負け犬は赤と白を胸に秘め青く静かに遠吠える

@yasuokouji

第1話

 高級リゾートホテルの最上階のスウィートルーム。暑い日差しが差し込み始めた室内。あえてエアコンは止められ窓が全開にされていた。吹き抜ける風には磯の香りが混じっている。


 人種も年齢も多様な美しい女たちが一糸まとわぬ姿の者たちが気だるげにそこかしこで体を横たえ、燃え立つ炎のような股ぐらの草むらから濃密な香りを漂わせている。


 草むらは艶めく潤いを携え、それが命の源であることを誇るように数本から数十本のいくつかの束となりその先からすでに乳白色の滴を落としているものもある。


 女たちは年齢も体型も様々で、これから始まる営みに期待で胸を膨らませる若葉のような娘や自らのうちに沸き起こる情動に身を任せることに衒いも躊躇いも捨てた熟し始めた女。跳ねるように動き、秘密を隠すように俯き微笑む少女たちがいる。


 そして目線をキングサイズのベッドで寝ころぶ己の股間に移す。


 口唇で男根に愛撫を捧げる二人の美少女の髪をその手のひらで撫で、時に指で交ぜ、懸命な動きと漏れ聞こえる湿度の高い舌と唇が奏でる欲望を音に訳してみたような呼吸音。へその下あたりを這う熱い吐息。何かを伝えるように確かめるように折を見て見上げられる眼(まなこ)。

 

 答えるように脈打つ男根。


 放出まであと刹那、そのとき我に返った。


 朝田智人(あさだちいと)は目を開ける。卒業式は滞りなく進行している。。彼は高校三年生。たったいま、自分の卒業式に卒業生として参加中であった。彼は校長や来賓の退屈な挨拶の間に暇つぶしにエロい妄想をしていたのだった。


 危うく妄想とズボンのポケットに突っ込んだ手による刺激で卒業式の合間に射精するとことだった。地方の高校の薄ら寒い体育館でイカの香りの異臭騒ぎを巻き起こすのはかろうじて免れた。辺りを見渡すと他の者たちは厳粛な面持ちで話を聞くか目や鼻を交互にハンカチで押さえている。


『みんな、受験に失敗した負け犬の俺が自転車で日本一周するって知ったらどんな顔するんだろう?』


 卒業後の智人の進路は決まっていない。いわゆる浪人生だ。


 智人は十歳の時に、地域の権力者として権勢をふるい、地元選出の国会議員さえも平伏させる力を持つ朝田家に跡取りとして引き取られた。智人は朝田家の当主、朝田榮太郎が遊びとして抱いていた女の一人に産ませた子であり、雀の涙ほどの手切れ金で捨てた子でもあった。しかし、跡を継ぐはずだった息子が家を飛び出してしまったため、智人に養子の話が舞い込んだ。


 実母からその話を聞かされたときに智人は衝撃を受けた。実母は明るい声音で智人にとっていい話であると語った。


「お母さんのことはもう忘れて向こうでいろいろやらせてもらいなさいよ。せっかく金持ちの家にもらわれるんだから」


「やだよ。忘れられるわけないもん」


「大丈夫。あんた男だからね。彼女ができれば忘れるよ。あたしのことなんて」


「そんなことない」


「あとさあ、ごめんね。あたしがバカで苦労したからあんたには智恵を使って上に立ってほしかっただけなんだけどさ。読み方もなんか外国語で最強って意味らしいし。あたしなりにいい名前つけれたって思ってたんだけど」


「え?」


「まあ、いつか分かる日が来るかも知れないけど恨むんならあの人を恨みな」


「え?」


 母はそう言うとかみ殺していた笑いを解放して笑った。その笑みは智人が見たことがない笑みであった。母は感情表現が豊かだった。いつも怒りと悲しみばかりであったが。その母が腹を抱えて笑っている。母にとってこれはいいことであると智人は考えた。そして感情を押し殺し、作り笑顔を作った。慣れたものだった。


 朝田家に引き取られてからしばらくし、生活にも慣れたころに智人は衝動的にかつての生家に駆けだした。たどり着いた公営の集合住宅の智人の生家には見知らぬ他人が住んでいた。母は連絡先を教えてくれていなかったことに初めて思い至った。帰ればいつでも迎えてくれる、そう信じ込んでいた。


 そして、智人はサッカーチームに入れさせられたが元来器用な方ではなく争いを好まぬ性質もあって上達せずにチームメイトから笑われることも多かった。それを知った父はサッカーを辞めさせ、智人に小鳥の世話を命じた。


 智人が小鳥をかわいがり話しかけるようになったある日、父の命により使用人たちに小鳥とともに座敷牢に閉じこめられた。そして告げられた。小鳥を殺すか自分が捨てられるか選べ、と。それまで食事も与えられず手洗いは中のおまるにしろと命じられた。


 智人は寝ずに考えた。翌朝、何事もなかったかのように活動を行っている使用人たちを座敷牢から見て心が決まった。慎重に鳥かごから小鳥を取り出すと座敷牢の柵の隙間から放った。小鳥がいないことに気がついた使用人に父の前に連れて行かれた。


「捨てられることを選びよったな。なぜだ?」


「わかりません。ただ、小鳥を殺してまでここにいたいとは思いません」


「なるほど。珍しいな。まあよい。聞け。下々の者とは小鳥のようなものだ。餌が足りないと鳴き、餌を与えても鳴く。籠を開ければ外へ逃げる。餌を与えられた恩も忘れ、その先にどのような脅威が己に降りかかるかも、己が捨てた者にどのような脅威が降りかかるかも考えずにな。いいか、我が家督を継ぐのなら、飼い犬にも猟犬にも番犬にもなるな。支配者は孤高の狼たれ。忘れるな」


「はい」


 しばらくして、玄関の靴箱の上に剥製が飾られた。どこからどう見てもあのとき放してやった小鳥だった。


 それから智人は実力で国内の最高学府に入学することを義務づけられる。編入させられた大学の付属小学校で努力を続けた。しかし、孤独を埋めるために物語や空想の世界に入り浸ることに心を囚われがちになり、学業も運動も身につかなかった。高校も卒業できたのは朝田家の息子に私学の学校側が気を使ったからである。


 希望は潰えていた。


 受験の結果を知った父母の言葉が思い起こされる。父は静かにそれでいて断固とした口調で「代わりを捜す。負け犬の面倒は見ない」と言い、母からは「知ってるかしら? あなたみたいなのを海外(むこう)じゃ負け犬(ルーザー)と呼ぶのよ。6K仕事でもなさい。お似合いよ」と智人の顔を見ることもなくそのような言葉を浴びせた。


 智人には親というものは子供を無条件で愛するもの、という思いこみがあった。少なくとも父とは血がつながっているという事実から、両親は忙しいから相手にしてくれないだけで、本当は愛されているのでは? という期待があった。だが確信した。自分は両親から愛されていない。


 純粋に朝田家の跡継ぎ候補が自分しかいないから養育されていただけだ、と。血筋によって人を支配するというのは歴史の教科書ではよく見かける話であった。そして、別腹の兄弟が多数いてもおかしくない。


 成長に伴い性欲も生まれていくなかで自分の生き方を考えるようになった。たそれでも結論は出せない。鬱憤が溜まる。使用人や家庭教師の目があるため性欲を刺激する媒体を目にすることは叶わず、結果として智人は妄想をたくましくした。智人のエロ妄想にはそのような男にとっての悲劇から生まれているのである。


 しかし、智人がどのような状況であってもエロ妄想に入り込むことができ隙さえあればいつでもどこでも射精までできてしまう、という事実には対して「いや、気持ち悪い、このむっつりスケベのど変態!」というような、うら若き乙女たちが素直な感想を持つのもまた自然なことではある。


 また、智人の母が言う6K仕事とはキツイ、キケン、キタナイ、キル、キラレル、キカクルウの頭文字のKを取って揶揄される仕事である。智人のいるこの令和の時代の日本では決闘代理人という仕事が存在していた。


 国民同士に争いが生じた場合、通常は裁判で決着が着けられる。だが、時間と費用がかかり、また感情的ないさかいもある。そこで両者の合意があれば決闘できることになった。法律の範囲内ではあるが決闘で勝利、つまり敵を殺したほうの主張が通る。また、刑事裁判としても原告、被告の同意と裁判所の許可があれば決闘は行われる。


 この決闘では法律で一般人が使用を禁じられているものでなければ武器として使用することが認められており、勝利条件や決闘場、参加人数などあらゆる要素を当事者同士が決めるため、純粋に殺人術に秀でた物が勝利するようなものではなく、またそのことが持たざる者たちへ微かな希望を与えることになった。


 また、立会人として指名された国民、定められた以上に納税しているものはその様子を画面を通してリアルタイムで見ることができた。そして、立会人が納税した金額は周り回って立会人のところに還元された。実際には上級国民と呼ばれる階層の者たちや、特別に許可を得た外国人の娯楽として機能していることは周知の事実であった。


『敗戦国の末路』


 そう自嘲する者も、そう揶揄する者もいた。その多くは紛争の当事者に以来され、決闘に赴く者たちであった。決闘代理人である。決闘代理人という職業はやむに止まれず命を懸けてでも高額の報酬を必要とする者たちが最期に行き着く仕事でもあった。

 

☆★☆

 

 卒業式を終えて教室に戻ると春休みを控えた教室は開放感と熱気で満たされていた。競うように大きな声で春休みの予定を口々に話し、何かにつけてスマートホンで写真を撮りあう様子が見て取れた。しかし最期のホームルームが終わり記念撮影が終わると晴れやかに、あっけらかんと生徒たちは教室を後にした。


「打ち上げは駅前の店で6時からなー」「馴れてない奴は牛乳飲んでから来いよー」などの言葉の残響が響く教室の中、智人はベランダからでスマートホン越しに空を眺めていた。その後ろ姿に声をかける女子生徒。制服を着崩して、髪を染め、軽く化粧をしている。智人の肩に手を載せると言った。


「ちょっと、智人。春休みどうすんの?」


「うわっ」


 楓太は声を上げると振り向き女子生徒の顔を見上げて言った。


「なんだよ? 千尋(ちひろ)か。ビビらせんなよ」


「は? ほんと、あんた、ヘタレだね」


 智人は思い出していた。かつて千尋の家のプールサイドで起きたことを。千尋に背中かから抱きつかれたことがあった。驚いてジタバタともがいているうちに二人ともプールに落ちた。後で千尋に聞くとちょっと驚かそうと背中を押しただけだ、智人が暴れたから、落ちないようにしがみついた、そう言って譲らない。この件はなにか二人が揉める度に立ち上る話題であった。


