けしてくつものしわが深く刻まれていた。細い手足をシートから投げ出している。率直に尋ねた。


「あの。決闘代理人について聞きたいんですけど」


 男たちは大きく口を開けて笑う。歯がほとんど見当たらなかった。男たちから話を聞いた。決闘には時間切れがあり、時間いっぱい逃げ回り生き残る者もいるとのことだった。智人は決闘代理人をやってみることにした。家がないことには耐えられても歯を失うほどの虫歯に自分が耐えられるとは思えなかった。


 仕事を休んで男たちに教わった通りに朝の早い時間にターミナル駅のロータリーに行ってみた。『急募! 決闘代理人』 そう書かれたプラカードを持つ男がいる。恰幅のいい禿頭の口髭を蓄えた中年だった。声をかけると身分証を提示するように言われた。


 戸惑っていると野良犬でも追い払うかのように手を振られた。止むを得ず引き下がる。戸籍と大金が手に入るかもしれないという淡い期待が壊された。うなだれて引き返し始めると後ろから声をかけられた。先ほどの男が事務用の封筒を振っている。身に覚えがないこと伝えるために首を横に振る。気づかないのか男は封筒の中身を取り出した。


「おい、青年。住民票と保険証が入ってるぞ。駄目だよ。こんな大事なもの落としちゃ。これがあればできるよ。もう出発するから車に乗っちゃって」


 男に言われるままにマイクロバスに乗り込む。智人と男の他には誰もいない。しばらくすると何の報せもなく発車した。数十分もすると車は都心の清潔な高層ビルの前に止まる。車を降りると男に紙袋を渡された。男はロビーにある受付カウンターに紙袋をもっていけばいい、と言うとあっさりと車に乗り込みどこかへ行ってしまった。


 ロビーでは数多くのスーツ姿の男女が鞄やスマートホンを手に歩き回っていた。その中の一角、案内カウンターの中で椅子に座っている女に声をかける。薄い桃色の制服の茶色く髪を染めた厚化粧の若い女だった。不自然に長いまつ毛と違和感を覚える二重、自棄に朱が映える唇、眉毛の辺りで妙に行儀よくカーブを描く前髪が目を引いた。逆に言うとそれしか印象に残らない。


「くっさ!」


 女の第一声。鼻と口元を手で隠しながらそう言った。眉間には皺が寄っている。移動中に車内の窓が全て開け放たれたことを思い出す。どうしていいかわからずカウンターの上に紙袋を置いた。女は智人を見ることもなく紙袋から封筒を取り出し住民票と保険証を取り出した。タブレット型の通信端末で取り出したものを撮影すると住民票の名前を読み上げる。返事をすると女はカウンターの中からクリアファイルを取り出して説明を始める。


「バスがあるからそれに乗って。地図もここにあるから。あと持ってきた紙袋に入っている服に着替えて。そこにトイレあるから」


 紙袋の中にはタオルと小袋に入ったシャンプーと黒いジャージが入っていた。説明を続けている間女は鼻をつまんでいたことを思い出す。



 着替えてみるとジャージは大きすぎた。サイズのあわないだらしない黒色のジャージ姿。タオルを巻いた頭。すれ違うものがみな振り替える。顔には半笑いを浮かべていた。



 逃げるようにロビーを横切り外に出てバスを見つけて乗り込んだ。茶封筒から資料を取り出し確認する。


 決闘代理人になるにあたってのスケジュールが書かれていた。一通り資料に目を通すと窓の外に目を移す。梅雨のしとしとと降り続ける雨滴を見ている内に眠気に襲われ寝てしまった。研修場所に到着するまで他の者と話すことはなかった。二時間ほどの移動時間であったが熟睡できた気がした。


 受付の女のことなどすっかり忘れていたことに気がつき、勝利した気になった。だがその味にわずかばかりの苦味が混じった。


 メディアに作られた流行りの美を臆面もなく追求する姿勢、隠しきれていない煙草の臭いとミント系の口臭消しの混じり合った臭い、そして、己の肉体の反応と苛立ちを遠慮会釈なしに電光石火で他人にぶつける思考を経ない行動。それらを思い出し智人は思った。


『なんだよ、あの量産型。弱い者はさらに弱い者を叩くって言うのは本当なんだな』


 ☆★☆


「えっ? 篠塚さん、どうしてこんなところで」


「誰? 知らないんだけど。あんま気安く話しかけないで」


 今春から決闘に参加必須とされた集合研修。その参加者の宿泊場所として用意された海岸沿いのリゾートホテルのロビーで智人と篠塚は再会した。智人は喜びのあまり勢いづいて声をかけたが篠塚は連れない返事でその場を立ち去ってしまった。


 呆然と立ち尽くしていると篠塚に話しかける者がいた。派手なスーツを着た男でビデオカメラを構えて話しかけている。篠塚は虫を払うように手を振ると男は智人のところにやってきた。お互い自己紹介をした。男は梅内といい広告代理店で働いていると言った。会社のプロジェクトの一環として素人ながらに参加したとのことだった。


「見てたよ。さっきの娘(こ)、篠塚さんだろ? 知りあいなら紹介してよ。俺は梅内。広告代理店で働いてるんだ」


 梅内が見せた名刺には智人でも聞いたことがある大手広告代理店の名前があった。受け取ろうと手を出すとその名刺は引っ込められた。梅内は続けた。


「彼女、立会人たちの間でもファンが多いんだよ? まあ、立会人できるようなセレブたちの話題なんて現場の人間は知らないだろうけどさ。紹介してくれたら謝礼もあるんだけど」


 智人の反応を確認せずに一方的にまくしたてる梅内に辟易しながらも答えた。


「いや、人違いでした」


「本当に?」


「見てたならわかるんじゃないですか?」


 ただでさえ、篠塚の対応に少なからず心に傷を受けているところに無神経に質問を重ねる梅内に対していらだちが募り始めた。感情を隠さずに声に含めた。すると梅内は目つきを変えた。


「は? 何言ってんの? 決闘の代理人風情が。外国の傭兵の精鋭も参加するんだけどウチの会社、彼らと契約してるから」


「え、ええ」


 梅内の話の方向が見えずに戸惑いが声に出る。


「俺は彼らに護ってもらえるんだ。お前もどうかと思ったけど協力してくれないならそんな義務ないね。自己責任でがんばって」


 眼だけは笑っていない笑顔を見せつけて梅内は去っていった。すぐさま目に付いた別の参加者に声をかけている。女だった。受付カウンターにいた女と同じような身だしなみを施していたが、その目には憂いがたたえられ体全体を小さくまとめるかのように手足を揃えていた。


 梅内は女が座っているソファの前で型のビデオカメラを向けてなにやらは話しかけている。女は一つ会釈をするとさっと立ち上がる。その手をとって梅内が何か行っている様子が見て取れる。あきらめたようにうなだれて力なく手近なソファに座る女。


『見ている場合じゃないだろ。嫌がってるじゃないか』


 意を決して立ち上がり女の席に近づいた。何と声をかけるか頭を巡らし、大股で鼻息荒く。練習のために口を動かす。こわばっている。情けなかった。いやがる女にカメラを向ける若い軽薄そうな暴力とは無縁そうな男。その相手に文句を付けるだけで緊張している。梅内の側にまで来ると声が聞こえてきた。粘つくような声だった。


「本当に私の話を世界中に広めてくれるんですか? っていうか、なんで梅内さんがあのこと知ってるんですか?」


「質問は一回につき一つにしてほしいな。ま、その二つの質問の答えをひとつの言葉で教えてあげるよ。エフィシェントリーに」


「はい」


「もちろん俺の会社は広告代理店だよ。しかも世界でトップクラスの。負け犬(ルーザー)どもとは違うのさ」


「あ、そうでしたね。すごいんですね。でも、まだ自分でも気持ちの整理がつかなくって」


 それを意図せず立ち聞きしする羽目となった智人は思った。


『この女の人、もしかしてこいつに、はいはいすごいすごい、って言って煽ってるのか? ああ、でも本気でいやがってるのかわかんねぇよ。俺の好きな小説なら奴隷商人とかもっとわかりやすい悪者にいじめられてるのに!』


 身悶えしたい想いを押さえてスマホを見ている振りをしながら話を聞いている智人を余所に二人は会話を進めていった。


「大丈夫。落ち着いてからでいいよ。高城さん、っていうか、あずさでいいよね、君はまだ学生だし。休学中らしいけどさ。とりあえず信頼関係を築くために食事でもどう? 一週間ホテルに缶詰だからさ。食事くらいしか楽しみがないでしょ」


「あ、でも、節約のために食料買い込んでますから」


「ダメだよ。あずさ。ちゃんと栄養とらなきゃ。 大丈夫、遠慮はいらないよ。社会人だから経費で落とせるから」


「ごめんなさい、あたし男の人としゃべるの苦手なんで」


「いいんだ、君は黙って僕の話を聞けばいい。二人で一緒にコラボすることに意義があるんだから。それに君だってクライアントがあの森本一族だからこんな高級ホテルに格安で泊まれるんだから。この機会を逃したら一生君はこんなホテルを利用できないでしょ?」


「でも・・・・・・」


「それに君さあ、斬られて、あ、いやなにかバールのようなものとかで殴られたりしてさ、死ぬかもしれないんだよ、あ、まあ女の子はできるだけ生かされて飽きるまでオモチャにされちゃうんだよ? まあ、決闘代理人になった時点で、っていうか君の家みたいな家庭に生まれた時点で自己責任だとは思うけどさ」


