第187話 学びや
駆けていく大矢さんの背を見送り、
「ああ、そんなご無体な」
と机にうなだれる。
バタリ、と倒れ込むと、
「で?」
とお隣から声が掛かったので首を捻る。
「で、とは?」
「わざとらしい演技で恵海ちゃんを焚き付けて、いったい何をしようとしてるの?」
ふぅむ、と息をつく。
これは厄介。鬼柳ちゃんはそう簡単にはぼくを見損なってはくれないらしかった。それは嬉しいんだか、嬉しくないんだか。
「狙いなんてないよ」
「嘘、だって恵海ちゃんを止める気なんてないじゃないの。いまも座ったままだし」
大きな瞳がしらっと細くなる。すごい、お見通しだ。でも事が起こる前に止められちゃあたまらない。さてねとしらを切る。
「和島くんが職員室に乗り込んでたわよ。ただの事故じゃないって訴えかけてたの」
「どうなった?」
黙って首を振られる。やっぱり証拠不十分か、疑わしきは罰せずが日本の司法だ。それは冤罪を防ぐためであり必要なこと。ただ、疑わしきひとにはどう映るものか。
疑わしい目でぼくを見る鬼柳ちゃんも、そのせいで強くは出られないようだった。
ああ万歳、ぼくはいましっかりと司法に守られている。口もとをにへらとしたら、手を出しあぐねていた鬼柳ちゃんが問う。
「ねえ、それはわたしにも話せないの?」
はて、どういう意味だろう。大きな瞳でじっと見つめられると校内放送が鳴った。
「三年C組、守屋。いますぐに生徒会室に来なさい。三年C組、守屋。すぐに!」
おや、呼び出しだ。生徒会長である古越芽生さんの声だった。ふぅむ怒っている。それは敬称を忘れてしまうほどにだ。マイクを切る前に聞こえた、ホホホホという声から察するに大矢さんのお手柄だろう。
司法の盾も、あいにく個人的な怨みには通用しないらしい。ぼくは古越さんにそこそこ嫌われていた。彼女なら、ぼくのしようとする事を全力で阻止してくるはずだ。
「呼ばれたよ、守屋くん」
きょろりと見られ、きょろりと見返す。
「いっしょに叱られに行かない?」
「イヤよ」
つれないなあと、仕方なしに席を立つ。
「人の上に人を造らずだ。呼び出しなんて福沢先生が泣いちゃうとは思わないかい」
「自業自得でしょ」
ぼくは捨て台詞をのこし、あきれた視線に見送られながらひとり生徒会室へと向かう羽目になった。福沢諭吉先生の言葉を頭に思い浮かべながらだ。
『天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず』だけども文はここで終わらない。
『と言えり』と、まだ続く。あとには、こんな続きがある。
『されば天より人を生ずるには、万人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賤上下の差別なく、』うんぬんかんぬんと。
まあ、冒頭しか広まっちゃいない。
さわりの部分だけがひとり歩きし、誤用として使われることがほとんどだろう。広まった部分が、じつは福沢先生の言葉じゃないのにも関わらずだ。あれは世間一般の考えを例としてあげただけに過ぎない。
福沢先生が言っていることは要するに、『ひとは生まれながらに平等である』と言われているけど、『実際はそうではない』。『貧富の差はある。ならそれはどこに違いがあるのか。その違いこそが学問である』と言っているのだ。
だから学問が大事になってくるのだと、学ぶことの大切さを説いたものこそ学問のすゝめの真実だ。ぼくらは福沢先生の言ったようにきちんと学ばなければならない。
生徒会室のドアに手をかける。
しっかりと学んでこなかったからぼくは呼び出しをされて、お説教を受けることになってしまっている。反省しなければ。
そしてしっかりと学んできたからこそ、ぼくは生徒会室に呼び出されて計画のあらましを白状する運びとなった。ならばこれは黒幕のすゝめと言えるのかもしれない。
よく見て学ぶが良いさ。
生徒会室に入ると、古越さんの隣には仁王立ちで腕を組む大矢さんの姿があった。はて、どういうポジションなんだ。それ。
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