 確実なことは智人は決して忘れていないということである。そのときの背中に当たる千尋の胸の感触を。そして、制服の夏服姿で濡れそぼった胸の膨らみとその先端の突起が透けていたことを。もみあっているうちにブラがずれていたのだった。髪から水を滴らせながらも「あはは」とあっけらかんと無邪気に笑って水しぶきをかけてくる千尋がまぶしく見えていたことを思い出す。


 後日、千尋にそんなことをした理由をたずねたことがあった。「わかんないよ、なんとなくそうしたくなっただけだし」という反応で、智人は幼なじみでありよく知っていたつもりの千尋がなんだか遠いところに言ってしまったような一抹の寂しさを覚えた物だった。

 

 そして、智人は記憶から目の前の現実に意識を戻す。ズボンの前ポケットに手を入れて、絶賛思い出し勃起中の息子の進むべき未来を調整しつつ言った。


「で? どうしたんだよ? そんなにじっと俺のこと見つめて」


「ねえ?」


「なんだよ?」


「今、おちんちん、大きくなってるでしょ」


「は? なってねえし!」


「別に素直に言えばいいじゃん。智人が独りで変なことしてるの、何度も見てるんだし」


「ねえし! あれはエアギターだって何度も言ってんだろ?」


「パンツ脱いでしないでしょ?」


「するって! 男のデリケートな部分は蒸れやすいんだからな!」


「はいはい」

 

 親同士が親交があったため、智人が朝田家に引き取られてからの馴染みである千尋は智人が唯一心を許せる相手であった。千尋は智人の家をよく訪れた。そして我が家のように振る舞い、智人の部屋をノックもせず開けた結果、自慰をしている智人を発見することがたびたびあった。


 自慰は妄想派の智人、妄想世界に入り込むと周囲への警戒を忘れてしまう。最初はお互いに驚愕していたが、繰り返されるうちにお互いに馴れてしまった。智人の自慰を目撃することは千尋の日常の出来事としてとけ込んでいった。


 千尋はその性欲の強さにいささか身を引く想いはするものの、持ち前の世話焼きの気質と弟二人も似たようなことをしている気配を感じており、また両親の仲むつまじい様子を頻繁に目にしていたことから男にとって自然なことであると受け入れていた。

 

 千尋は智人の顔を覗き込む


「そんなことより、少しは将来のこと考えた? 予備校だってまだ手続きしてないんでしょ?」


 智人は答えずに目を逸らした。千尋は周囲を見渡すと素早くしゃがみ智人の顔を覗き込む。顔を近づけ小声で尋ねてきた。


「ねえ、知ってる?」


「何を?」


「拓也、外国の大学に行くんだって! すごくね?」


「好きなことやってるだけだろ?」


「それがすごいんじゃん。だって、智人の好きなことって変なことするだけでしょ?」


「ちげぇし。写真とかゲームとか読書とか映画とか音楽とかいっぱいあるし」


「うん、知ってる。今まであんたが撮ってくれた写真大切にしてるし。 あたし、自分があんな表情するなんて全然知らなかったし」


「そっか。まあ、俺が学校で見てるのお前ぐらいだしな」


「あ、見取れてたぁ?」


「ちっげぇよ」


 千尋は智人の人間関係を知っている。自分くらいしか話し相手がいないことも知っている。


「知ってた。そんなこと。でさぁ、あたし、結局親の言うとおり地元の女子大行くじゃない?」


「行くじゃない? って。まあ、あいつと比べたってしょうがないだろ? どうせ、世の中不公平なんだしさ」


「そうかもしんないけどさ。っていうか、ぶっちゃけうちらは恵まれてるほうだよ 。かなりね」


「わかってるよ、そんなこと」


「でも、やっぱ拓也はすごいよね。怖いくらい。だって外国だよ? 寺井ちゃんも連れて行くらしいよ?」

 

 智人は絶句した。一人になりたくなった。千尋を追い返すことにした。拓也と寺井は朝田家に引き取られる前に同じ集合住宅で過ごした幼なじみである。そして寺井は智人が中当時から恋い焦がれた少女だった。


 拓也と寺井は二人そろって高校から智人と同じ高校に入学してきた。智人はそのことを知り心踊らせたが二人はすでに交際していた。またアルバイトもしなくてはならない二人とは立場が違うことを思い知らされただけだった。それから二人と疎遠になり寺井への想いは募るばかりだった。


「っつーかさ、いい加減、みんなのところに戻れよ。お前と一緒にいるところをカーストトップの方々に見られたら大変だ」


「なに? カーストって」


 その声が記憶を呼び覚ます。


 編入当初、歓迎会と称して小学生ながらにカラオケに行くというクラスメイトたちについて行った。歌い疲れ歌う者がいなくなったころスマートホンで撮影した歌う姿の動画を見せた者がいた。各々スマートホンの画面を披露し始める。智人が歌う姿を再生した者がいた。


『ほんとお前の音痴だな? よくカラオケこれたな?』


『え?』

 

 空気が変わったことを感じた。みんなが自分を見ている。その顔には嫌らしい笑顔が張り付いていた。


『俺、こいつがいた小学校の奴と塾が一緒なんだけどさ。こいつ音痴過ぎて合唱コンクールで歌うのみんなから禁じられてたんだぜ』

 

 事実だった。


『朝田家に引き取られたからって調子に乗るんじゃねえよ。貧乏人が。俺ら場所代えるからここの支払いよろしくな。朝田家は金持ちなんだからな。つーか、お前の名前、何だよ? 朝田智人(あさだちにん)って。どんだけエロいんだよ?』 

 

 クスクスと笑う女子生徒たちの顔。高校での智人の階級が定められた瞬間だった。朝田家に持たされていたクレジットカードで払った。その結果、支払先について母から問いつめられ事情を説明した。


 朝田家がどのように手を回したのか知らないが、カラオケに行ったメンツから金を返された。それ以降、千尋以外に智人に話しかける者は学校からいなくなった。


 頭を振り回想を断ち切り千尋に答える。


「別に知らなくて済む言葉は知らなくていいんだよ」


「ま、いいけどさ。『俺は孤高だ』とか言ってるけどただのぼっちだからね。あんた」


「はいはい、陽キャはとっとと打ち上げにいってヤリチン大学生のサークルみたいにコールしながらはしゃいで飲んで捕まれ」


「ばか、飲まないよ、うちの部は。それにあんた、あんなのに憧れてるの?」


「い、いや? べ、別に憧れてなんかないからな」


 憧れている。


「わかったわかった。そんなことよりあんたさ、春休み、うちにバイトにきなよ。ホテルでもレストランでも雇ってあげるから。」


「なんでだよ?」


「ま、息抜きっていうかさ。どうせ家にいたって勉強漬けにされるんでしょ? うちでバイトして気晴らししたら?」 


 微かに間があった。千尋は智人の顔を覗き込む。


「いま、ビミョーに目ェそらしたでしょ?」


「別に」


「ほら、じゃあ、あたし面接官やってあげるから、君、バイト希望者ってことでここで面接の練習始めよっか」


「なんのコントが始まるんだよ? やらねえっての」


「はいはい。わかったから。ちょっと笑ってみ」


「なんでだよ?」


「どこに行くにしてもこれから新しい出会いがあるんだからさ。まずは笑顔。コミニュケーションの基本でしょ? ってういか、他の子たち、あんたの笑顔見たことないって言ってるんだかんね」


「別に必要ないなら笑わないっての。つーか、孤高なの、俺は」


「そーお? あたしといるとき笑うじゃん。フツーに」


「そーだっけ」


「いいから、笑ってみ。人生、作り笑顔が必要なときもあるんだよ?」


「わかったっての」


 智人は笑って見せた。


「・・・・・・」


 千尋は眉間にしわを寄せ腕組みをして固まった。

 

「なんか言えよっ」


「なんか、ごめん・・・・・・」


「謝るくらいならやらせんなっての」

 

「ごめんごめん。それよりあんたさあ」


「なんだよ?」


「春休みになにかやらかすつもりじゃないでしょうね?」


「やらかすって何を?」


「ほら、テロ的なこと。世間をあっと言わせてやるぜって」


「そんなわけないだろ? たかが受験に失敗したくらいで」


「そっか。なら、いいんだけどさ」


「ああ、もう行けよ。部活の打ち上げとかあるんだろ?」


「うん。じゃ帰る前に写真撮ろ? どうせ誰とも撮ってないんでしょ?」


「そうだけど一言多いっての」


 千尋は黒板に桃色のチョークでハートマークを書いた。他の落書きにも重なるのも気にせず上から下まで使って大きく書いた。


「いいのかよ? 他の奴の消えてるじゃん」


「どうせ、みんなもうここには来ないよ」


「そうだけどさ」


「それにあんた撮ってるんでしょ。黒板」


「ま、そうだけど」


「これをバックに二人で写真撮ろうよ。で、待ち受けにしなよ。お守り代わりに」


「なんのお守りだよ?」


「ほら、いろいろ出会いがあるじゃん。どうせ、智人知り合うのなんて男子なんだからさ。自慢できるし格上扱いされるでしょ? あたしみたいな娘と仲がいいって」


「なるほどねー。お前、頭いいな」


「そういうとこは素直なのになー、あ、素直だからかー」


「なんだよ? 素直で悪いかよ」


「別に。それより写真撮っちゃおうよ」


「ああ」


 それから智人愛用の本格的なカメラで千尋を撮り、お互いのスマートホンで顔を寄せ合い自撮り撮影をした。千尋は智人に黒板になにか書くように勧めた。生徒たちが想い想いに言葉を書き込んだ黒板。智人は落書きと落書きの隙間をみつけるとチョークの勢いにまかせて書きなぐった。


「fuck!」


ただ、他の落書きに重ならないように配慮した結果、手のひらで隠せるほどの大きさだった。


 その日の夜。千尋は自宅に帰って床に入ってからもしばらく迷ったが、スマートホンの画面いっぱいに撮影していた「fuck!」の画像データにメッセージを付けて智人に送信した。


 『いつかおじさんたちにもこれ見せたら?』


 智人からは既読スルーされた。


☆★☆


 智人は自転車を漕いでいた。雲が夜空を覆い視界が効かないとはいえ目も慣れた。荷台に大きなバックパックを括(くく)りつけたマウンテンバイクを小さなライトを頼りにふらふらと進ませていた。他に光はない。車のライトも民家の明かりも街灯ですら見当たらない。道の脇に拡がる田畑も夜更けの今は黒く染まって底知れない。


 背後に何かの気配がまとわりつく。気のせいだと呟いたところで廻すペダルは止められない。着ている白いTシャツは夕方に着替えたものだと言うのに襟首は汗の重みで弛(たる)んでいる。薄い背中はペダルを踏むたび右に左に揺れた。

 