「すいません。あたし、もう行きますから」


 立ち上がる高城の手首を梅内がつかんだ。そのときだった。


「ああ、もう、さっきからうるさいなぁ? ナンパならどっか他でやってよ」


「これはこれは篠塚さんじゃないか。君は忙しいんじゃなかったのかい?」


「忙しいよ。あんたの相手をする時間がないくらいにね」


 梅内はなにやら口にしたが篠塚が目線を強めるとその場を立ち去っていった。高城は立ち上がり篠塚を見上げて礼を言う。繰り返し頭を下げた。その頬は紅潮していた。だが篠塚は追い打ちをかけるように厳しい口調で言った。


「ところで、あんたさぁ、高城さんっていうの」


「は、はい」


「そうやってウジウジしてると決闘ですぐ殺されちゃうよ? あたし、あんたみたいなタイプと解り合えないから。同じ女同士だからって絡んでこないでね」


「すいません」


「あと、あいつとも絡まない方がいいよ。さっき声かけてきたんだけどさ」


 篠塚は智人を指さし言った。


「変なとこと勃てててる、メンへラで、エロの、負け犬(ルーザー)だから」


 智人と高城は眼を見開いて驚きを露わに篠塚を見た。


「あ、あの、ちょっと言い過ぎじゃぁ」


 うつむく智人と見下す篠塚。その間を取り持つように高城は言ってみたが篠塚はさらに続けた。


「いいんだって。人間誰でもはっきり言わなきゃわかんないんだから。もう一回言おうか。この、メンへラ、エロ、ルーザー」


 一言一言区切りながら、その度に篠塚は智人を小突いた。


「何か言い返したら? 男でしょ」


 智人は何も言えずに逃げるようにその場をあとにした。


 ☆☆★


 チェックインをすませキーを受け取り荷物を部屋におくと広間に集合させられビデオを見させられた。そこで決闘に関する法令と武器類の取り扱いに関する注意事項を学んだ。


 決闘は同じ人数同士の二陣営の対決によって行われる。定められた場所、制限時間の中で相手の決闘の代表者を殺害するか制限時間内によりの多く敵陣営の人員を殺害したほうの勝利となる。また、殺害された人員が同一であれば代表者同士の一騎打ちとなり決着が付くまで続けられる。この場合の代表者は紛争の当事者である必要はない。


 今回の場所と時間と人数は次の通りであった。場所は地方の廃校となった小学校。この建物から自ら出ても他者から追い出されても逃亡と見なされる。時間は二十四時間、人数は当事者含めて八名となっていた。


 武器に関しては銃や火炎放射器、クロスボウなどの射出に何らかの構造物が使用されてい飛び道具、薬物などは武器として使用することを禁じられている。しかし飛び道具ではない日本刀など一般には所持さえ禁じられている武器が使用することができ、投石などの人力による飛び道具なども認められていた。また、一般的な製造物でも殺傷のために使用することが許されていた。


 それに加え決闘場から逃げ出した場合は殺人の手助けと国家に反逆したとされるほどの重罪として扱われることの説明と死亡時は活かせる臓器があれば提供する義務があることが説明され、同意の署名を求められた。決闘中に死亡、あるいは死を逃れ得ない大けがと立会人が判断したら救急隊員が現場に駆けつけその遺体を近隣の病院に運びそこで内蔵が摘出されるとのことだった。救急隊員が遺体を搬送する間はその場で待機が義務づけられており、その時間はロスタイムとして扱われることが説明された。鈍器による頭部への攻撃が推奨された。


 さらに決闘代理人は決闘の当事者である雇い主と直接契約する個人、あるいは法人と人材派遣会社から派遣される者がおり、報酬はそれぞれで異なる旨、さらにホテルの滞在費はその報酬に含まれる旨の説明があった。人材派遣会社から派遣される者は基本的に決闘のどちらに着くかは派遣会社任せとなるため、意に添わない相手と共に決闘に参加することがある。たとえそうであったとしても決闘中に決闘の当事者に物理的な攻撃を加えた場合、これもまた殺人の手助けと国家への反逆として犯罪となる。


 また、何らかの判断が必要な場合は備え付けのカメラで撮られた映像を見ている十三名の立会人が協議する。


 そのようなことを説明される座学が終わると実技とされ訓練の方法は自主性に任された。智人は部屋で無気力にベッドの上で天井を見ながら篠塚の言葉を反芻していた。自慰に逃げ込もうと考えた。妄想に入り込む気力も失っていた智人は部屋に備え付けのパソコンからアダルト動画を見てみようと思い立ち検索を始めた。ふと思いつくことがあった。


『メンへラ エロ ルーザー 勃つ、で検索してみようか。どんなエロ動画なんだよって。だけど、篠塚さんも変なとこ勃てるなんて。よくあんな大人しそうな女の人の前でで・・・・・・』


「うんっ? まさかっ! 」 


 智人はペンをとりメモ用紙に書き付けた。


 メンヘラ エロ ルーザー


『もしかして縦読みかっ?  ちょっとビミョーだけど』


 メンへラ


 エロ


 ルーザー


 メエルをメールと読み替えてみた。


 智人は部屋の案内でフリーワイファイが使えることを確認するとスマホをコンセントにつなぎ電源を供給した。そして、祈るような気持ちで篠塚のSNSアプリのアドレスにメッセージを送信した。すると篠塚からすぐさま返信があった。


 やりとりをしていくうちに智人は篠塚があのような態度をとらなくてはならなかった事情を理解した。篠塚の話では、篠塚が智人や高城に優しくするところを見ると篠塚自身を支配するために二人が人質にとられかねない恐れがあるとのことだった。


 法改正により篠塚の会社を含め既存の決闘代行会社は全て解体させられた。決闘代理人の中にはこれを期に転職する者もいたが多くの者は決闘代理人を続けた。自ら依頼を獲得する営業能力や事務処理を行う能力のある者は個人事業主として、篠塚のように戦闘の腕は長けても営業や事務の能力などを持たない者はやむなく新規参入した人材派遣会社に登録をし、そこから派遣されるようになった。


 派遣先は派遣会社が決めるため、かつて敵同士であったものが同じ陣営に組み込まれたり、より多くの仕事を得るために、互いに競合相手である決闘代理人を陣営関係なく殺し合いが発生することもたびたび起きた。

 

 そのような背景から、業界でそれなりに名の知れた篠塚を倒すために篠塚が護ろうとする者たちを人質に取る可能性も含めて行動しなければならないということだった。


 そのため、智人や高城のような素人であっても表だって支援することはできないこと。その代わりに教えられることはメッセージアプリを通して教えるから生き残るために身につけてほしいとのことだった。


 智人は少し考えてからこのようなメッセージを送った。


「あの、篠塚さんに教えてもらったことを高城さんにも教えてあげてもいいですか?」


「いいけど、他の奴らにバレないようにね。あと訓練のコツはね、師匠の受け売りなんだけど、まず、五感を使ってありのままの現実を識(し)ること。視る、聴く、嗅ぐ、味わう、触れる。どうしても頭の中の自分のイメージにに囚われるから何も考えられなくなるほど疲れるところを目指して」


 許可はとったものの高城自身を信用してもいいものか決めかね、また篠塚に提案された食事や訓練メニューを自分自身でさえこなせるかも不安がつきまとい、教えるかどうかの結論を出すことを先に延ばした。とりあえずホテル備え付けのスポーツジムに行き、マシンを使ったジョギングや筋トレ、なわとび、そして水泳を行った。また特別に設置された打撃練習用の古タイヤを太刀や小太刀、斧など様々な武器に見立てた木剣で打ち込みを繰り返した。


 もちろん、同じくジムで体を鍛える篠塚の汗にまみれた姿をチラ見しつつ、他人のふりをしながらもすれ違いざまに匂いを嗅ぎ。篠塚のうなじや露出度の高いスポーツウエアの篠塚の肌を流れる汗の味を想像し、篠塚が泳いだ後を追うように泳ぎ、プールの水を飲みもした。篠塚が使用した後のマシンを使い篠塚の温もりに触れた。


 そう、智人は訓練という名の変態行為を続けてた。だからこそ初日から激しい訓練を始められた、とも言える。訓練を終え、一人で食堂に出た。食堂には決闘代理人とは関係のない客もいる。食堂には浴衣を着て石鹸の香りを漂わせている者やアルコールを摂取して大声で談笑する者たちがいた。


 その者たちの食事からは湯気が立っている。自分の食事を見る。節制のための低脂肪高蛋白の食事。食事代はあとで報酬から引かれると聞いていたため死ぬかも知れないなら好きなだけ喰ってやろうと思っていた。だが、篠塚の指示した、納豆や豆腐に漬け物類と鶏肉という質素な食事に舌打ちが出る。口に含んだ梅漬けが口からこぼれ転がる。


 カウンターのトレーにおかれている割り箸を取りに行った。左手で箸を使いつまみあげようとする。体を鍛える一環としてできるだけ左手を使うようにしていた。苛立ちながら左手で箸を使った。そのまま、湯飲みの無料サービスの茶の中に入れてすすぐ。口に運んだ。生ぬるさと酸味が入り交じった、まるで屈辱を味にしたような梅漬けを、あえて舌の上で転がす。惨めさを体に染み込ませようと思った。


 怒りをわきおこさせ攻撃的な気分になりたかった。だが不安や恐れが心から消えることはない。ため息をついて首を回す。一人の女に目を引かれた。食堂の喧騒の中、一人でうつむき弁当を見つめている女。決闘代理人の一人して研修に参加していた。高城あずさ。大学生とのことだったが中学生と言われても納得できる外見。色白で華奢で小柄な体形だった。風呂上がりなのか白のスウェット生地の服をきて艶のあるまっすぐな黒髪を首の後ろで束ねている。見ていると高城が顔を上げた。視線が合う。微笑まれた。会釈を返す。決めた。


