第167話 悪くない
となりの席に座る鬼柳ちゃんは、んーっと両手を伸ばし、へたりと机に突っ伏した。ちらりと覗く横顔は安堵の表情にもみえる。目もとは柔らかく、口もとは緩やかに微笑む。
「ああ、よかったあ」
間延びした声をあげ、ゆるゆると身体の力を抜いていき、まるで机と一体化していくかのようだ。大きな瞳はきょろりと、ぼくを捉えた。
「もう大丈夫。恵海ちゃんはこのまま、そっとしておいても平気ね」
「泣いてたのに?」
おや、と頭をひねる。すこし冷たい気がしないこともない。そんなぼくを見て、口の端を持ち上げた。
「あの涙はね、べつに悪いものじゃなかったの」
「嬉し泣きってことかい?」
ん、と言い、首が回らなかったのだろうか。起き上がってから、わざわざ首を振り直した。
「んーん、ちがうよ」
嬉し泣き以外に悪くない涙があったろうか。あとは欠伸くらいしか、ぼくには思いつく物がなかった。
「じゃあ、なんの涙なんだい?」
鬼柳ちゃんは目を閉じ、眉根を寄せ、小難しい顔をする。
「説明がむずかしいんだけど、──感情の爆発、みたいな?」
「それはつまり、女の子には泣きたいときがあるという、例のアレなのかい?」
おのれ、厄介な。思春期め。ミステリー過ぎやしないか、女の子。と考えていると、
「それとも、ちょっとちがうんだけどね」
と言う。
「ふぅむ」
複雑怪奇なものを見る目をしていたら、鬼柳ちゃんは困ったようにはにかんだ。
「恵海ちゃんはね、いろいろと気付いちゃったのよ。いっぺんに気付いたから、感情が溢れちゃったのね」
「気付いたって、なにをさ?」
んー、と悩み、ひと言。
「愛よ」
「はい?」
愛とな。キョトンとしてしまう。英語の一人称であり、とある歌手であり、色の名前である、あのあい?
鬼柳ちゃんは見るからに混乱するぼくに笑いかける。
「ほら、言ってたでしょ。同じだって」
そう。大矢さんはたしかに、『おんなじ』だと言っていた。なにとなにが同じだというのだろうか。
「守屋くんは、恵海ちゃんが探偵のどこにあこがれたのか訊いたよね」
コクリとうなずく。解なしだったから、まだその答えをぼくは知らない。スッと、鬼柳ちゃんは手を差し出してきた。はて、なんだろうか。
「手よ」
「手だね」
まじまじと見る。小さな、柔らかそうな手だ。生命線が長いね。恥ずかしくなったのか、鬼柳ちゃんはあわててその手をひっ込めた。
「推理力でも、顔でも、探偵でもないの。恵海ちゃんはね、きっと探偵の手にあこがれたのよ」
「なんでまた」
「嬉しかったんだと思うの」
差し伸べられた手は救援の証だ。それはたしかに嬉しいものだろう。でもそれが始めてというわけでもないだろうに。どうしてその時の手だけが特別となったのだろうか。
「その探偵は時計を見付けれずに、何か所もまわってたよね。でも、その度に何度も何度も、手を差し伸べつづけてくれた」
「不気味に笑いながらね」
と茶々を入れると、くすっと聞こえた。
「そうね。でも、ひとに手を差し伸べるのって勇気がいることだと思わない? いっしょに責任を持つというか。失敗したあとなんて、特にとまどっちゃう」
「まあ、そうかもね」
その探偵が、そこまで考えていたのかは疑問に思うけど。ただ謎に飢えていただけかもしれない。謎が楽しくて笑っていたのかもしれない。
「それにその時、恵海ちゃんは傷付いていたから」
「そうなのかい?」
まあ、時計が見つからず泣いていたから、傷付きもするのだろうか。
「友だちといっしょに探してたけれど、ひとり、またひとりと帰っていっちゃったよね」
「しかたないって、大矢さんも言ってたよ」
鬼柳ちゃんはコクリとうなずく。
「友だちは悪くないの。みんな帰らないとダメだもん。でもね、恵海ちゃんはやっぱり寂しかったのよ」
すこし遠くをみるような目をし、
「差し伸べてくれてた手を、下ろされたように感じたんじゃないかな」
淋しげにつぶやく。
「だからこそ、よけいに探偵の手が嬉しかったんじゃないかな」
にこりと笑い、そう言った。
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