 自転車で全国走破の旅に出たのは夜明けのこと。日が明け通りすがりの床屋に立ち寄り伸びた髪を短髪に刈りあげた。鏡に映る己の姿にこれから始める冒険に武者震いを一つ。出会いと別れを繰り返し一人前の男になって寺井の前に現れる未来の自分を夢想する。

 

 節約と冒険心から野宿をしようと決めた。テントを張ろうとした公園で警察官が寄って来る。相手をするのが面倒で荷物をまとめて移動した。人気(ひとけ)のない空き地を見つけて中に入ってはみたものの、いつの間にやら野犬の群れに囲まれた。危険を感じて犬を相手に尻尾を巻いてこそこそゆっくり逃げ出した。

 

 やがて夜が更け周りを見れば暗闇だけがそこにある。いつの間にか人里離を離れていた。両側を高い気が覆う車がすれ違うのがやっとのような道路を走っている。薄気味悪くて止まることも憚(はばか)れた。


 あてもなくペダルを漕いでいる。すると遥か先に小さく光を放つ建物が見えた。焦(じ)れる想いでペダルを漕ぐと道をふさいでいる物に気が付いた。カラーコーンが数個おかれその間をつなぐようにテープが貼られている。そのテープには立ち入り危険と複数の言語で書かれていた。


『別に工事なんてやってないじゃん。っていうか、ここから引き返す方が怖いっての』

 

 自転車を担ぎまたぐようにテープを越えた。しばらく進むと光の正体が判明した。ごくありふれたコンビニエンスストアだった。

 

 コンビ二の駐車場に入る手前で様子を窺う。広い駐車場に圧倒された。体育館を思わせる広さと高い柱に取りつけられた眩しいライト。どちらも見たのは初めてだった。一つ選択を迫られた。どこにテントを張るか考える。自然とコンビ二の側面が候補となった。左右の側面を見比べる。ライトに照らされ明るい側(がわ)と陰となり見通しが効かない側(がわ)。明るい側には物置と屋根付きの駐輪場と裏口と思しきドアが見える。

 

 店員に見つからないことを祈りながら駐車場を大きく回る。選んだのは陰の方。邪魔をされずに寝たかった。陰の中の奥まで入り込み壁に沿わせて敷いたマットの上に寝袋を拡げた。倒れるように横になる。焦(こ)がれた眠りが訪れかけた。

 

 邪魔された。重低音のリズムとまくしたてられる言葉の大音量。近づくそれは騒音だった。寝袋から這い出て陰から覗く。騒音の正体が目に付いた。大きな四輪駆動の自動車が駐車場に入ってくる。コンビニの入口前に横づけされた。大きなフロントバンパーの迫力に目を奪われる。やがて四人の男たちが降りてきた。

 

 四人はスーツ姿の体格のいい者たちでその手にはむき身の日本刀やバットが握られている。立ち止まり顔を巡らし周囲の様子を窺う者もいた。思わず影に隠れて口を抑える。音楽が止められた。静寂が訪れる。うるさい程に胸の鼓動が高なった。男たちの姿を思い返す。揃いも揃って背が高く体格がよかった。屈強な筋骨隆々の者たち。 

 

 対峙するだけで身も竦むような者が日本刀やバットを手にぶら下げている。しかも一人は警戒していることも明らかに周囲を見渡していた。戦うことも逃げ切ることもできないであろうことは容易に想像できる。そしてなにより体力が限界に近かった。尻も痛み、腿は張り、腹も空いている。聞き耳をたて彼らが立ち去るのを祈るしかできなかった。


 やがて警察官の姿が頭に浮かぶ。這うようにバックパックに取りつきスマートホンを取出した。握りしめ画面の緊急連絡という文字に指をあてる。落ち着こうと深呼吸をしていると聞こえてきた。

 

 コンビ二の自動ドアが開かれるメロディが響いた。呪いが解けたかのように智人の体は素早く動き始めた。恐怖が力を振り絞らせた。寝袋とマットを丸めバックパックに適当に放り込む。自転車に跨ぎコンビ二の影から様子を窺った。


 女の姿が目に入る。コンビ二の入口よりも向こう側の壁際、駐車場のライトとコンビ二から漏れる照明の間(はざま)で薄暗い場所に女はこちらに背を向けて立っていた。背が高く手足の長い細身の若い女。大学などの卒業式だったのか袴姿に黒髪。ショートカットだからか首を動かす度にうなじが見える。ライトを浴びて輪郭を覗かせている耳、それとあわせてその清潔さと堅さを併せ持つなじの白さに目を引かれる。

 

 髪の輪郭を青白い光がぼやかしていることに気づく。スマートホンの画面を見ていると思い至った。悩ましい問題を突き付けられる。女に声をかけるかかけずに去るか。


 可能性は低いとは思ってはいるがゼロではない。女が襲われたかもしれないという疑念がつきまとう。そしてこの場を去ればそれを確かめる方法は永遠に失われる。気にしなければいいとは思っても気にしてしまう性質(たち)であると強い自覚があった。

 

 危険を伝えようと声をかけてみてもまずは自分自身が怪しまれることが想像された。暴漢とまでは言わないまでも誘いが下手な軽い男と誤解を招くと思われる。そして話を碌に聞いてもらえぬうちに男たちが現れたとしたら。


 揉め事に巻き込まれて怪我や死んでしまうのも、何もできずに女が乱暴される場面に居合わせることも、あの時に声をかけてればと悔やみながら人生を続けることも恐ろしくてたまらなかった。


『クソっ。俺がこんなにヘタレだったなんて!』

 

 考えは閉ざされた円環の中を繰り返し回り続ける。結局、その場にいた。何も決断できなかっただけだった。何かあったら直ちに警察に連絡を取れるようにとスマートホンを手に握りしめ陰から覗き続けた。女はスマートホンを耳に当て何やら会話をしているようだった。

 

 しばらくそうしていると、やがてコンビ二の自動ドアの開閉を報せるメロディが流れた。男たちが現れる。コンビニに持ち込んだ武器の類を脇の下で挟み持ち、両手にはコンビニの袋一杯に詰められた食料と飲み物を持っていた。笑い声を漏らしていたが女の後ろ姿を捉えると誰からともなく頷き合った。

 

 二人が黙って手に持ったコンビニ袋と武器を残りの二人に預けた。預けられた二人は黙って車に乗り込む。運転席と後部座席。車のエンジンが唸り始めた。ハッチバックのドアが開かれる。残りの二人は日本刀を構えじりじりと女との距離を詰めていた。

 

 智人は陰に体を引っ込めると逸る気持ちを抑えて一一〇番に電話をかけた。呼び出し音が続く中、車のナンバー、車種を確認しようとコンビニの陰からそっと顔を覗かせる。ナンバーは外されていた。


 確認するとすばやく闇にその身を潜めた。苛立ちまぎれに爪を噛みながら痛いほどにスマートホンを耳に押し当てる。通話中を伝える信号音が聞こえてきた。スマートホンの画面を目を凝らして見つめる。圏外の表示に気が付いた。

 

 スマートホンを強く握りしめ腕を大きく振った。腕が痛むほど繰り返す。祈る気持ちで改めて画面を見みつめる。変わることなく圏外の文字が目に飛び込む。天を仰いだ。朝田家にいた面々の顔が浮かぶ。『クソババァ! クソオヤジ! こういうときにどうしたらいいかってことぐらい教えておけよ!』声に出さずに罵詈雑言を並べ立てていると何か固い物がアスファルトに落ちた音に気が付いた。


 音の正体を確かめようと顔を出した。男二人が目に入る。倒れていた。手には握りしめたままの日本刀。視線を感じ、恐る恐る目を向ける。血溜まりに転がる生首と目が合った。

 

 尻もちをついて両手で口を抑える。何が起きたか理解できない。現実感がまるでない。耳を突く音で視線が移る。転回している車に気が付いた。急ブレーキの音だと合点がいく。エンジンが吠えタイヤが鳴った。目の前を掠めるように、コンビ二のガラス面に沿って駆けていく。ヘッドライトの先には袴姿の女がいた。

 

 女の右手の日本刀はまだらに赤く光を放ち、片目を隠す黒髪は花を愛でるように頬に散った血を撫でた。そのまま女は眩しそうに眉根辺りに左手を掲げて見せると中指を天に突き立て片目をつぶり舌を見せつけ嗤った。迫りくる車をひらりと躱す。車はそのまま駆け抜け、その先で止まった。


 慌ててコンビ二の影に隠れた。逃げることも助けを呼ぶことも叶わない。ただ震えた。かつて人間の頭であったものを見てしまった。大型の四輪自動車は人間の生首などものともせず踏み越えた。それは水を詰めた風船の破裂を想わせた。周囲に拡がる水しぶきは当然赤い。


 胃袋がせりあがってくる感触。食道を這い上がる熱い空気。口中に拡がる苦味。それらを味あわされ続けていた。吐きたかった。だが胃袋にはなにもなく、音を立てるのは憚れる。


 強い意志を要する深呼吸とペットボトルの水を少量だけ口に含みは静かに吐くことを繰り返していた。水を飲むことは出来なかった。小用を足すことで自分の存在が彼らに知られることを恐れていた。


 情報端末が本来の機能を発揮しない状況で彼に出来ることは、怯え、恨み、また怯え、震え続けることだけだった。


 段々と落ち着ていくるとコンビ二の外壁にもたれかかり足を投げ出していた。舌にこびりつく臭いをどうにかいしようと改めて瞼を閉じペットボトルに口をつける。


 聞こえてきたのは女の声。


「見ぃつけた」


 思わずペットボトルから手を離し、両手で頭を覆った。足を引き寄せ丸くなって転がった。水を飲むことも吐きだすことも目を開けることすらできない。


「そんなに怖がるかなー。なんかあたしが悪いみたいじゃね?」


 精一杯に否定の意味で首を横に振る。女がしゃがみ込む気配があった。膝と肩に手を置かれる。


「怖い? 大丈夫。とりあえず立って。安全な場所(とこ)に連れてくから」


 ゆっくりと頭を覆う腕を外した。女の顔を見上げる。薄暗くて表情は良く見えない。だが女の優しげな声音から言葉が通じる相手であることを確信した。震える声で告げた。


「あ、あの俺、あの、な、何も見てませんから」


 女は咳払いを一つ。そして言った。


 「ま、それはこっちで判断するから。とりあえずお腹を下にして両手を頭に載せて寝転んで」

 

 女の迫力に満ちた声音に気圧され全力で言われた通りにする。顔にライトを当てられた。咳払いが聞こえる。耳を塞ぐように言われ従った。どれくらい時間がたったかわからない。軽く背中を叩かれた。