『よし。このカリカリ梅はあのロリッ娘(こ)乳首。生き残れば彼女とヤレる』


 智人が妄想に気持ちを奪われかけていると呼び止めるような男の声が食堂に響いた。決闘代理人を会議室に集合するように知らせていた。返事をして席に戻り食事を続ける。梅漬けを口の中で転がしながら歩き出す。目に付いたゴミ箱に吐き出した。


『酸っぺ。あのこの乳首も酸っぱいのかな? 汗とかで。いや、しょっぱいのかな? なんでだろう?無性に知りたくなってきた』


 智人は高城に訓練をさせることに決めた。恐怖心は消え、なにやら積極的な気分が胸の内をもたげていた。とりあえず、今夜の自慰のためのオカズは高城に決まった。


 ☆★☆


 会議室では照明が消されノートパソコンと接続された映写機がスクリーンに映像を映し出している。その明かりが会議室全体を薄暗く照らしている。整然と並べられた長机とパイプ椅子を見渡す。どこに座ろうかと考えた。決闘代理人たちはそれぞれある程度の距離を置いての場所に座っていた。スクリーンの前に立つ男に声をかけられた。


「どこでもいいから座ってくれ。これで八名全員揃ったな」


「はい」


 座っている者の中に篠塚の姿を発見したが面識がない降りをしつつ、高城に近づくために高城の隣に座る。ちらりと見られた。するりと言葉が出てくる。


「あ、俺、資料忘れちゃったんで隣で見せてもらっていいですか?」


「スクリーンで見せてくれるみたいですよ?」


「あ、スクリーンですか? そっか、スクリーンか。なるほどスクリーンっていう発想はなかったな」


 そのまま隣に腰を下ろした。

 男が言った。男は日本語で言ったことをコンピューターに英語に訳させて外国人の参加者にも聞かせていた。


「よし。始めよう。一応私が年長者ということで僭越ながら仕切らせてもらう。自己紹介しておこう。私は小沼(こぬま)。傭兵として世界の紛争地帯を渡り歩いてきた。決闘ビジネスに金の匂いを嗅ぎつけてやってきたってわけだ」


 外国人の参加者たちから笑いが起きた。篠塚は眉をしかめ、高城は口を手で押さえ、智人は高城に話しかける機会をうかがっていた。小沼は満足そうにうなずくとさらに続けたに


「むしろわたしは被告人の森本君に同情するよ。私なりに調べたが冤罪だろうね。罪状は違法薬物の所持と使用だが国や地域によっては合法の代物だ。私も戦地では愛用しているよ」


 聞いていた者たちから軽い笑いが起きた。笑顔を強めさらに小沼は続けた。


「それに彼は首謀者としてサークル仲間と集団レイプを繰り返したとか人をさらってクルーザーに軟禁して殺しあいをさせていたなんてことが言われているが、さすがにありえないだろ? 財界の大物のご子息だ。女はよりどりみどりだし殺しあいが見たければどこかの国で内戦でもおこさせればいい。いや、財界の大物の血筋とは言っても所詮敗戦国の大物だ。そこまでの力はないのかな?」


 大爆笑が起きた。外国の者たちだった。


「まあ、今回のミッションを成功させて恩を売って今後とも長くビジネスをしたいものだ」


 英語での説明が終わると参加者の一部から歓声や口笛が起きた。


 その隙に智人は高城にたずねることにした


「知ってた?」


 高城はただ頷いた。智人はさらに続けた。


「本当だと思う?」


 高城は首を横に振り言った。


「どうせ、あたしなんかにホントのことなんてわかんないですから」


「そっか」


 智人は小沼に顔を向けた高城の横顔を見続けることにした。小沼は続ける。


「ではここで篠塚さんから提案のあった我々全員がワンチームとして組織だって動くか各自の自主性に任せるかを決めたいと思う。どちらがいいか挙手で意思表示をしてくれ」


 智人、高城、篠塚を除く全員が自主性を選んだ。結果を受けて篠塚が声をあげた。


「私はいいとしても子供や女の子がたかだか一週間の研修で生き残れるわけないじゃん? それにあなたたちは銃での戦闘は馴れているんだろうけど、ここでは使えないの知ってるでしょ? ここは経験者である私と仲間になってもらったほうがいいって。絶対に。それに向こうには市村がいるんだって。剣豪だよ?」


 智人は立ち上がった。何か言いたかった。篠塚を援護したかった。言葉が出てこなかった。注目だけ集めて薄暗い会議室の中、瞳がやけに輝く篠塚の瞳を見つめながら、口だけを小さく開いてただのどが渇いていくのを感じていた。見かねた高城が智人の服の裾を引っ張った。緊張でこわばった智人の体は過剰に反応した。


 高城の方に向けて頭を下げる。彼女の腰にタックルするような格好になる。頭の上で彼女の吐息を感じる。左耳に彼女の服の感触。動くたび擦れる。匂いが鼻に拡がる。目を閉じて集中する。柑橘系の匂いのなかにほんのわずかに酸味と苦味。そして勃起が始まった。


『俺、最低だ。』


 小沼の声が聞こえるとはなしに聞こえた。


「剣豪ねぇ・・・負け犬(ルーザー)の間違いじゃないのかな?」


 追従するように他の参加者たちから失笑が溢れた。


「なにがおかしいの!」


 篠塚の言葉に参加者たちから次々と笑いと嘲りの言葉があがる。


「ファッキンジャップ!」

「ヒャッハー! イエローキャブ! レッツファック!」

「コノブタヤロウ! チンピラ! バカ! クソ!」

「ヘイ! ゲイシャガール! キスマイアス!」


 小沼がそれを受けて続けた。


「いくら決闘は日本人らしさの一環だなんて言ったってこれが世界の本音だ。殺しあいを楽しむ蛮族の中の蛮族。それに宗教による性に対する規律も無く欲望の限りを尽くす民族。侮辱されてしかるべきだな」


「別に好きに言えばいい。そんな風に思われるのなんてとっくに受け入れてるわよ。でも舐めてると死ぬわよ?」


「楽しみだね。こうやって外資や人材派遣会社の参入の解禁が決闘業界の勢力図を変える。棒っきれ振り回して浮かれてる君のような猿山の大将たちにお灸を据えてやるさ。その剣豪市村とやらも研究済みだよ。森本一族は上級国民なんだよ。立会人として動画に保存してくれていた。対策は万全だ。もちろん他のプロの代理人たちのもね」


「だからぁ。その情報とあたしの経験をあわせればって言ってるでしょ?」


 さらに小沼は続けた。


「経験、だと? 小娘が何を言ってる。いいか。これは儀式だ。仲間を集めようと我々にまとわりつく幼稚な日本の小娘に世界の現実を理解させるための儀式にすぎない」


「そんなにあたしが相手にしなかったのが悔しかったの? あんたら全員、みんなエロい眼であたしを視て声かけてきたけどさ。」


 言い返す篠塚に梅内が言った。


「女と見れば抱こうとするのは我々が優れた雄である証さ。女を抱くどころか声をかけることすらできない不抜けた日本男児どもに飽きたらいつでも可愛がってあげるよ。僕は広告代理店として世界を回って世界中のセックスも体験しているんだ。世界のヤり方ってのを教えてあげよう。どうせ、処女だろ? 君。高校を退学してしばらくしたら決闘代理人になったんだ。恋なんかしている場合じゃなかったもんねえ」


 にらみつける篠塚に梅内が追い打ちをかけるように言った。


「篠塚さん。僕はね、広告代理店なんだよ? 調べは着いてるのさ。君、高校時代に暴力事件起こしてるでしょ? 男子生徒を階段から突き落とした。彼、その怪我が元でプロの選手になるのをあきらめたんでしょ? いい選手だったらしいじゃない? ええ? しかも君がいた学校の全ての部活動が大会の出場辞退してるでしょ? 連帯責任で。僕は君の失敗に巻き込まれるのはいやだなあ。 この決闘も自己責任でお願いしますよ?」


「そんなつもりじゃ・・・・・・」


 小さくつぶやき唇を噛みしめにらみつける篠塚に梅内は続けた。


「どうせ、高校時代は不良だったんでしょう。そんなんだから社会に出ても6K仕事しかできないんだよ。自己責任だよ。ちなみに僕は広告代理店としてルポのために参加しているだけだから。小沼さんたちとも契約して僕の護衛を引き受けてもらっているからね。僕になにかしたら彼らが黙ってないよ」


 篠塚が何も言わないでいるのを見て梅内はさらに続けた。


「いいか、僕は広告代理店なんですよ? 貧困を原因に決闘代理人に落ちた女性の姿や国家権力が冤罪で森本さんを陥れたことを世間に公表する使命があるんだ。おとなしく取材を受けていればいいものを。ま、当日は一人で彼らをまもってやればいいんじゃないか? 本当は仲がいいんだろ? そこのガキとブスとさ」


「勝手にすれば?」


 そう言い遺すと篠塚は部屋を出ていった。室内で智人の耳に高城の囁き声が聞こえる。


「もういいですよ。顔を上げてください」


 顔を上げるのを躊躇った。智人の顔は自分でもわかるほど怒りに満ち満ちていた。それは小沼や梅内の言動そのものよりも恩人である篠塚が侮辱を受けながらも援護もできず、出て行った篠塚をおいかけることもできずに、俯いていた自分自身へのものなのか。智人自身にもわかりかねた。


「あ、あのっ? いいんですか?」


 高城と目があう。迷った。知らない降りを続けるべきか。ただ高城のひとことで決めた。頷いた。小沼の呼び止める声を振り切って駆けだした。会議室からは笑い声が追いかけてきた。


 ☆☆★


 高城はホテルのガラス張りの喫煙スペースから昼下がりの梅雨の雨に沈む荒れた海を見下ろしていた。たとえ人影があったとしても見つけることはできないほどに暗く沈んだ海だった。