「ねえ。君、ここがどこだかわかってる?」


「すいません、道に迷ったみたいで」


「そっか。死にたくないなら、指示に従って欲しいんだけどさ。ここじゃ死人に口なしだからね。警察が助けてくれるとか思わない方がいいよ?」


「従います。聞きます。なんでも言うこと聞きます」


「ねえ、ここで今、決闘してるんだけど。道、封鎖されてなかった?」


「すいません、気が付きませんでした」


「そっか。とりあえず自己紹介しとくね。私は篠塚。決闘代理人。君の名前は?」


「朝田です。朝晩の朝に田圃の田です」


「下の名前は?」


「智人(ちいと)です。難しい方の智恵の智に人です」


「へえ、智人(ちいと)君。珍しいね。なんか意味あるの?」


 ちいとは英語でCHEATと書く。一般的には不正行為という意味で使われている。智人は中学生になり趣味の読書中に、ちいとという語彙の本来の使われ方を知った。


「あ、どうでしょう? なんか頭が良くなって欲しいってことらしいですけど・・・・・・」


「ふーん。頭いいんだ。智人君」


「いえ、浪人生です。バカだから大学全部落ちちゃって・・・・・・」


「そっか、大変だね。ま、受験できるだけいいんじゃん? あ、ごめん、もうこっちむいていいよ。あ、飴舐める?」


 智人が立ち上がると篠塚は飴を握らせた。


☆★☆


 篠塚と智人は二人連なって歩いていた。四駆の車に向けてゆっくり動く。戦闘は篠塚。踵の脛まで覆う黒の編み上げブーツのみ。他は全裸だった。智人は黒のバンダナで顔の下半分を覆い篠塚に持たされた日本刀を手に歩く。


 日本刀など持っているだけで恐ろしく、重たい。こんなものを振り回す気になどなれず存在を忘れたかった。自然と目は別の場所に向く。左手のオレンジ色の液体で満たされた野球のボールほどのカラーボールを見つめる。コンビ二や金融機関に設置してある犯罪者に投げ付けてインクで印をつけるためのもの。篠塚の説明は単純だった。


『それを持ってあたしについてきて。あたしが後ろに手を廻したらカラーボールを渡すこと。それから日本刀を置いて全力でできるだけ私から離れて』


 目的の説明はなかった。ただ復唱させられた。篠塚が手の動きに集中しよう、話を聞いたときは素直にそう思っていた。


  だが、どんなに気をつけても勝手に篠塚の尻に視線が吸い寄せられる。


『だめだ、我慢できないっ! 割れ目の奥をもっとみたいっ! ブラックホールに光を当ててこの目でじっくりたっぷり見てみたい。例え吸い込まれたって構わないからこの目できちんと確かめたいっ! 匂いも味もどんなものか知りたくってしょうがないっ!』


靴紐を直すふりをして見上げようかどうか検討を始めているうちに疑問が湧いた。


『巨乳好きとかちっぱい好きとかおっぱい星人の奴らの方が市民権を得ているっていうのに、どうして俺はどうしようもなくお尻派なんだろう? おっぱいも見るチャンスあったのにっ!」


エンジン音が高鳴った。反射で体が止まる。


「ボールっ!」


差し出された手にカラーボールを手渡した。日本刀を置いて全力で駆けだした。篠塚から離れ際後ろを振り返る。現実とは思えない程ゆっくり見えた。篠塚が放ったオレンジ色のカラーボールはヘッドライトを受けてオレンジ色の光を反す。


 日本刀を拾いあげ駆けだす篠塚。車のフロントガラスで破裂するオレンジ色のインク。日本刀を構えて車と対峙する篠塚の体。うっすらと上気して湯気が漂う。桃色に火照る肌。すぐさま車が篠塚の姿を隠す。


「ビッグバン……」


自分が発した言葉。他人事のように聞いた。後に全力で駆け抜けた。足がもつれて転んでしまった。誰かの叫び声を背中で聞いた気がした。轟音と地響き。地震かと思った。頭を守って地面で丸まり瞼を閉じた。

 

 篠塚はコンビ二の壁に激しく突っ込んだ車内を覗き込む。エアバッグはしぼみ、男が瞼を閉じているのを確認できた。智人に駆け寄り頬を両手で持ち上げ目を見つめて告げた。


「まだ終わってないからね」


 楓太の手を引きコンビニの裏手へ周った。囁き声で命じる。


「私、奥で服を着るから。誰か来ないかあっち向いて見張っていて」


「はい」


 智人は同じく囁き声で答えた。返事は意思が込められたものであった。混乱が収まったと見る。コンビ二の影から顔をのぞかせている智人を確認した。置いておいた衣服から人差し指ほどの小型のライトを取出しランタンのように光る設定に切り替えて地面に置いた。背を向けハンカチであらかた返り血を拭う。手早く袴に身を包む。そっと後ろから忍び寄り智人の耳元で囁いた。


「見てたでしょ?」


 体が跳ねた。


「い、い、いえ。見てません」


「別にいいよ。さっきからずっと見られてたんだし。今さら。怒ってないから正直に言って」


「い、いえホントに見ちゃいけないと思ってたんで。さっきだって地面ばっかり見てましたから」


「そう。ちょっと残念。魅力ないかしら。胸も小さいし」


「む、胸は見てないからわかりません。で、でもキ、キレイです。笑顔が素敵でした。それに俺、なぜか子供の頃からブラックホールの中が気になってしょうがなかったんですよね。何があるんだろうって」


「ブラックホール? 宇宙にあるやつ?」


「いや、だから。おっぱいは女の人に育ててもらう赤ちゃんのためにあって、ブラックホールは探索に命を掛ける俺のために存在する。そういうことです」


「なんだかよくわからないけど…… ねえ? 大丈夫? やっぱりさっきの、君にはショック大きかった?」


「大丈夫です。俺のビッグバンが始まった。ただそれだけです」


「あ、そう……」


「そうなんです」


 力強く言われた篠塚は若干身を引きながらも咳払いをして主導権を取り戻す。


「ありがと。とりあえず協力してくれて。 ところで私、臭わない? さっきので汗かいちゃた」


 目を見開く。


『いいんですかっ?』


 口には出さずに時間をかけて鼻から吸って口で吐く。吐く前に口中で舌を廻してみたが味わえない。


「い、いえ別に何も」


「そう? じゃあ背中のペイントも落ちてなかった? 天使の翼の奴」


「はい。落ちてませんでした」


 智人の肩を抱きよせ耳元で囁く。出来るだけ低い声で。


「ほら。やっぱり見てた」


「す、すいません。こ、こ、こんなラッキー逃したら二度と見れないと思って……」


「すごいね。生きるの死ぬのってときに……」


「そ、そう思っちゃったんでどうしようもなかったんです」


「あ、そう。ま、いいわ。でもね」


「は、はい」


「今度ウソついたら殺しちゃうぞ?」


「す、すいません。殺さないで。もう嘘つきませんから」


「反省してるなら許す」

 

 土下座を始めた楓太の頭を撫でながら耳を塞ぐように命じた。ポケットから小型のマイクとイヤホンが一体となった通信機器を取出し装着する。


「そっちの状況教えてください」


 ヘッドセットの声に耳をすます。聞き終えるとマイクに告げて言った。


「生け捕り無理っぽかったら私を待つって話だったじゃないですか?」


 さらに相手の言葉を聞いてから畳みかけた。


「わかりましたっ。じゃあ、死体は駐車場に頃がしておいてくださいっ! 私がなんとかしますんでっ!」

 

 通信を終えるとしゃがみ込んで俯く楓太の肩を軽く叩いた。耳だけではなく瞼もきつく閉じていた。目を開けると微笑みかけた。


「ちょっとタイミング合わせなきゃいけないからその間ちょっと話さない?」


「な、なんですか?」


「とりあえず身分証ある? 免許とか保険証とか」


「どっちも持ってないです」


「そっか。あとで私の上司が詳しく聞くから悪いけどつきあって。何気にまずいことしてるから。君」


「はい」


「悪いけどスマホとかカメラの画像見せて」


「はい」


「最後に写真撮ったのいつ?」


「昼間です」


 楓太はカメラとスマートホンに記録されている映像を再生して見せた。黒板をバックに千尋と並んで撮った写真が写っていた。


「この子は彼女? 可愛いね」


「違います」


「そっか。友達なんだ? 卒業式か。いいな。あたし出られなかったから。でも写真上手いね。好きなの?」


「ええ、まあ」


「なんで?」


「いや、なんとなく」


「なーんで?」


「あ、いや、その、上手く言えないですけど、みんなが気づかないところを気づきたいっていうか」


「ねえ、写真好きな人ってみんなそんな理由で撮ってるの?」


「他の人のことはわかんないですけど。あ、あと、時間を超えて何かを伝えられるっていうか。すいません、上手くは言えないんですけど・・・・・・」


「そっか」

 

 篠塚の脳裏に中学時代の記憶が浮かんだ。クラスメイトの男子と教室に居合わせた。春休みを控えた前日の夕暮れ時、周りには誰もいなかった。何度か話しかけても上の空で彼は熱心に窓を開けて空の写真を撮影していた。思わず問うた。今になって思えば強い言い方だったような気もする。


「なんでそんなに必死なの? 写真で見るより、目の前の現実で見る方がよくね? どんどん変わってっちゃうんだし」


「その一瞬を切り取ってんだよ。誰かに見落とされた瞬間を俺が救ってやってるわけ。今はわかってもらえなくてもいつかどこかの誰かに伝わるかもしれないだろ?」

 

 少年は答えてから照れたように笑った。気が付くと二人は見つめ合っていた。彼の言葉の意味よりも彼の瞳に自分が映ることの方が重要だった。


 篠塚は軽く瞼を閉じ一息はくと言った。


「それじゃ、私、行くから。コンビ二の中に入っちゃって。一人で行けるよね?」

 

 篠塚は車まで戻り運転席の窓から男の様子を観察する。大きな外傷が見られないことや呼吸が安定していることからしばらく放置しても問題ないと判断した。男三人に抱えられた畑野が駐車場に置かれ、男達とともに朝田楓太がコンビ二に入って行くまで待ってから運転席の窓から男に声をかけた。


「ちょっと。死んだ振りバレてるよ。ハンマー隠し持ってるでしょ?」


 男の反応は無い。


「バカじゃん? あんた。この体勢で待ち伏せカマすんなら振るより突けるもん選ばないと」


 ドアを蹴り飛ばす。反応はない。篠塚はポケットからハンカチを取り出すと男の口元を覆った。そこへペットボトルの水をかけ始めた。やがて男は踊るように手足をばたばたと動かし噎せた。


「ふざけんな、ホント6Kの奴らは狂ってやがんな」


 男は濡れたハンカチを投げつけてきた。眉一動かさずそれを交わすと篠塚は男に告げた。


「うちのバカがあんたんとこの雇い主のこと、とっくに殺しちゃってさ。残念だけど終わり。あたしも皆殺ししたかったから続けたいんだけどね。これ以上続けたらコンプラ違反でいろいろまずいから」


「うそつけ。あいつらがやられるわけがねえ。やくざだって俺らには道開けるんだぞ? てめえらみてえな6K仕事しかできねえようやつらとくぐってきた修羅場が違うんだよっ」


 腹が立つ。言ってやる。


「ところで後ろに変わった荷物おいてるけど、なあに? あれ」 


 男は振り向いた。


「うわっ!」

 

 声をあげた。男が見たもの。それは濡れたウェットスーツを思わせた。首を失くした人間の体だった。衝撃で後方に飛ばされ血に塗れていた。呟きが聞こえる。


「な、な、なんだよ? どうなってんだよ?」


「気づかなかった? その死骸、窓から乗り出してたからさ。あたし、首切っちゃった」


 男は何かに気が付いたようにいった。


「あれかっ? あのカラーボールはそのためかっ?」


「かもね」

 

 男たちは智人と違って篠塚が裸であることに気が付いでも冷静だった。女は酒でも薬物でも暴力でもあらゆる手段で抱きたい女を飽きるまで抱いている。生き残っている仲間も決闘の場でわざわざ女を脱がせるほど冷静さを失わないはずだ。そう判断した。


 だから女の後ろにいる仲間を演じている男ごとひき殺してやろうとした。そして突如カラーボールで視界をふさがれた。同乗する仲間が窓から身を乗り出しハンドル操作を指示した。気が付いたら強烈な衝撃に見舞われた。

 

「ところで確認してよ、一応雇い主でしょ? あれ」


 篠塚は駐車場の一角をさす。


「狂ってやがる・・・・・・」


 指さした場所にあるのは小脇に己の首を抱えて正座をしている首のない人体だった。


☆★☆


「どうやら落ち着いてきたみたいだね? さっきは顔が青ざめてたけど大分顔色良くなった」


 男は缶コーヒーを一口啜った。年は三十台半ば。やせぎすの男。作業着姿。その風貌はありふれた会社員。智人はそのような男とコンビ二の事務室でテーブルを挟んで向き合っている。


 事務室にはロッカーとテーブルと椅子とノートパソコンとクーラーボックスしかなく、智人が沈黙する度にエアコンが冷気を吐きだす音が耳に付いた。


「さて、自称、朝田智人君。電話させてあげたよね? メールだかトークアプリだか知らないけどそれも試したんだろ?」


 小さく顎を引くように頷いた。


「さっきも言ったけどケータイの電波を妨害する装置は既に切ってある。使えないのは君のケータイに原因がある。貸してあげた電話は普通に使えたろ? だけど普通は知らない番号には出てくれないよ? しかも、こんな夜中に。きっと眠れなかったんだろうね? 朝田さんの奥さん。はっきり言われてたよね? スピーカホン機能で私も聞かせてもらっていたのは覚えているよね? ねえ、なんて言われてた?」


 ややあってから楓太は声を出した。


「いえ、ちょっと信じられなくて」


「言えないなら私が言おう。朝田智人君は昨晩、旅の途中で事故に遭い亡くなったと。間違いないよね?」


「俺が朝田智人なんです……」


「とても芝居してるようには見えないんだけどさ。警察の人が来たら本当のこと言うんだよ?」


「もう言ったんですけど……」


「困ったねえ」


 腕を組みため息を漏らす。重たい沈黙が事務所を漂う。しばらくするとノックもなくドアが開かれた。作業着を着た白髪を短く刈り込んだ壮年の男が入ってくる。その男に問われた。皺の刻まれた顔に人懐っこい笑みを浮かべていた。


「お前、生で見たのか? 篠塚の仕事は見事だったろ?」


「いえ。見れませんでした。っていうか、俺、早く帰んないと。母親がちょっと訳わかんなくなってるみたいで」


 白髪の男に頭を撫でられた。思わず払いのけようと手を挙げた。気が付くと頬が冷たい。視線の先に姿見があった。手を取られ、肩を抑え込まれ顔をテーブルに押し付けられているのが見える。何が起きたかまったくわからなかった。声が降り注いでくる。


「そんなに拗ねるなよ。坊主。こいつも人がいいからやらねえだけで本当ならお前なんか盗撮犯ってことで警察に突き出してもいいんだぞ? いや、お前、ホントはやったろ? やったよな? 決闘の盗撮。売るんだろ? 百万か? 二百万か? ガキのくせして御大層なカメラ持ってたらしいじゃねえか? 盗撮しようとして忍び込んだはいいけれど仕事する前に篠塚に見つかった。そうだよな!」

 

 怖かった。違うと言いたかったが声が出せなかった。さらに言葉は追い打ちをかけてきた。


「篠塚に聞いて映像確認したら、お前、封鎖のテープ跨いで入ってきてんじゃねえか。世間はお前のことをこう見るんだぜ? 事情を抱えてしょうがなく決闘制度に頼んなきゃいけなくなっちまった人や、実際に血塗れで殺し合っている代理人を面白半分に覗いてやろうっていうクソ野郎だってな。覚えとけよ。小僧」


 智人はテーブルに突っ伏したままドアが閉じる音を聞いた。視界が涙でにじむのを止めることはできなかった。


☆★☆


 作業着の男は何も言わなかった。しばらくすると篠塚が事務所に入ってきた。白いTシャツにジーンズという姿。それが似合う均整の取れた体。そして肩にはタオルを羽織り、黒髪は濡れて艶を放っていた。そして芯の強さを感じさせる瞳と眉。事務所はシャンプ―の香りに満たされた。

 

 隣に立つ篠塚を見上げた。思わず胸元に目が行く。うっすら湿ったTシャツから肌色が透けていた。伸びを擦りふりをして背中側も確認する。背中の大きな翼を模るペイントを横切る下着の線は確認できない。


 『さっきまで怖くてしょうがなかったのに…… 篠塚さんが来たらすぐコレだ。俺ってほんとなんなんだろう? ああっもうっ! 乳首を見たくてしょうがないっ! ノーブラだと知ってしまった以上はしょうがないっ!』

 

 視界をぼやかす涙をこすり落として視界の確保に全力を注いだ。先ほどの男に言われたことなどすでにどうでもいい。


 篠塚は男との話に集中していた。島本の罵声は外まで聞こえてきた。エロい目線で自分が見られているとは想像だにしなかった。むしろ、あとで慰めてやろうと考えていた。


「クライアント様と挨拶を済ませました。お送りの車も出発しました」


「ありがとう。で、彼についてちょっと確認したいんだけどね」


「ああ。朝田智人君ですね。私が保護しようとしたにも関わらず駆け出して駐車場で勝手に転んで泣いていた彼がどうしたんですか?」

 

 篠塚と作業着の男、二人揃って見つめられた。二人の話を聞いていなかった。


「え? すいません。なんでしたっけ? ちょっと疲れちゃって…… 」


 篠塚は笑顔を見せた。顔を近づきて覗き込まれる。胸元に目が言ってしまう。気取られないように咳時々視線を外してみせるが乳首を確認するまでは引き下がるつもりはない。


「君は私に助けられた。盗撮もしていない。間違いないよね?」


 吐息に顎のあたりを撫でられた。頷くことしかできない。


「もうひとつ聞こう。服はなぜ脱いだ? 返り血から病気が移る危険性は十分知ってるよね?」


「知ってますけど、敵に脅されやむなく脱ぎました」


「君が脱いだおかげで立会人向けの画像から君だけが映らななくなったよ。AIがドローンを操作しているからね。裸だと判断されたら撮影されないようになるからさ。知っているよね? 決闘の場において立会人は男女問わず裸の撮影を禁じられている。決闘の現場はある意味治外法権だからね。意味分かるよね?」 


「はい、決闘の現場ではレイプも起こりえて、我が国の決闘の鑑賞を許されている世界の権力者の中には女もいるからです。外国の女性は怖いらしいですからね。権力者も奥様には頭があがらないのでしょう。まあ、グロはよくてエロはだめっていうのは半端な気もしますが」


「まあ、君の怒りには私も共感する。誰も騒がないが内政干渉だからね。だがそれとこれとは別でね。故意に撮影されないようにする行為は禁じられているし会社に処罰もあることも知ってるね」


「はい。ですが敵に脅されたのでやむなく脱ぎました」


「オッケー。私の負けだ。私がモニタリングした限りにおいて君や朝田君を撮影できていたAIカメラは存在しない。まあ、ごちゃごちゃ言われたら私と上でなんとかする。その代わり」


「なんですか」


「転職の件を真剣にを考えてくれ。君はまだ若い。いくらでやり直せる」


 篠塚はなにも答えず男に頭を下げると智人に笑顔を見せた。


「よかったね。君はなんにも悪くないって」


「はい。ありがとうございます」


「素直でいいね。君は。あ、バナナ食べる?」


 篠塚は手に持っていたバナナの皮を剥くと智人の口元に差し出した。まるで餌を与えられたひなのようにその先端を咥えた。そして、思った。


『これ、俺が食べるんじゃなくて篠塚さんに食べさせたい奴っ!』


「ごめんね。あげといてなんだけど自分で持ってもらっていい?」


 目線を交差させてうなづきバナナを受け取った。篠塚は智人の頭を軽く撫でると事務所を出て行く。ドアを開けたとたん振り返る。


「警察の方がいらっしゃってるみたいですよ?」


「じゃあ、お通しして」


 篠塚と入れ替わりに警察官が入ってきた。


☆★☆


 警察官が事務所の扉をあけて入っていたとき思わず立ち上がり言った。白髪頭の初老の男と体格が良く髪を短く刈り込んだ若い男という組み合わせだった。


「お巡りさん。助けてください。俺の母親、俺が死んだとかってわけのわからないことを言い出したんです」

 

初老の警察官がにこやか告げる。


「あー、そうかい。そりゃ大変だ」


「うちの母親、おかしいんですよ。昔っから俺に対して冷たくって」


「あー、成程。成程。君のことはよくわかったから。とりあえず座って。書類作るから。ね?」

 

 智人は興奮を恥じ、警察官がここにいるという事実を得たことで冷静さを取り戻した。


「すいません。もうさっきから不安で不安で」

 

 椅子に腰を降ろす。気が付くと警察官二人に挟まれていた。座っている横で警察官に立たれると腰の辺りが視界に入る。拳銃のホルダーが視界から消えない。変わり果てた人体を連想させた。人間とそうでない物の輪郭がぼやけていくように見えた。


『あれ? 何だこれ。世界が廻る。あ、俺の目が廻ってるのか?』


「どうした?」


 男の問いには何とか答えた。


「だ、大丈夫です……」


 息苦しくシャツの胸のあたりを掴んで捩じる。いくらか呼吸が楽になった。


『だけど…… もし本当に本物の朝田智人が死んじゃってて、俺が妄想癖があって狂ってるだけだったらどうしよう…… 俺の頭がおかしいのかどうかなんて、どうやって確かめたらいいかなんてわからないよっ!』