『こんな日に海に落ちたら死ねるな』


 好んでやっていたビデオゲームを思い出した。鳥になって自由に世界の都市や島を飛び回るという内容だった。現実逃避とはわかっていたがやめられなかった。そのゲームではプレイヤーが地面に落ちることはまずなかった。


 ぞっとするような寒気を感じた。足下から恐怖に囚われ身動きできなくなる予感が這い上がってくる。断ち切りたくてパーカーのポケットに手を突っ込む。ぺたりと指をなめる煙草のパッケージの感触。一息つく。煙草の箱を取出す。一本引き抜こうとして思い知る。煙草を臭いと感じている自分自身に。アルコールよりも意識を変えることなくストレスを軽減できるであろうという想いで煙草を買ってみたが無駄に終わりそうだ。とてもじゃないが火を点ける気になれない。


『どうせ、死ぬ気なんてないくせに・・・・・・・そっか。わざわざ危ないことして生き残れば許されるってことを信じたいだけなんだ、あたし』


 小柄のために男の庇護欲を掻き立てるのか交際を申し込まれたり街で声をかけられることはたびたびあった。だが興味は惹かれる物の実際に行動するまでにはいたらなかった。今にして思えば早い段階から経験を積み手練手管を手に入れておけばよかったのかもしれない。そう思う。


 まじめだけがとりえだが入学できた大学は望み通りの就職は期待できなかった。そして家庭は父の失業により経済的に厳しい。都内で一人暮らしをさせてもらっていたが仕送りを頼れない状況になりアルバイトを増やしていった。


 そのような折りに、学友から夏休みにクルーザーで行われる財界の青年の誕生パーティでウェイトレスとして給仕をするというアルバイトを紹介された。もしかしたらお金持ちの青年に見初められ結婚できればそこから少しでも家に援助をしてもらえれかもしれない、と今にして思えば甘すぎる期待もあった。


『あんなことになるなんて・・・・・』


 口にくわえていた煙草のフィルターは平たく潰れている。やけくそな気分で煙草に火を点けた。むせる。


 高城は森本が主催するクルーザーでの誕生パーティで狂気にまみれた殺し合いの生き残りだった。死んだ者たちは全て海に捨てられていた。危機に際し救命道具を見つけると自ら海に飛び込んだ。陸を目指して漂っているところを奇跡的に漁船に救われた。


 後にニュースなどで調べても高城が体験した事件はなかったことにされていた。ただ、目の当たりで興奮に包まれながら喜きとして銃を撃ち合い凶器で殴り合う者たちと混乱して逃げまどう者たちの恐怖の顔。襲われていたのは給仕の制服を着させられた者たちだった。襲う側に着飾った学友がいたことに気がついた。


 家族には言えなかった。生き残っていると知られたら口封じに殺されるかもしれない、そんな恐怖から実家に帰省し外出できなかった。大学に休学届けを出した。SNSでアルバイトに誘った彼女が海難事故で死んだと知った。


 そして親に経済的な負担を強いている心苦しさと自分だけで生き残った自分は罰を受けるべきだと考えた。そして決闘代理人に応募し選ばれた。森本側に配置された時点で自分はここで殺されると確信した。楽になれるならそれで構わないと思っていた。


 篠塚と小沼たちのやりとりを見てその確信がゆらいだ。殺される覚悟を決めていたつもりだったのに迷いが 生まれた。吐きだした紫煙の立ち上る姿にクルーザーで見た銃から吐き出されていた煙が重なる。空気清浄器のモーター音が高なった。我に返る。肺を煙で満たすように吸い込んだ。ガラスに反射する煙草の灯が蛍が放つ光のように膨らんだ。


「生き残っちゃってすいません」


 誰に言うでもなくつぶやいた。煙草を咥える。吸い込んだ。息を止める。ちくちくとした刺激とのどの奥が強引に開かれていくような圧力を感じ、その痛みにテーブルに手をつき片膝を落とす。しばらく耐えて顔を上げるとガラスに反射する自分の姿が浮かんでいた。肺にため込んだ煙を吐きかける。煙が消えるとガラスの向こうに歩いている篠塚の姿が見えた。泣いていたのか手の甲で頬を何度も擦っている。篠塚が向かっている方向には先ほどの会議室があった。まっすぐに前を見る篠塚の横顔に胸がうずいた。


「どうして生き残るために必死なの? 」


 ★☆★


 智人は自分を避けるように歩き回る篠塚を追いかけていた。思い切って急ぎ足で回り込んで顔をのぞき込む。頬に涙の後が見えた。動けなくなった。言葉が消えた。救いを求めてあたりを見回した。自販機を見つけた。


「とりあえず飲み物買ってきますから落ち着きましょ?」


 目に付いた自販機に飛びついて躊躇い無く小銭を入れていく。体を動かさずにはいられなかった。そして、気がつく。篠塚の好きな飲み物も知らないことに。


「あ、あの、なに飲みます?」


「いいよ。お金ないんでしょ?」


「あ、じゃあ、食堂から水もらってきます!」


「いいよ。もう。私も行く」


「は、はいっ! い、いっしょにイキましょう!」


 食堂で二人でテーブルに腰掛け落ち着いてきたころあいに高城が話しかけてきた。


「すいません、あんな風に考えてくれたんですね。だからあたしにも冷たく」


「別に、そんないい人ってわけじゃなくて。あたしだって不安だった、ってだけ。まバレちゃしょうがないけど」


 三人は顔を合わせて笑いあい、梅内たちに絡まれないように後ほど飲み物や食べ物をを持ちよって智人の部屋でこれからの行動について話し合うことになった。智人の部屋で篠塚は種類を取りそろえたソフトドリンクのペットボトルをデスクに並べていく。高城を見る。高城はお茶の缶を持っていた。照れた様に笑う高城に親近感を覚えた。智人は篠塚が選んだものと同じミネラルヲーターを選んだ。


「ところでさっき、あの男に言おうとしてたことってあたしたちに話せる?」


「はい、むしろ聞いてほしくって。でもどうせ信じてもらえないかもですけど・・・・・・・・」


 高城の話に耳を傾ける。智人と篠塚はつっかえながらの、思い出した順に話し出す、要領を得ない説明を辛抱強く、時に質問を交えながら聞ききった。聞き終えると篠塚は高城にたずねた


「もしかして決闘なら楽に死ねると思った?」


 高城は答えなかった。


「正直それなら手を組めないんだけど?。それにできることなら他のやる気ある人に変わってあげてほしい。だって一回の決闘代行で手取りで三百万もらえるってさ、異常だよ? あたし決闘代理人だったから知ってるんだけど」」


「はい。知ってます。前金の百五十万は親にわたしました」」


「え? じゃあさ、生き残って残りの百五十万は自分で使おうって気にならない?」


「やっぱりお金、大事ですよね?」


「あー、あずさちゃん、あたしがお金で決闘してるって思ってたんだ? ま、そう思われてもいいけど。ま、実際、最初はそうだったし」


「じゃあ、なんでなんですか? 女の人って結構多いんですか?」


「うーん、まあ、いなくはないけど少ないよね。あたしは、合ったことはない。いるってことは聞いたことあるけど。まあ、自分にあってたってことだろうね」


「殺されるかもしれないのに? っていうか、殺してるんですよね? 生き残ってるってことは」


「そだよ? あたしは人殺し。キショイ? 逆に聞くけどどう? 実際に仕事で人殺しを見て。」ま


「あ、いやふつうだなって」


「どんなサイコ野郎想像してたんだよって、話だけどね。


「すいません」


「あ、いい、いい。実際サイコだし。あたし。やりたくって、できるんだったららやっちゃえば?って。そう思って実際やれちゃう。他の人にはそういうときに働くブレーキがあるんだろうなぁって思うよ。でも、あなたもそうでしょ? 一緒にされるのイヤかもだけど、ここにいるって、ブレーキ働かなかったんじゃないの?」


 言いよどむ高城を篠塚は首を傾げ瞳を見つめることで促した。


「あ、いや。なんか自然と。まあ今さら気づいても遅いですけど、えらばれたのもクルーザーで生き残ったから口封じだろうなって。それに、どうせ、あたし生きる資格なんてないですから。逃げるとき救命道具を使って逃げました。他の誰かのことなんて考えないで。そういう人間ですから。あたし」


「そっか。まあ、目の前で苦しむ人を見ないから気がつかないだけで世の中のたいていの人はたまーにしか他人のことなんて考えないんじゃない? あたしもそうだし。他人の不幸が密の味とまでは言わないけどさ」


「ですね」


 高城がうつむきしばらく考えている様子だったが篠塚構わず飲み物を飲んだ。高城は飲み物を入れたペットボトルをテーブルに置き両手で包んでいる。ペットボトルの中の液体を視ながら言った。


「篠塚さんはとても強いですよね。あんな男の人たちに立ち向かってるし」


「そうだね。ねえ、やっぱり高城さんみたいな人って、人を傷つけても平気でいられるようになるのがいやなの? 人から優しい人間と思われていたい?」


「・・・・・・・正直、両方、ですね」


「ふーん。師匠の受け売りなんだけどさ。他人を受け入れるには自分が満足してないと無理なんだって。で、どうせ満足なんて人間にはできないんだから、まあせいぜい自分の体を大切にしてやれって。他人殺して生き残ってきたうちらが今さら人に優しくとか言うか? って話なんだけどさ。どう?」


「なるほどですね。まあ、わたしは直接殺したわけじゃないけど」


「言うねえ、あずさちゃん。まあ、元気出たみたいでよかった」


 二人の間の緊張感が取れ、高城の瞳に知的な光が宿った。


「かもしれないですね。ちょっと頑張ってみます」


 二人の顔に笑顔が戻ると智人は言った。


「あ、あのー、俺の話も聞いてもらって大丈夫ですか?」


「うん、どうしたの?」


「俺、生き帰れたら百万って聞いてるんですけど。っていうか、前金なんてもらってないし、そもそも金が振り込まれる予定の銀行の通帳もカードももらってないんですけど」


 篠塚と高城は眼を見開いた。そして篠塚は智人の肩に手を乗せ言った。


「せいぜい自分の体を大切にしてあげて」


 笑いをかみ殺している篠塚の表情を見て智人はイスから崩れ落ち床に突っ伏した。


「うわっ! マジかっ? だまされた。絶対三百万あのちょびひげハゲや妖怪歯ぬけじじいどもで分け合うんだ、くっそ」


 しばらく打ちひしがれていた智人だが篠塚と高城の慰めをうけ続けた。生き残ることができれば二人から無利子、無担保で当座の生活費を貸し出すという申し出があり徐々に気持ちを切り替え始めた。


『あとからだって奴らから取り返せばいいんだ。いや、絶対に奴らから取り返す。俺だって他人を犠牲にしてでも自分のやりたいようにやるんだっ。それに俺は二人の女の人から金を貸してくれるような男なんだ。ヒモとかジゴロとかホストとか全裸の監督的な才能があるんだ。絶対に。やっべ、なんだか力がわいてきてどうしようもないっ!』


 それから三人は非常に士気高く打ち合わせた。三人でできるだけ戦闘を避け二十四時間逃げ切るという方針が決まった。そしていざとなったら人を殺す覚悟があるかを問われた。智人も高城も言葉に詰まった。そんな二人に篠塚は宣告した。


「最悪、あたし一人で逃げるよ? それから一週間、きっちり訓練してもらうし。とりあえず考える時間あったほうがいいから一回解散しよ?」


 智人と高城は頷いた。数時間後に再び智人の部屋に集まり二人とも決意を固めていた。篠塚が再度、命を落とす可能性が高いであろうこと、決闘場から逃げ出すことは犯罪であり殺人を手助けするほどの重罪として扱われることを確認したが智人と高城の決意は揺るがなかった。智人と高城は他人を犠牲にしてでも、それぞれ戸籍と金が必要であることを訴えた。


 そして作戦会議が始まった。篠塚は今回の決闘の舞台として選ばれた廃校の校舎の見取り図を用いて説明した。


「じゃあざっくり説明するから。細かいところはあとで聞いて。今回の決闘場はら見たらカタカナのコの字型の校舎。たぶん、立会人用のカメラがいっぱい取り付けてあると思う。これは気にしないで。いじるとこれも罪になるから」


 智人と高城は頷いた。


「で、ここから渡り廊下を通って体育館までが範囲。あと、地面に足をつかなければ逃亡扱いにはならないから。空中はオッケー。だからベランダとか壁づたいに移動するのはあり。もちろん渡り廊下の上も。うちらは渡り廊下とその屋根に鉄のウニみたいな奴と油を引いて侵入しづらくすしてから体育館に立てこもる。」


 そこで区切って篠塚は智人と高城の眼を見た。真剣な眼差しを確認すると説明を続けた。


「で、ざっくり説明するから向こうは学校の中は通らないでヘリで屋上まで運ばれて待機。うちらは普通に昇降口に待機。スタートまでお互いに校舎の中に仕掛けができないようにね? で、うちらは昇降口から入って重たいものもって速攻で体育館まで駆け抜ける。二人は体育館の観客席的なところから窓から外を見張る。で、入ってきたら智人君には降りてきてもらって戦う。高城さんには観客席から援護してもらう、って形」


 智人が得心を得た顔で行った。


「そっかそれであのムカつく親父たちは攻撃に行って返り討ちに合う、俺たちは攻めていくと思わせておいて二十四時間隠れてればいいってことか」


「まあ、理想通りにいけばね」


 それからも篠塚は説明を続け智人と高城は真剣に話を聞き続けた。はぐれたときの連絡のためヘッドセット付きのトランシーバーを使うこととそれが使えない状況での連絡の取り方。食事や休憩の取り方、二人に持たせる武器などの説明があった。武器類は篠塚がかつての仲間たちに連絡をしてホテルに送ってもらえることになった。訓練を通じて使い方を身につけてほしいとのことだった。


「それじゃ明日から大変だし早く寝てね」


 篠塚は説明を終えると高城から受け取った噴霧器を軽く振り、笑顔を見せてのまま部屋から出て行った。 部屋に残された智人と高城と目が合った。智人はこれをチャンスととらえた。


「俺たち…… 一週間後に死ぬかもしれないんだよね……」


「大丈夫ですよ。立原君なら」


「え、なんで?」


「え? ただなんとなくですけど。それじゃ明日早いんで」


 そう言って小さく軽く手を振ると高城は去っていった。扉が閉まる音。篠塚と高城が座っていたあたりに交互に全身を投げ出した。漂う匂いをかぎ比べている自分に嫌気がさしながらも、その後めちゃめくちゃ自慰をした。


 自慰を終え我に返った智人は千尋に連絡を取ることを思いついた。篠塚のときと同じように契約が解約されて今まで使用していた電話番号やメールアドレス、SNSアプリのアカウントなどが使えない旨を伝える文章も含めてフリーメールで送ってみた。返信があった。なりすましであることを疑われたため、ホテル名や電話番号を教え電話をかけてみるように提案した。するとこんな返信があった。


「セコっ! 電話代節約する気なんでしょ? あんたがかけてくれば。智人なら電話番号知ってるでしょ?」


「ばーか。俺の携帯契約解除されてんだよ? おまえが知らない番号からかかってきても電話に出ないの知ってるんだよ。とっととネットでホテルの番号調べてかけてこい。俺、フロントに行くから。そうすれば少なくとも俺がそのホテルにいるってことははっきりするだろ? あ、あと俺、別の名前でチェックインしてるからそれで呼び出せ」


「文章長っ! 長文は読みにくいんだから読む相手の都合も考えなよ」


 そうして、しばらくしてからホテルから呼び出されたく直接会話することだできた。智人と確認がとれた瞬間電話口で千尋が泣き出した。胸が痛んだ。そして、智人が死んだことになっており葬儀まで行われたこと。立原家には新たな養子がもらわれたことなどを教えてもらった。


「本当に生きてたんだね? 大丈夫? ご飯食べてる? ちゃんと寝れてる?」


 千尋の鳴き声に、質問の内容に、つい先ほどまでめちゃくちゃ自慰をしていた自分を恥じた。


「ごめんな。自分のことに必死で考えたこともなかった。俺はなんとか生きていくからさ。おまえも元気でな」


「生きていくってどうやって? 仕事はどうすんの?」


「大丈夫だよ。バイトしてるから。」


「智人の生活が落ち着いたら会おうよ。電話して。公衆電話からでも出るようにするからさ」


「わかった。必ず生きて会いに行くよ」


 電話を切り、スマートホンで卒業式に撮影した千尋や決闘に巻き込まれた日に撮影した篠塚の写真を見た。どちらも舞い散る桜の中、美しくほほえんでいた。そして、しばし考え智人は重大な決意をした。


 オナ禁である。


 決闘が終わるまで自慰を我慢し訓練に全精力を傾けることに決めた。さきほどむちゃくちゃ自慰をしたのですっきりしていたからこそ安易にできた決意であることを自覚できていなかった。厳しい訓練の中、智人は己の性欲の深さに戸惑い、恐れを感じながらも押さえきれない衝動により変態行為は繰り返された。最初のものよりも恐ろしい形相で。篠塚や高城が逆に頼もしさを感じるほどに。


 篠塚はその若さ故の経験不足から男の性欲について把握し切れていなかった。全てが敵に見える状況で智人の性欲まで考える余裕はなかった。そのため、自分の姿が見られているとは知らずに、折りを視ては無防備にトレーニング中の姿をさらし続けた。高城も同様である。智人の訓練という名の変態行為に力が入り、その性欲モンスターとしてのエネルギーを訓練で発散した。


 特に木剣による古タイヤへの打ち込みに没頭した。篠塚の指導により頭の上まで木剣を振り上げ古タイヤ二向けて全力で振り下ろす。反動でひっくり返りそうになる。そこを耐える。次の打ち込みを続ける。何度も何度も打ち込んだ。篠塚が指示した千回を軽く超えて回数をこなした。


 打ち込むときは篠塚に教わった猿叫(えんきょう)と呼ばれる雄叫びをあげた。雄叫びで相手を怯ませ一撃で戦闘不能に追い込む打撃を加える。シンプル故に反復の回数次第で素人の智人でさえも段々と様になっていく。そして智人はできるだけ反復できるように一つ工夫を加えた。


『このタイヤは篠塚さんのお尻、このタイヤは高城さんのお尻、このタイヤは千尋のお尻。寺井のお尻は叩かない・・・・・・』


 自慰を自ら禁じた性欲モンスターは人を殺す訓練の中でスパンキングの夢を見ていた。


 ☆☆★


 筋肉痛がつらかったがホームレスだったこころと比較してよく眠れた。みるみる心身の健康を取り戻していった。訓練のハードさと忙しさの中で会話らしい会話などないまま研修期間は瞬く間に過ぎた。智人たちの筋トレや訓練、さらにはダンススタジオで行われた篠塚の指導による実践的な練習も繰り返し行われた。


 また、高城も援護として遠距離からウォーターガンや投石、スリングショットなどの腕を磨いた。その過程で智人は高城の練習のため、また智人の回避の練習のためにやわらかいボールやウォーターガンの生きた的として動き回ることもあった。それはホテルの近場の防砂林の中や砂浜などで行われた。足場や視野が悪い状況でも高城が撃てるようにあえて雨の中でも行われた。