 

 呆然と長机の上に置いた両の手のひらを見ていた。その手のひらはゆっくりと開いては急激に閉じた。その動きを繰り返してみる。他人の手が動くのを見ている気がした。


 男は智人から視線を外して警察官に向けて言った。


「すいません。お巡りさん。彼はショックが大きいみたいなんで。さっきは興奮していろいろ喋ってくれたんですけどね」


 そう言うと事務机の上に置いてあったA4サイズの紙を初老の警察官に手渡して言った。


「お疲れ様です。良かったら缶コーヒーでもどうですか?」


 若い警察官が右手を自身の目前で軽く振りながら丁寧に答える。


「すいません。お気持ちはありがたいんですが……」


 初老の警察官は肩口に装備してある無線のマイクをに向けて紙に書かれていることを読み上げていた。イヤホンに手を当てて相手からの返信を聞いている二人の警察官を横目にクーラーボックスに歩み寄った。缶コーヒーを取り出し二人の警察官に向けて差し出す。


「まあ、折角だからいただこうや」


 初老の警察官に言われると若い方も男から缶コーヒーを受け取った。警察官二人は手首を返すように缶コーヒーを軽く振り上着のポケットにしまった。


「じゃあ俺が読み上げるから書いちゃって」


 初老の警察官が男の渡した紙に書かれている事を読み上げる。仇討ちに巻き込まれた場所、時間、現場に立ち入った理由、住所、氏名、年齢、電話番号等。


「じゃあ。捺印。ハンコは持ってる? 朱肉はこれ使って」


 若い警察官は智人の前に書類と朱肉をおき書類の上を人差し指で指し示す。


「あ。彼の荷物はこちらに」


 男はそう言うと黒いナイロンのブリーフケースを掲げて見せた。それから印鑑を取り出し楓太の手のひらに乗せた。手のひらが急激に閉じられた。智人は我に返り印鑑を手にしながら書類を見た。


「あの……」


 言い終わる前だった。高くて乾いた音が響く。智人が目線を音のした方に向けると空き缶が床に転がっていた。男は言った。


「あっ。すいません。うっかり。もう年齢(とし)ですかね」


 笑顔を浮かべる初老の警察官に目線を合わせながら男は続ける。


「お巡りさんも忙しいんだからさ。ですよねぇ?」


 おもねるように見上げる男を見て二人の警察官は微笑んだ。初老の警察官が軽く智人の背中を撫でた。楓太は印鑑を押した。手が震えていた。


『上手く押せてますように』


 そう祈る想いで楓太は書類から印鑑を離した。その書類には朝田智人という名前はどこにもなかった。


 警察官が去るとクーラーボックスから缶コーヒーを取出しテーブルの上に置いた。コーヒーを指さして言う。


「大事に飲みなよ。それ。高いんだから。あとね、缶はちゃんと持って帰ること」


 持ち上げて警察官の真似をして軽く振ってみると気が付いた。缶コーヒーの底には折りたたまれた紙幣が貼り付けられていた。


「私にできるのはこれくらい。あとは自力で頑張りな」


 男は事務所のドアをあけて出て行くように促した。力ない足取りでふらふらとそのドアから出て行く。外に出てみると夜空は黒から藍色に変わり始めていた。朝日が雲の隙間から顔をのぞかせている。目がくらんだ。目を細め俯くと智人はマウンテンバイクに跨る。雲の切れ間の朝日を見る。


「人の気持ちも知らないで……」


 知らないで…… だから何なのかはっきりとさせるべきだと思った。


「いつも変わらずそこにあるんじゃねえよ」


 朝日に向かってつぶやくと力なくペダルを踏んだ。ハンドルを切れずに立ちどまった。自宅に帰ってどうするのか? 電話をかけた時の母の声が思い出される。膝が震えた。ハンドルを持っていられない。ふらつく。自転車の倒れる音がする。どうでもよくなった。駐車場に倒れ込んだ。瞼を閉じる。それでも朝日が眩しい。瞼を強く閉じ体を丸め、頭を抱えて、吠えた。全力で吠えた。声が出なくなるまで繰り返す。


 そして笑いがこみあげる。思い出す。かつて使用人たちがしていた噂。智人は当て馬で本命の跡取り候補は他にもいるという噂。変わりなく昇り続ける太陽が涙で滲む。腕を振るって瞼をこする。涙をこそげ落とした。


『くそっ! どうせ、俺の代わりが用意できたってところなんだろ。朝田家なんて関係ない。俺の人生は俺のもんだ』

  

 智人は駐車場で朝焼けに吠えると力尽きた。母親に息子と認めてもらえなかった。自分が何者であるか、過去の思い出に縋る。苦い物だがそれゆえ強烈な想い出。


「クレーンゲームって人生と似てるよな」


「は? そんな難しく考えているから楓太は下手くそなんだよ」


 智人が朝田家に引き取られる前に思い出を作ろうということになった。拓也とショッピングモール内のアミューズメント施設に来ている。目の前のクレーンゲームのなかには人気キャラクターをかたどったぬいぐるみのキーホルダーが底が見えない程度に乱雑に転がっていた。


 二人とも整髪料をつけた髪を光らせ精一杯洒落こんでいる。寺井紗織が現れるのを待っていた。智人はクレーンゲームの中を覗き込みながら言った。


「ちげーよ。テクの話じゃなくてさ。こいつらはさ。この中で守られてりゃきれいなまんまなのによ。いきなり誰かの都合でクレーンで引っ張り出されて外に出されちまう」


「いや。そういうゲームだから」


「そうじゃなくてよ。俺たちも気が付きゃこんな世の中に産み落とされてよ。いっつも誰かの都合で戦わされて死んでいくんっだぜ。たまんねえよなっていう話」


「お前さあ。 そりゃ東大とか行くのは大変だろうけど俺から見たらうらやましい話なんだぜ? 」


「いや、東大だろ? お前じゃないんだし、無理だっての」


「いいじゃねえか。アル中爺とか立ちション婆とかうろついてるあんな団地からお金持ちの家の子になるなんてよ。それにこいつらは閉じ込められてんの。俺もいつかこういう奴らを救い出す側に回ってやるぜ」


 拓也は先ほど獲得したばかりの戦利品を智人の鼻先に突き付け軽く振って見せた。


「こいつらにとっては大きなお世話かもしんねえだろ? 平和に暮らしていたのにって」


「負け惜しみ言うなって」

 

智人は何度か挑戦しているが景品は獲得できていなかった。


「くそ」

 

 智人は小銭を投入口に入れた。ボタンを押しタイミングを計り離す。目当ての場所から少し手前でクレーンは下降を始めた。寺井が鞄に着けているものと同じキャラクターのキーホルダーを狙っていた。智ひとの脳裏に寺井の顔が浮かぶ。クレーンのアームはキャラクターに多少触れただけだった。


 振り返ると拓也と寺井が向き合っていた。寺井は拓也が獲得した景品に頬ずりをしていた。何か言わなくてはという焦燥から言葉が口を突いて出た。


「あ。いいよ。じゃあ3人で行こうぜ。そろそろ映画始まるだろ?」

 

 拓也と寺井は見つめ合った。寺井が拓也の二の腕辺りに右手を添えた。智人は言った。


「あ、いけね。メッセージ来てる。いや、俺、スマホもたされちゃってさ。俺、朝田家に行かなきゃ。じゃあな」

 

 嘘だった。うまく笑えている自分に嫌気が差していた。 思いだして苦笑いが浮かぶ。幼い子供のように声をあげて泣きたかった。だが、そうしても何も解決しないこともわかっていた。横たわり体を丸める。何かで見た胎児の画像が頭に浮かぶ。


 『こんなに胸が苦しいくなるくらいに俺はちゃんと俺の人生を持ってるんだ! なのに、なのに・・・・・・』


 唇が震え始め、鼻先にツンとした刺激。涙が溢れ、頬を伝わる滴がやけに熱かった。そのときだった。

「ごめんね。思い出して泣いてるの? 君を守るためにベストは尽くしたんだけど…… そりゃそうだね。初めてあんなの見たら怖いよね?」


 背中で聞く、優し気で、暖かいその声。先ほども間で聞いた声とは似ても似つかないその声。

仇討ち人、篠塚のものだった。


「そんなところで寝てると風邪ひくわよ、なんてね。うちの車で寝ようよ。心の傷は体で癒すに限るわよ」

 

篠塚がそう言いながらしゃがみ込む顔を覗き込んでくる。淡い風が吹き始めた。朝の橙色の日差しが篠塚の髪に輪郭を光らせる。風が髪を遊んだ。咥えてしまった髪を耳に掛け直すと篠塚は微笑む。目を奪われた。


「どうしたの? 固まっちゃって」


 首を傾げながらも笑顔のまま篠塚に尋ねられても言葉は出てこなかった。


「ま、いいわ。話したくないなら。うちの車キャンピングカーだからベッドあるし。シャワー使えるし。うちの同僚が使ったあとで汚れてると思うけど」


 首を振った。何とか言葉を絞り出す。


「い、い、いや、いいですよ。そ、そこまでしてもらうほどのことじゃないんでっ。じゃ俺はもう行きますから」


 慌てて立ちあ上がる。篠塚も立ち上がる。二人向き合う。篠塚は言う。


「行っちゃうなら行っちゃうでいいけどね」


「いや、できるだけ我慢します。あ、でも、そう言ってもらえると気が楽かも。いつかはイっちゃうと思うんで」


 真顔で真剣に答えた。


「うん、だからね。行く前にこの汚れたシャツは脱いだ方がいいと思うよ」


 腹のあたりに気配を感じる。見ると篠塚がTシャツの裾を引っ張っていた。埃と汗に塗れ、薄汚れたTシャツの裾を掴む篠塚の指は細く、長く、白い。その先の爪は清潔に切りそろえられ、ほんのりと光沢を放っていた。


「あ、あ、あ、いや確かに汚いTシャツは脱いだ方がいいのはわかるんですけど……」


「洗濯もできるよ? 乾燥機も着いてるし。その間、寝てていいよ。お詫びってわけじゃないけど、あとで君の行きたいところまで送ってあげるし」


「いえ、俺なんて汚いままでいいんですよ。っていうかどうして俺に構うんですか?」


篠塚は俯き頬を染めた。意を決したように顔を上げると言った。


「だって…… 君のことが好きになっちゃったんだもん……」


「え?……」


「裸も見たんだし、責任とって結婚してよ」


「はあっ?」  


「あはは、やだなー。そんなわけないでしょ。っていうか好きとか言われた時と責任とってって言われた時の顔、ギャップありすぎでしょ。ホント、もう男ってこれくらいから男なのよね。子供のくせに」


「な、なんですか? からかわないでくださいよ。篠塚さんだって夜はわかんなかったけどこうしてみると俺と変わらなそうじゃないですか?」


「君、浪人生ってことは」 


「十八です」


「わっかいなー。いいなー、あたしも十八に戻りたーい」



 不意に涙がこぼれた。それを自覚したら立っていられなかった。しゃがみ込んで片膝と片手を地面に着いた。


「え?なにどうしたの?ごめん、なんか、わたし言い過ぎた?」


 鼻水交じりに出てきた言葉。


「お、俺だって戻りたい。俺の、俺の…… 俺が覚えてる家や学校に…… 戻りたいですよ」


「戻ればいいじゃん。君、家出中なんでしょ。戻ればみんな喜ぶって」


「いや、だから、そのみんなが俺を俺と認めてくれないんですよ。母親は俺を息子と認めてくれないし、スマホ使えないから知り合いにも連絡取れないし」


 篠塚に肩を抱かれた。香りと温もりが体を奔った。しばし、我を忘れた。


「だ、か、ら。言ったでしょ。心の傷は体で癒せって。ついてきて」


 篠塚に手を引かれしばらく歩くと朝日を受けて白く輝くキャンピングカーが目に入った。となりには朝日を受けて輝く篠塚の笑顔とただよう香りと耳を打つ朝を告げる雀の声。


 勃起する 朝勃ちと 言い訳でないほどに 勃起する 


 智人は一句読みながらキャンピングカーの中に入っていく。


★☆★

 

キャンピングカーに乗り込む。手狭なリビングと言う印象だった。そのソファに男が座っていた。ニ十台なかば程の男が上下スェット姿でリラックスした様子で新聞を読んでいた。目の前のテーブルの紙コップからは湯気が立っている。

 

 思わずたじろぎ篠塚を頼りに振り返るとそこには誰もいない。扉はすでに閉められていた。男は後ろからよく通るうるさいほどの大きな声をかけてきた。


「お、ホントに来るとはね。篠塚から聞いてるよ。上で寝てもらうんだけどその前にシャワーを浴びてくれ。俺は篠塚の先輩。一応」


「あ、いや、でも、俺、篠塚さん待ってないと……」


 振り返ると篠塚はいなかった。


「ま、突っ立ってないでまずは座りなよ


「あ、いや、俺は、こ、こでいいです」


「篠塚は事務所で休むんだよ。さっき君が尋問をうけてた部屋。あいつはこんな男くさい場所に来ないから」


「あ、いや、でも、篠塚さん、なにか心の傷を癒してくれるって…… な、なにかカウンセリング的なことかなって」


「あはは。なんだよ、カウンセリング的ななにかって? 武士の情けで黙ってたけど勃起してんの丸わかりだよ。そのズボン。どーせやらせてくれるかもって勝手に勘違いしたんだろ? ただ上で横になって体を休めろってことだよ」


「い、いや、勃起はしてますけどた、ただの朝勃ちですから。た、ただの生理現象なんでそんなことじゃありませんから」


 鼻で嗤われた。


「ま、いいさ。若いんだからよ。俺もだけど仕事のあとはいつもお疲れ勃起が収まんねえもん。シャワーは扉の奥。あとこれをを使ってもいいから、一発シコッてとっとと寝な。昼には出発するからあんまり時間ないしね」


 若い男はテーブルの上に置いてあった珍しい形をしたペットボトルのようなものを放った。受け取ってマジマジと見てみる。


「あ、あのすいません。何ですか? コレ?」


「ホントに知らないの? そういうの面倒だからやめなって。いい子ぶるの」


「すいません。い、いや、なんとなくイメージするのはあるんですけど間違ってたら失礼かなって」


「気にすんなよ。こういう遠回りのコミニュケーションの方がメンドクサイ。君のイメージ通りアレするときにナニ入れて使う奴だよ。まあ、説明書を見りゃ使い方はわかるって」


「い、いいんですか? なんとなく高そうなイメージあるんですけど」


「大丈夫、支給品だからそれ」


「え?」


「会社からもらえるの。それ」


「へー、いい会社ですね」


「はは、ま、仇討ち前に変に高ぶる奴いるからさ。ヌカせてスッキリさせて仕事させようってわけ。会社的に」


「はあ、なんていうか。大変ですね」


「ま、6K仕事だからね。ほら君汗臭いからさ。とっととシャワー浴びちゃってよ。タオルも替えのTシャツとパンツも脱衣所に置いておいたから。良かったら使って」


「あ、はい。ありがとうございます。なにからなにまで」


 弾かれたように行動を開始した。頭からシャワーを浴びているうちに落ち着きを取り戻した気がする。


『まずはこいつを何とかしないとな』


 シャワーをとめオナホを股間にあてがう。


「お、お、おおう…… ふぅー」


 ヌルリと言う感触とシャワーよりも若干低めの温度に思わず声が漏れた。壁にもたれて瞼と閉じる。寺井の顔が頭に浮かんだ。首を振る。脳内で画像を検索。篠塚の顔、背中、尻が浮かぶ。


「よし」


 決意して右手を動かし始めた瞬間だった。バタン扉が開かれる。外気に体を覆われた。目を開ける。若い男の顔がそ目の前にある。笑っていた。体重をかけられ壁に押し込まれた。息苦しいと思ったら口を手で抑えつけられている。状況に思考が追い付かない。


「気持ちいいだろ? これ」


「ん、んんーっン」


 股間でオナホが大きく動かされた。先端だけがオナホの中に残っている。首を微かに動かすしかできない。腰を動かして全てをオナホに埋めたくなる。


「おっと。だめだよ。全部つっこませてなんかぁ、やらないぜ?」


 へその下あたりに硬い塊の感触。拳を押し込まれているようで息苦しい。


「さて。素直に答えてくれれば解放してやる」


 頷くと口から手が離された。その手は顎の下に移動し押し込んでくる。


「な、なにを答えれば?」


 声が上手く出せない。


「お前。何者?」


「た、朝田智人のはずなんですけど…… あ、あふう」


 オナホがわずかに動いた。外れる方向に。


「けど?」


「母親だと思ってた人に連絡したら俺は死んだって・・・・・・ あっ」


 オナホがわずかに動いた。深く嵌る方向に。


「決闘に関わった目的は?」


「な、ないです。偶然迷い込んじゃっただけです」


「篠塚との関係は? あいつに何か渡したんじゃないのか?」


「さっきであったばかりです。助けてもらっただけです」


「本当か? あいつの強さは異常だからな。何か薬(ヤク)でも使ってんだろ? それが切れたからお前が補充しにきたんじゃないのか? どこだ? どこに隠してるんだよ? 薬(ヤク)」


 徐々に徐々にオナホが外れる方向に動く。


「し、知りません。そ、そんなこと。た、ただ俺は篠塚さんの、む、胸を、あ、いや、せ、具体的には、ち、乳首を見ようとしたり、お尻とアソコの毛をチラ見してただけなんです。友達でも恋人でもありません。い、言うなれば篠塚さんは俺のオカズです。それ以上でもそれ以下でもありません」


 オナホの動きが止まった。


「うふう」


「っていうかよくあの女で抜けるな。性格キツイだろ?」


「いや、俺も最初はそう思ったんですけど、やさしいですよ」


「なるほど。まあただのオカズだしな。わかった、じゃあ、なんでこんなところをあんな夜中にうろついてた?」


「一人旅の途中です」


「なんで旅に出た」


 答えなかった。寺井の顔が浮かんでいた。


「てらいっ」

 

 一気にオナホに飲み込まれていた。


「今、メッチャ気持ち良かったろ? 思いっきり動かしたいだろ? てらいってのが薬(やく)の暗号か? さあ、答えればこのオナホを自由にできるぜ? 俺はオナホを固定して腰を振るのをおすすめするがな。さあ、蛇の生殺しはつらいだろ? とっとと答えてピストンしろよ。な? とっとと言って気持ちよくなっちまえよ。な?」


 答えなかった。ただ頬に涙が伝わる。力が抜ける。


「え、えぇ。もしかして、君はこれくらいでイっちまったっていうのかい?」


 答えられなかった。ただ解放されていた。尻が冷たい。座り込んでいることに気が付いた。女座りだった。


「なんか、ごめんなー。ただ俺も仕事でさ。拷問かけるわけにも行かないし、俺なりに気を使ってはいたんだぜ? まあ、君はほんとに、ただ巻き込まれただけなんだな。うん。君は悪くない。代理人のみんなにはそう伝えておく。あ、あとは好きにしていいよ。う、うん」


『そんな村のみんなには伝えておくみたいなことじゃないだろ? これ』

 

 声にはできなかった。勃起は完全に収まっている。ふらふらと立ち上がり、ただ黙々と洗い流し、服を着替え、はしごをのぼりベッドに横たわった。下から、『てらいって好きな娘(こ)の名前かー』と聞こえてきたが無視をして瞼を閉じた。


☆★☆


「で? どうしてこうなったんだ? 説明してくれよ。どうして彼がここにいるんだ? 監禁したなんて騒がれたらどうするつもりだ?」


 智人が目覚めると階下のリビングから話し声が聞こえてきた。作業着の男の声だった。わずかに顔を出し様子を見る。男は座りテーブルを挟んで若い男が立っていた。


「おい、答えないか」


「俺は間違ったことはしてません。まあ社内規定を破ったことは認めます。処分はお任せします」

 

 そう言うと若い男はポケットから飴玉を取出しテーブルに置く。


「なんだ? それ」


「篠塚が朝田君に渡したと思われる飴玉です。成分を調べてください。きっと覚醒系の成分が見つかるはずです」


「まだ、疑ってるのか? 我々は毎月の健康診断が義務付けられている。当然検尿の際には薬物もチェックされてる」


「今までの検査では出ない新薬かもしれません。とにかく篠塚の五感の鋭さと身体能力は人間の常識を超えています」


「気持ちはわかる。だが、彼女が努力してることは認めるだろ?」 


「まあ、それは」


「ああ、確かに恵まれたフィジカルを持ってる奴はいるし、周りから愛される奴ってのはいるよ。私やお前と違って」


「そうですね」


「ただ、体は使い方だし、周りからのサポートは普段の心がけ次第だよ」


「理屈はわかりますけど」


 作業着の男は苦笑いを浮かべた。


「敢えて言うけど達人の私からしたら篠塚は普通に優秀って程度さ。知恵と工夫で解決できる問題は多い。解決できない問題はできる奴に頼めばいい。我々は篠塚も含めて仲間なんだ。それぞれ得意なことで力を発揮すればいい」


「まあ、そうなんですけどねー。あ、市村さんってどうなんすか? 人間国宝になるかもって話ですよね」


「まあ、まだ難しいだろうね。忘我の境地には届いてるみたいだけどさすがに無我の境地はね。ま、我々はお互い凡人だ。市村家みたいな剣豪一家と比べてもいいことないさ。ところで朝田君。盗み聞きは趣味が悪いぞ?」