 そのときには蒸し暑さと雨を防ぐために、動きがたい状況でも動けるようにという目的で、それぞれが水着のうえにポンチョを羽織る形で行われた。ホテルからレンタルしたその水着は流行にのったビキニの露出度の高いものであった。ウォーターガンには海水が充填されていた。当然智人は偶然を装い全力で己が股間を篠塚と高城の吹き出した潮に当てに行く。また、隙あらばポンチョの裾が捲れるように篠塚と高城の動きを誘導した。


「ねえ、智仁君。ボールとかは避けられるのにどうして水鉄砲は避けられないの?」


「あ、いや、海という生命の源のそばにいるとついつい水に引き寄せられちゃうっていうか」


「ふーん。なんかまた分けわかんないこと言ってるけどさぁ、本番じゃ、あっつい油とか真剣が振り回されるんだからね。ちゃんと周りを見て! トンボの目を身につけなきゃだめだよ! 教えたでしょ?」


「はいっ! もう一丁お願いしますっ!」


 まるで運動部員のように答えた智人であったがとんぼの眼はすでに身につけていた。 


 蜻蛉の目とはあらゆる方向を視る極意の例えとして教えられていた。元々写真を撮ることを趣味としている智人。目配りには自信があった。そこへうら若き美しいビキニ姿の乙女たちのポンチョの裾から、脇からのチラリズム。そこへオナ禁の効果である。そう、一時的ではあるが智人は飛んでいる蠅が雄か雌か判断できるほどであった。もちろん箸で捕まえるような真似はできない。


 むしろ、篠塚が叱るべきは股間に刺激を与えて射精してしまい、極限の戦闘モードから賢者モードに切り替わってしまうリスクを冒していることであったかもしれない。


 時折現れては訓練の様子を見て侮蔑の言葉を投げつけてくる小沼たちの連れている女たちも智人は全力でチラ見をすると妄想の世界でスパンキングしたった。と、言うわけである。


 こうして毎日疲れ切るまでに訓練を繰り返した結果、オナ禁は守られた。


 そのような厳しい訓練あっというまに研修最後の夜となった。智人は明日から始まる決闘に緊張を憶え寝付けない夜を過ごしていた。かつて篠塚と高城の二人が座っていたあたりに擦っているうちにいたたまれなくなり毛布を抱きしめながら右に左にとのたうちまわる。高城の少し見開かれた瞳、乾いた声が脳裏に浮かぶ。そのたびに赤面し舌打ちし溜息を吐いてのたうち回る。自慰の禁断症状が現れていた。


『一発ヌいてすっきりしたほうがよく眠れていい結果が出せるよ。いやだめだ。いざとなったら人を殺すかも知れないんだ。殺すKAKUGOを作るためにも凶暴なままでいたほうがいい』


 己の中で悪魔と悪魔が囁き続ける。それに耐えていた。そんなときだった。控えめなノックの音がした。時刻を見てみるとすでに二十三時を回っている。


『誰だろ? こんな時間に。もしかして女子が俺の部屋に』


 跳ね起きた。心臓が高なっている。呼吸を整えた。ドアを開ける。篠塚が立っていた。黒のフード付きのスウェット姿だった。ぎこちない笑顔にとまどう。


「ごめんね。お願いがあるの?」


「あ、はい。なんですか?」


「今日、この部屋に泊めてくれるかな」


 この童貞男子が期待しつつも絶対に言われることのないであろう言葉に智人の局部は復活の勃起完全体となった。角度で言えば百七十九。腹にめり込む一度前である。


「え、え、ええ、もちろんいいですけど」


「ごめんね。あたしの部屋。どうやら曲者が忍び込んできてさ。撃退はしたけど、ちょっとパニクっちゃって。とりあえず君のところにも曲者が来るかもしれないから一緒にいたほうがいいかなって」


「あっ。はい」


「眠れそう? シャワーだけじゃなくてぬるめのお風呂に入ると眠れるよ」


「あっ、そうですね。じゃあ、俺風呂はいるんでベッドで待っててください」


 期待に胸と股間を破裂しそうなほど膨らませている智人。飛び込むように浴室に駆け込んだ。それを見た篠塚は少し首を傾げたがベッドに体を横たえた。智人はまず自分を落ち着かせたかった。なにをなすべきか考えた。


 自制心を押さえきれなくて篠塚さんを襲っちゃったらどうしよう? あるいはエッチできたとしてすぐにイってしまったらどうしよう? シミュレーションしてみる。


『やれやれ僕は射精した』


 射精後の賢者気分で言ってみる。ダメだ。とりあえずセックスはできる前提で考えてしまう。智人は読書で得た知識を現実に転載することの困難さを知りおとなしくオナ禁をあきらめ一本抜こう。包皮を剥き、低刺激のボディソープを亀頭に塗り込みはじめた時だった。浴室の外から声がかかった。


「智人くーん。ちょっと聞いてくれるー?」


 ビクゥっ! と、なりながらも呼吸を整えつつ答える。


「はーい。なんですか。」


「顔見ると恥ずかしいからここで言うけどー」


「えっ?」


「信じてくれてありがとー。それだけー。じゃーお休みー」


 それに応えるかのように智人の陰茎は脈動した。それを見ていた智人。ゆっくりと刺激を与えないように時間をかけて亀頭のボディソープを洗い流した。流し終わる頃には汗も引いていた。備え付けのガウンを着込んで浴室から出る。もうどれほどの勃起にも負ける気はしなかった。


 浴室から出てきた智人を迎えると篠塚は手を後ろに回してベッドについた。無防備に胸部が智人の目の前にさらされる。智人は自分の鼻から細く長く空気を吸い込み太く短く吐く音が自棄に大きく感じらていたた。篠塚はペットボトルの水で喉を鳴らすと、言った。


「ねえ、今夜は眠れそう?」


「まあ。でも寝れきゃ寝れないで平気です。テント暮らしの時も眠れなくても次の日仕事はこなしてたから」


「そっか。初めては怖いし緊張するよね。大丈夫。私に任せて」


「いえ、別に怖くは・・・・・・」


「そっか。あたしは怖いよ。辞めればいいと想うけど辞められない。どっかで楽しんでるの。殺し合いを。生きてる感じがして。病んでるよね。あの、いやな男が言ってたでしょ? あたしが元々人殺しだって』


「あんな奴の言うことなんか信じないっすから。俺」


「うーん、ある意味事実なんだよね。事故なんだけどさ。憶えてないのね。あたし。見てた人たちが色々言ってさ。あたしはただ窓から雨に見てただけなんだよね。廊下を駆けてくる人にぶつかっちゃってさ。野球部が雨の日は廊下で練習するから一般の生徒はいちゃいけない場所ではあったんだよね」


「・・・・」


「で、聞いてもらっていい? 自分語りだけど」


「はい。」


「あたしね、そこから記憶障害っていうの? そういうのになっちゃってさ。ときどきいろんな記憶が抜けるっていうか、憶えていられないって言うかそうなちゃって、高校中退だしそんなんじゃ仕事できないじゃん? 親とは離れたし」


 智人は何も言えなかった。篠塚の話がシリアスな方に向かっていることを感じた。股間でだだをこねまくる息子を抱えつつも真剣に聞くことにする。


「ま、それで色々あって決闘業界で働くことになったってわけ。そうしたらさ、ちゃんと憶えていられるの。ふつうに。ま、インパクトつよい仕事だしね」


「ですね」


「そ。悪いことばかりじゃないんだよね。クライアントが女の人のときは女同士じゃなきゃわかりあえないこともあるからさ。それより智人君の方が大変でしょ? なんか親に捨てられちゃった感じで」


「いや、俺なんてちょっと頭がおかしいだけなんで」


「ホントに頭がおかしい人は自分のことを疑わないよ」


「え?」


 言葉を探したが見つからない。篠塚の穏やかな声が聞こえる。


「ねえ、生きて帰ってまたドライブ行こうよ。君の好きなところに二人で行こう」


「はい。一緒にイキましょう」


 見つめると篠塚は穏やかに微笑んだ。


「じゃ、いいの? ベッド使って」


「はい。俺も寝袋持ってるんでそれ使いますから」


「よかったら半分ベッド使って。体が固くなっちゃうからベッドで身体を休めた方がいいよ」


「えっ?」


「大丈夫。襲ったりしないから。なんてね。じゃ、あたし先に寝るから準備ができたらどうぞ」


 そう言って布団をかぶり瞼を閉じた篠塚。智人は部屋の照明を薄暗い物に変えた。


『優しさなの? 誘ってんの? はっきり言ってっての!』


 智人の眠れない夜が始まった。


 ★☆★


『あ、あの人についてきてもらえれば部屋に入れるかな? さすがにあの代理店男ももう待ち伏せしてないだろうけど』


 智人が悶々としていることロビーの喫煙所にいた高城は従業員の女がカウンターから出てくるところを見かけた。


 女は少し明るめの色をしたショートヘアを揺らし、台車で背嚢と呼べるようなリュックを運びながら小走りに歩いていた。タイトミニと蝶ネクタイにベストという制服が返って女の体が豊満であることを伝えていた。慣れた化粧が女の若さを隠しているのに気がつく。


『ちっ』


 思わず出てきた舌打ちで自分がいかにストレスを抱えているか感じる。煙草を備え付けの水を蓄えた吸い殻入れにつっこむとあわてて女を追った。だが、同じエレベーターには間に合わなかった。部屋のあるフロアで降りると智人の部屋の前に立つ女を見つけた。


『え? こんな時間になにやってるの? 智人君の彼女? いや、まさか。じゃあなに?』


 女はカードキーを用いて智人の部屋のドアを開けた。慌てて女の後ろに駆け寄る。扉の奥の光景が眼に飛び込んできた。薄暗いオレンジ色の照明の中に月光のような色をしたドアからの光が射し込み細くて短い通路を扇形に照らす。


 女はゆっくりと歩を進めた。高城も息を潜めて後に続く。やがてベッドが見えてきた。


 視界に飛び込んできたのはベッドの上で仁王立ちの智人の姿。全裸でギターをかき鳴らしているように見えなくもない。リズムを刻むかのように時折、尻のよこ側がへこむ。たじろぐ高城。踏み込んでいく女。高城は女が尻を引っ叩いた。智人が跳びはねる。


「勝手に入ってくんじゃねえよっ!」


 絶叫だった。 


 篠塚の寝顔を見ている内に耐えきれなくなった。オナ禁開けの自慰中に尻を叩かれた。皮肉なことにかつて自慰中に母親に邪魔されたときの記憶が蘇った。当時言えなかったことが口をついて怒鳴ってしまった。


 固まる高城と女の二人。その瞬間だった。ベッドから飛び出した篠塚。足をかけ女をベッドのうえに転がした。手首をひねりあげる。背中に馬乗りで言い放つ。


「こんの曲者がぁ! 智人君、なにか縛るもの持ってきて」


 呆然としている智人を見上げ激を飛ばす。


「とっとと縛るものを持ってきて! ガウンのひもでいいからっ。口と腕と足で全部で三本分!」


「はいっ!」


 篠塚は女の両腕を慎重に引っ張り背中側で手首を交差させた。想像していた抵抗はなく、声を出さずにいることに女の不気味さが増す。智人が篠塚に浴衣やバスローブの紐が差し出す。


「口と腕と足。どこから縛りますか?」


「腕、足、口。その前に明かりをつけて落ちついて正確にね」


 女の手足を縛り上げた。その要領のよさに篠塚は感心した


「器用なんだね」


「いやあ、たまたまですよ。ところでこいつをこのまま運びやすくする縛り方があるんですけどもうちょっと長いひもがあればできるんですけど。」 


 当然智人はエロ動画も視ている。智人の脳の映像記憶フォルダにはSM動画も網羅されいるのだ。


「ごめんね。持ってきてないや」


 篠塚は女に告げた。


「いい? 下手に大声だしたら女だからって容赦しないわよ?」


 女は声を荒げた。


「うるっさいなあ。ちょっと離してよ、なんなのこれ」


 智人に言う。


「智人君、ちょっとさるぐつわもしちゃって!」


「はいっ!」


 篠塚が指で示すとおりに顔を横に向けている女の後頭部の方に回りこんだ。両手で紐の端を持ち前後に大きく動かしながら女の顔とベッドの間を這わしていく。丁寧に撫でつけられまとめられた髪をまとめてある位置と己の両手の位置からガウンの紐が女の口に届いたと見た。ひもを縛りあげながら篠塚の言葉を聞く。


「いい? おとなしく話をする気になったら猿ぐつわははずしてあげる。それまではイエスなら頷く、ノーなら顔を横に振る。それで意志表示して。まずわたしの言うこと聞いてくれる?」


 イエスの返事だった。智人は女の顔をのぞき込んだ。そして思わず噴き出して笑ってしまった。


「笑ってんじゃねえよ。サド野郎。フガ」


 女の鼻声。ガウンの紐は口ではなく鼻を絞めつけていた。もともとの人相がわからなくなるほど鼻の穴が強調されている。さらに女は続けていった。


「笑っていられるのも今の内だからね。この人たちにあんたお得意のエアギターしてる映像見せちゃうんだからっ!」


「え?」


 智人はあわてて女のさるぐつわをはずしてやった。現れたのは智人の幼なじみの千尋であった。

 

 高城はにらみつけてくる千尋から視線をそらし、視線の先にあった全裸の智人を見るとはなく見ていた。篠塚はいまさらながら智人が全裸であることに気がついた。千尋は二人が智人の全裸になにも言わないことに疑問を感じながら智人に言いつけた。


「とりあえず、出すもん出しちゃいなさいよ。待っててあげるから」


「出すもんってなんだよ。俺がやってたのはエアギターだって言ってんだろ?」


「はん、明日は命がけで戦うっていうのにまた変なことししてて頭おかしいんじゃないの?」


「っていうか、お前こそなんでここにいんだよ? ここは俺んちじゃないんだぞ? どうやって入ったんだよ」


「マスターキーに決まってんでしょ。あんたからメールもらってから予定変えて、ツテを頼ってこのホテルで働かせてもらったの。心配で様子を見に来てあげたんだからねっ」


「はい、でましたでました。心配してあげた、ってなんですか。大きなお世話なんですぅ。俺はお前と違って世間を知りましたからなそんな無神経なことは言えませーん」


「何よっ! 寝てるこの女の人にまたがって裸でおちんちんいじってたくせに頭おかしいんじゃないの?」


「だ、だか、だから、それはエアギターだって小五んときから言ってんだろ? ロックの魂を俺に降ろす儀式だっつぅの!」


 繰り返される罵り合いに篠塚と高城は怒ればいいのか笑えばいいのかわからずしばらく二人を見ることしかできなかった。


 ☆☆★



「あたし謝らないからね。智人がいうこと聞かないのが悪いんでしょ? お二人とも気にしなくていいですよ。智人が泣き虫なだけですから。昔っから、そう!」


 千尋は拘束を解かれ智人のとなりでベッドに腰かけさせられていた。篠塚はデスクに腰を起き、高城はイスに腰掛けていた。智人の鼻を啜る音が、篠塚の咳払いが、時折、部屋に響く。


 高城は耳元で囁く。


「ちょっと二人で話せませんか?」


 連れだって二人は智人の部屋を出た。


「篠塚さん、どうします? これじゃなにか智人君がいじめられてるみたいに見えますけどタオルで隠してましたけどあそこが膨らんでるみたいだし、むしろ楽しんでるじゃないでしょうか? そういうのが好きな男の人もいるって何かで読みましたし、それにあの千尋ちゃんが見せてくれた動画」


 千尋が切り札とばかりに二人に見せたスマホの中の動画。小学五年生の頃からの智人の自慰行為が多数記録されていた。見られていることに気がつきぶち切れるところまでさっき目撃した様子と一緒だった。


『この人、そんなとこばっかり見てんの? っていうか、今そんな話ししてる場合じゃないでしょ? あれ?でも何話しに来たんだっけ?』


 驚きはしたが篠塚は気を取り直して答える。


「いや、私も何がなんだか・・・・・・とりあえず、話してみるけど」


「あ、じゃなくて、このまま二人にしてあげて、あたしたち部屋に戻りません? 二人の喧嘩に巻き込まれてる感じだし放っておけばよくありません?」


「あ、まあ気持ちはわかるけど」


「っていうか、どうして篠塚さんは智人君の部屋にいたんです?」


「あ、それはね、あたしの部屋、誰かが侵入しやがってさ。彼のところにもくるかと思って捕まえてやろうと思ったのよ。」


「なるほどですね。でも、それ、あの千尋って子にたのめば防犯カメラとか見せてもらえるんじゃありません? っていうかカードキーの部屋に忍び込めるなんてもしかしたらあの子かもしれませんけど」


「まさか」


「でも、あの子、ほんとは何しに来たんでしょうね? 普通。幼なじみでも来なくないですか?」


「え? そーお? あ、そっか。高城さん、智人君の事情知らないんだ? ま、本人に聞けばいいんじゃん?」


「いや、待ってくださいよ、そんなの正直に答えるかわかんないじゃないですか」


「でも、考えてもしょうがないからさ。高城さんは戻っていいよ。あとはあたしが話してくるから」


「あ、でも、あたし、あの梅内って人が待ち伏せしてたんで部屋に戻るのいやなんですよね。できれば、あたしが篠塚さんと同じ部屋で寝たいっていうか」


「そっか。じゃあ、あの子このホテルの関係者らしいし部屋変えてもらえるか頼んでみようか」


「はい」


「で、明日はできることを確実にやっていく、ってことで」


「はい」


 二人は笑顔を見せ合うと再び智人の部屋に入った。よく聞き取れないが声が聞こえてくる。声音から智人が深刻な様子が伝わってくる。声をかけるか戸惑いつつ二人は顔を見合わせてた。高城が唇の前に人差し指を裁てた。篠塚も従うことにした。


「おい、早く帰れよ。篠塚さんをここに泊めなきゃいけなんだよ。いろいろあって」


「え? なんで」


「篠塚さんの部屋に曲者が入ってきたからだよ? っていうか、ここのセキュリティどうなってんだよ?」


「マジで? ちょっと、確認する。あと、別の部屋であいてるところあったからそこに移動してもらうよ」


「大丈夫だよ。俺が守るから」


「エアギターで? っていうか、もっと面白い動画あるから見せちゃおっかな」


「なんだよ、やめろよ、このストーカー」


「ちょ、止めてよ。どこさわってんのよ」


「おまえが胸ポケットなんかにスマホしまうからだろ? 寄越せよ」


 智人は千尋をベッドに押し倒し胸元をまさぐっていた。篠塚との訓練の成果か人と対峙しふれあっている中でも不思議と千尋の様子がよく見えた。千尋うなじの送毛、耳たぶにピアスの穴。千尋の黒いストッキングを薄く伸ばしている太股辺り。身を捩る千尋の頬が桃色なのは化粧のためだけではない。


 勃起した。腹にめり込む一度前で硬直している。所謂「角度は百七十九度」である。


「あ、あたし、高城さんのところに二人で泊まるから。明日もあるからほどほどに。あ、あと武器のリストもメールしとくね」


 篠塚の声に硬直した。心臓を捕まれたように体全体が硬直した。


「こ、こ、これ誤解ですからっ!」


「うん、別に気にしてないって。っていうか、鵜の目鷹の目よりもトンボの目、って教えたでしょ? ひとつのことに集中すてると横や後ろからやられちゃうからね?」


「いや、後ろからヤっちゃうとか、ホンとそういうんじゃなくて」


「まあ、別に二人がそういう関係ならいいって」


「あ、いや、そんなんじゃ」


「あと、生き残っても打ち上げドライブは止めとこうね。車、車検に出してるの忘れちゃってたんだ。あ、あたし、記憶障害再発したかも? 明日になったら君のこと忘れてたらごめんね。それじゃ」