「「えっ?」」


 智人と若い男の声が重なった。


「降りてきな。朝田君」


「あ、はい」


 はしごを降りて若い男の隣に並ぶと男は立ちあがった。


「君には重ね重ね申し訳ない。強引にこの中に連れ来たってわけじゃなさそうだが謝るよ」


 そう言い男は深々と頭を下げた。若い男を見るときまり悪そうな顔をして頭を下げた。


「申し訳ありませんでした」


 二人の頭を見比べると気が済んでしまった。眠れたからかもしれない。


「あ、もういいですよ。こっちこそなんか汚しちゃってすいません」


「汚した?」


 男の怪訝な顔に答えた。


「あ、いや、オナホです。その人が入って来た時はメッチャ焦りましたけど。あんなに気持ちいいなんて知りませんでした」


「ああ、やっぱオカズは好きな女に限るよな。イクとき好きな女の名前を呼ぶといつもより多く精液出るらしいぜ?」


 自慢げに知識をひけらかす若い男に親近感を覚えた。


「あ、それ聞いたことあります。確かにすげえ出てました」


「だろ? 篠塚なんかで抜いてないでこれからは「てらい」でヌケよ」


「うーん。あれは不意打ちだったけど…… あんまり寺井のこと汚したくなんですよね」


「そっか、じゃあ篠塚で我慢しとけ」


「はい」


 咳払いが聞こえた。男が苦笑いを浮かべて見ていた。


「お前ら篠塚に絶対聞かれるなよ? そんな話。さ、朝田君。篠塚に送らせるからそろそろ準備してくれ」


「あ、大丈夫です。これ以上迷惑をかけられませんから」


 手を振りながら断った。


「別に監視させるってわけじゃないさ。単純に君は複雑な事情を抱えているだろう? もしご両親や君のお知りあいと会うことになったときにさ。一緒にいるのが女性の方がいろいろ話がスムーズなのさ。遠慮もいらないよ」


 若い男の様子を見てみた。笑いながらうなずいている。


「ああ」


「ほら。篠塚が待ってるから。行き先はどこでも君の言うところに連れて行くはずだから。な。気持ち切り替えて前向きにね」


「はあ。ま、行きたいところなんてとくにないですよ。どこ行ったって別に変わんないですもん」


「だったらホテルは?」


「え?」


 若い男の提案に生唾を飲み込んだ。


「いや、だってこの春に二人でドライブだろ? 楽し気なところに連れて行って盛り上がったらいけんじゃねえの?」


「ま、まさか。そ、そんな」


「いや、やれますよね。課長」


「まあ、男と女は読めないよね。合意なら私は何も言うことは無いさ。なんなら結婚して寿退社させても構わない」


「え? いいんですか?」


「なんてね。4月から法改正で決闘代理人でやってくのは厳しくなるんだよね。彼女は浪人、じゃなかったフリーランスになってでも続けるって言ってるんだけどそうなると会社じゃ護れなくなっちゃうからさ」

 

 そう話すと男は目の間をかるくもみながらさらに続けた。


「ま、私もそうだけど決闘代理人なんてみんなワケありだから」

 

 車内に沈黙が舞い降りた。とりなすように若い男が言った。


「わけありっていや、おかしな人おおいっすよね」


 男が笑いをこぼした。若い男と目を見合わせ頷いた。


「どうしたんですか?」


 尋ねた智人に若い男は言った。


「ああ、決闘代理人ておかしな人多くてさ。他の会社なんだけど市村って言う剣豪がいるんだけど、その人、男も女もありらしくってさ。決闘場でもやっちゃうらしい。敵味方関係なく」


 それを受けて作業着の男が話し始めた。


「ああ、その噂は本当かもね。ま、強い人はどこか壊れてる人が多いよね」


「確かにそうっすね。でもセックスなんかより人を斬るほうがよっぽど気持ちいいって人もいますよね。セックスしてる暇があったら人斬りたいわって」


「いるね。わかるよ、その気持ち。わたしもどっちかっていうとそっちのタイプかな」


「そっすか? 俺は元々食うための仕事なんでセックスの方がいいっすわ。朝田、お前は?」


「俺は・・・・・・」


「そこ、迷うところじゃないだろ? あんな現場見ておいてもうヌいてるんだから。意外と向いてるんじゃないの」


「えっ? 俺、さっき見られましたけど仮性ですよ?」


「ちっげぇよ、なんでチンポの話になんだよ? 向いてるって言ったんだよ、剥けてるじゃなくって」


「ははは、朝田君は殺しも女も両方いけるクチかもな。法改正がなければリクルートとしてるところだよ」


「いや、俺なんて妄想して現実逃避してただけっすよ」


「何言ってんだよ。憶えてないのか? 篠塚が首切り落としたの見た後お前コンビニに入ってきたときさ」


「はい」


「勃起してんの丸わかりだったぞ?」


 そう言って快活に笑いあう二人を見て智人は思わざるおえなかった。


『狂ってやがる。こいつらも、俺も・・・・・・』


☆★☆


 智人はタイヤを外して専用の運搬用バッグに押し込んだ自転車をそっとトランクに置いた。目の前にあるスポーティな雰囲気の二人乗りのオープンカーが篠塚の私物だと聞いていたからだ。


「よかった、とりあえずトランクに入って」


 篠塚は張り付くようなジーンズとTシャツ、そして薄い色のサングラスという伊達立ちだった。


「かなり、チャリばらしましたから。でも篠塚さんこういカッコイイ車が似合いますね」


「でしょ? なんてね。ほら、行くよ」


 篠塚は笑みを浮かべながら言った。そして二人を乗せたオープンカーは走り出す。しばらくして車が他の車の流れに乗ると篠塚が尋ねた。


「どう? よく眠れた?」


「あ、おかげさまでぐっすりです」


「それならよかった。あ、そうだ、このまま高速乗っちゃうけどトイレとか大丈夫?」


「あ、全然大丈夫です」


「あ、じゃあ、高速でちょっとテンションあげよっか。そこのグローブボックス開けてくれる?」


「え? どれですか?」


「えっとね、目の前のガラスのから下の方に視線を移すと回せそうなつまみ見えるでしょ?」


「あ。はい」


「それを廻すと、手前にパカッと開くから」


「あ、はいクパァっと開きました」


「ピンクのケースあるでしょ? 丸くてプラスチックの」


「あ、はい。その中にさっきあげたのと同じ飴あるからそれとって。君のもね」


「あ、あれ? これどうやって開けるんですか?」


「ああ、もう。それは力づくで開けるんじゃないって。両手で端と端を持って、時計回りにゆっくり廻すと飴でてくるから。あ、裸で出てくるから気を付けて」


「あ、あー、あ。わかりました。でてきました、裸で出てきました。へー面白い、なんか果実を絞りました、って感じですね。こんな仕掛け始めて見た」


「うん、面白いでしょ。やっぱりそれ説明されないと開けられなよね? 私も開けられなかった。じゃ一個」

 

 篠塚は車を前を見ながら片手を智人に差し出した。智人の手から桃色の小粒で丸い飴を受け取る。無造作に口に放り込む。


「あー。この口に入れた時に粉が解ける瞬間がいいの。鼻に香りが抜けてく感じで」


「へー。うまそうですね。俺も」


 飴を口に放り込んだ。


「え?なにこれ? すっげぇ」


「それ、ちょっと作ってるでしょ。今のリアクション」


「いや、マジでうまいっすよ」


「あ、そうなんだ。へー味覚合うねぇ。一度、島本さんにあげたら口に合わないって。なんか無理して食べきってはくれたけど」


「俺たち気が合うんですね。あ、いやこの場合、体が合うっていうんですかね」 


「ばーか」


そう言う篠塚の薄い色のサングラスの奥で目は笑っていた。


『この流れ、絶対ヤレル流れだ』


 確信を深めた。オープンカーは前の車を追い抜こうとスピードをあげた。篠塚は風で舞う髪を軽く撫でつけこちらを向いた。


「どーお? 気持ちいいでしょ? 生きてるって感じ、するでしょぉ?」


 オープンカーは車が風を斬る音が大きい。自然と会話は大きな声になり単純な言葉を選びがちになる。


「はぁい、マジ、サイコーです」


「あははは。それじゃほら、何か叫んでみて。どーせ誰も聞いてないから。普段我慢してることいっちゃいなよ」


「いやぁあ、改めて言われるとそんなに出て来ないっすね」


「あ、そーお? じゃあ、私叫ぶからね。一人だとバカ見たいだから一緒に叫んでよ」


「りょーかいっす、どーぞ。言っちゃってくださーい」


「わたしは自由だー」


「俺は自由だ―」


「わたしはわたしだー」


「俺は俺だー」


「人を斬るのってサイコー」


「人を斬るのっってサイ…… え?」


「なによ。ノリ悪ーい」


「あ、すいません。でもさすがにそれはどうかなって」


「ああ、めんどくさいなぁ。私が斬るのは悪人。あくまでもね。っていうか、私だって好きで始めたわけじゃないし」


「いや、でも今サイコーって」


「うん。どうせやんなきゃいけないんなら笑ってサイコーって言いたいじゃん? そのほうがよくね? っていうかお互い殺(や)らなきゃ殺(や)られるってことわかってて決闘場にいるんだしね」


「っていうか仕事なんて好きなこと選べばいいし……」


「好きな仕事やって生きてけると思ってるんだあ? あ、そういえばお金持ちなんだっけ? 君んち」


「地元の中ではですけど…… なんか、すいません」


「ま、いいけどね。お金持ちの君とわかりあえるとは思ってないから。で? ホントにお花見でいいの? 寒いんじゃない? 行き先変えるなら早い方がいいんだけど?」


「人がわいわいしてるところに行きたくなっちゃって。あとできれば桜と篠塚さんの写真撮らせてもらえるとうれしいんですけど。」


「あ、そーお? いいよ。君、上手だし。私のスマホにも送ってくれる?」


「はい」


「何でも好きなもの食べて。どうせあたしのお金じゃないし。あれ? どうしたの? リアクションないけど」


「いや、なんでもないです」


  大人たちの優しさに、そして自分の幼さの情けなさに涙がこぼれそうになるのを押さえるのにのに必死だった。そして、篠塚と別れてかれてから本当に泣くことになる。


 スマートホンは通信できず、クレジットカードもキャッシュカードも使用できなくなっており、親からは死んだものとして扱われ、わずかばかりの現金で見知らぬ土地でどう生きていけばいいか途方に暮れた。


 篠塚を頼らなかったのは見栄なのか矜持と呼ぶべきものなの、童貞故の遠慮あるいは意地とでも言うべきか智人自身にもわからなかった。

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