「え、そんなぁ」


 篠塚と高城の姿が消えると智人は見張るにくってかかった。


「さっきのあれ、何だったんだよっ? つーか、おまえ絶対気がついてただろ? おいっ。くっそ訓練したのになんでおまえのこと気づけなかったのかぁ、くそ」


「やーめーて、大きな声を出さないでー。他のお客様にご迷惑かけないでよね。じゃ、エアギターで孤独な智人リサイタル、どうぞ」


 千尋はその言葉を置きみやげにドアを閉じた。一人薄暗い部屋に取り残された智人はそのあとめちゃくちゃ筋トレした。


 ☆☆★


 朝日がカーテンの隙間から差し込んでいる。梅雨の貧しい日差しが外気の肌寒さとうっとうしい湿り気を想像させて気を滅入らせる。タオルケットを被り腕だけ伸ばしてエアコンのリモコンを探した。見つからない。


『考えてみればテント暮らししてる頃はエアコンもベッドもないのが当たり前だったんだよな…… 家にいた頃は自分でエアコンの操作をすることなんかなかった。誰かがやってくれてたんだな。そのときそのときで当たり前になっちゃうもんなんだな』


「よっ、と」


 一声発し、勢いをつけてタオルケットを足で蹴り飛ばす。ベッドから飛び降り弾き飛ばすようにカーテンを開く。勢いよくTシャツを脱いだ。トランクスを履いていないことに気が付く。朝勃ち、半端ない。


 昨晩は高城も騙されて決闘代理人をやるのかもしれないという疑念が浮かび、解決方法を考えるうちに寝つけなくなった。 そのうちに高城に慕われるという空想が浮かび始めた。気が付くと股間を左手で握っていた。自慰にふけりたくなる。 高城と篠塚を想う。手が動き出す。寺井を頭に浮かべる。手の動きは止まり、寺井が今頃何をしているか想像した。


 だがどうしても拓也と寺井の性交の場面が頭に浮かぶ。寺井の笑顔、泣き顔、そして夏服を着た寺井の胸元や背中、脇が目に入ると必死で視線を外していたことを思い出す。そして、まなじりに涙の滴を感じている内に眠りに落ちた。


 智人は昨夜の寝入りばなことを思い出すと頭を軽く降り視線を落とした。床に落ちたエアコンのリモコンが目に付く。拾いあげ除湿を始めてから浴室にはいりシャワーを浴びた。シャワーをおえるとTシャツとサイクル用パンツを履きタオルで頭を巻いた。ベッドメイキングを行い、荷物を全てバックパックにまとめる。ベッドに腰かけ来るべきノックを待った。


 決闘代理人になることに実感を持てぬまま改めて資料に目を通しているうちに理性的なノックの音が響いた。ドアを開けると白衣を着た医者と制服を着た刑務官が立っている。二人とも三十代半ばと思われる女だった。刑務官は長い黒髪を首の後ろで束ねていた。両手を背中の後ろに廻している。医者は首のあたりで切りそろえられた髪を耳にかけていた。白衣のポケットに両手を入れて髪を耳にかけていない方にわずかに首を傾げていた。


 女たちは事務的だった。


 女医の指示通りにTシャツを脱ぎ、ベッドの端に座ると、胸、腹、背に聴診器をあてがわれた。瞼袋を指で押し下げられる。舌を出せと言われる。出した舌はガーゼで包まれゆっくりと引っ張られる。


「目を閉じて。『えー』と言い続けてください」


 言われたとおりにする。口の端から唾が溢れてきても続けさせられた。そのうち咳き込むと舌は解放された。咳き込み終わると同時に言われる。


「全裸になってベッドに横たわってください。膝を抱えて丸まって」


「え? 全部脱ぐんですか?」


 尋ねると女医は無表情に言った。


「はい。全部です」


 刑務官の方を見るとバックパックの中身を全て取出し並べていた。視線に気が付いたのかこちらを振り向き刑務官は言った。無表情だった。


「体の中で何か隠せそうなところは全て見させてもらいます。女性はもっと恥ずかしい想いをするんですよ?」


 刑務官に頷いて見せると黙って服を脱ぐ。脱いでいる最中に後ろから声をかけられた。


「人に包皮を剥かれたくなかったら自分で剥いておいてください」


 言われる前に剥いていた。ただ勃起しないことを祈りながらベッドに横たわる。肛門に触れる冷たい何か。勃起した。女たちの顔を窺った。女医も刑務官も特に反応しない。間抜けな笑顔を引っ込めた。


 医者と刑務官が部屋を出て行くと荷物を持って食堂に向かった。食堂に入ると高城と篠塚が向き合って座っているのが目に入った。他の客が来るには早い時間で他の決闘代理人は身体検査を受けている。食堂に二人きりだった。配布される弁当を取りに行きながら二人の様子を窺う。


 高城は砂色のポンチョ姿で篠塚はいつものセパレートのスポーツウェアではなく凛とした袴姿であった。二人は食事よりも会話を優先しているように見えた。目の前の食事からは湯気が立っているがまだ手をつけられていない。支給される弁当ではなく別料金を支払わないと食べられないものだった。


 カウンターに並んでいる弁当を手に取ると二人に会釈する。高城の隣に座った。二人は会話を再び始めた。


「ねえ、智人くんよく眠れた?」


「まあ、お二人は?」


「あれからすぐに寝れたよ。でも、よく眠れてないでしょ? そろそろ移動するけど、バスの中で少しでも寝ておきなね?」


「はい」


「ね? いざってときに護ってあげる、なんて正直言えないからさ。最後は自分で生き残るしかないんだからね。高城さんも」


「はい。ありがとうございます」


 三人の間に沈黙が流れた。智人は空気を変えるつもりだった。


「ところで二人ともなんでメシ食ってないんですか?」


「高城さん、教えてあげたら?」


 高城の瞳を見つめた。


「あのね。わたししばらく人とゴハンたべてなくってね」


「はい」


「これが最期のゴハンかもって思ったら誰かと一緒に食べたくなっちゃって」


「そう・・・・・・・ですか?」


 篠塚が割り込んだ。


「そ。だから待ってたんだよ。君を」


「え? まじで?」


「うん。もちろん。篠塚さんも付き合ってくれたんですよ?」


「うん、こういうことって結構大事だからさ」


 言葉が出なかった。横腹をつつかれる。横を見ると高城が微笑んでいた。


「これあげるね」


 弁当の上に唐揚げが乗せられた。


「ありがとうございます」


 弁当の横に缶コーヒーが添えらえた。


「あとで眠気覚ましに」


 目頭が熱い。下唇を噛んだ。言葉を弾き飛ばした。


「か、か、か帰ってきたら三人で食事に行きましょう。俺がおごります」


 三人で頷き合った。視界が滲んでいる。腕で瞼をこすって弁当を頬張る。箸を持つ手が右手であることにきがついた。構わず食事を続けた。少しでも二人とわかりあうことに力を注いだ。


 そこへ、腰と尻の曲線が優雅に露わすタイとミニのスーツ姿で髪をなびかせた熟れた女が情報端末を胸元に携えやってきた。女は智人の脇で片膝をつくように屈み込むと、丁寧かつ事務的な態度で名を告げた。決闘を滞りなく進行させるための管理官であった。


「原告側の決闘代理人に変更がありました。予定の代理人一名が急死のため他の代理人が参加します。昨日プールで泳いでいたときに心臓麻痺だったそうです。決闘申請者の森本氏には、こちらから一名代理人を減じて数を合わせるか原告側に補欠の代理人を加入させ人数を合わせるかが選択でき、森本氏は先方に補欠の参加を認めることを選択されました」


 女の丁寧でありながら話を遮らせない迫力に押され高城はただうなずくしかなかった。篠塚は高城と智人の様子を見て取り場の空気を和ませようと言った。


「まあ、ここで君たちのうちどっちかだけが帰されるよりはよかったんじゃない? どっちになっても相手のことが心配でしょ? それに生意気なあたしが帰されたかも知れないし」


「そっか。あたし、ちょっと考えちゃいました。急病なら帰れたのかって」


 高城の言葉に智人は答えた。


「すごいな。俺なんてそんなこと考えつきもしなかった。ただ、」


「ただ、なんなの? ぼーっとしてたけど」


「あ、いや、ただ、プールで泳いでいた人は何泳ぎだったんだろうって」


「え? 興味持つとこ、そこ?」


「ええ、まあ、なんとなく」


 嘘だった。ただ、若い篠塚や高城のような弾力を感じさせる肉体ではなく、少し弛緩した、それでいて柔肌が濃縮されたような熟した女管理官の開襟のブラウスから覗く白い胸元をチラ見しながら、揺れる谷間を全裸の全力バタフライで波立たせる妄想に耽っていただけだった。


 女は眼鏡の位置を直すと告げた。


「急病とは申しましたが、医師の診断も受けてます。お腹や頭が痛いというレベルではありませんし、まして生理休暇なんてのも決闘代理人にはありません」


 和んだ空気が引き締まる。


「では、頭に叩き込んでくださいね。」


 そして女は補欠の女の資料として情報端末に映る画像を見せた。


「うそだろ?・・・・・・」


 三人が見せられた情報端末に映っているのは、髪を艶やかにまっすぐに固めて、意志の力で目尻を下げて、口角をあげて、自棄に白い歯を唇の隙間からこぼす不自然だが求めに応じる笑顔は、智人が焦がれて、自慰で汚すことさえ自戒している寺井紗織の作り笑顔であった。

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