第75話 黒幕と探偵

 君のせいだよ、と先輩はぼくに言った。返す言葉がない。黙ったままでいたら、先輩はぽつりぽつりと続きを語りはじめる。


「守屋君、私はね。紗奈のままで構わないとずっとそう思ってきたんだ。物心がついた頃からこういう風に育ってきたからね。それが当たり前のことだと思っていた」


 サラサラとした美しい髪に手をやって、手櫛でスッと梳かしてみせる。ふわりと、魅惑的ないい香りがした。


「男子からの評判もよかっただろう? 女子からの評判はそれほどでもなかったが、直接に害を為すものでもなかった」


 ガクリとずっこけてしまいそうになる。


 あなたは評判がいい所か、男子の憧れ。学園のマドンナなのだから。知らぬ存ぜぬは本人ばかりとはこの事を言うのだろう。そんな事もつゆ知らずにマドンナは呟く。


「なにも考えなくていいのは楽だったな。女子からの陰口や嫉妬も耳にはしていたのだが。それは所詮、紗奈に向けられていた物だ。どこか遠くの物事に感じていたよ」


 数多の告白を断りつづけているのも、どこか他人事に捉えているからだろうか。髪を指でくるくると巻きながら先輩は言う。


「そんな時に君が。君と美保ちゃんが私の元へと現れた。あのピアノの怪談の時だ」


 思い出す。あのとき先輩は、ひとの悪意に触れて身を震わせるほどに怯えていた。あれがはじめての実害だったのだろうか。


「君達のおかげで事件は解決した。そして君は、犯人をあぶり出してくれたんだよ」


 上目遣いでじっと見つめられる。先輩はその目を決して逸らそうとはしなかった。


「君の見せた解決は、それはそれは見事な物だったな。惚れ惚れとしたものさ」


 照れてしまうけれど、話は終わらない。


「だが、あの時に実感したよ。紛れもなく悪意はこの私に向けられているとね。紗奈にではなく、この私にだ。そして私の自我は目覚めた。気付かせたのは──、君だ」


 さす指も、まっすぐな視線も。どちらもぼくを示した。だからぼくのせいなのか。


「それから母と揉め始めたな。私も君を見習ってね。いろいろと画策してみたりもしたが、どうにも上手くいかなかったんだ」


 先輩の声はどんどんと沈んでいく。


「私にはやはり無理な事なんだと、正直な所あきらめていた。私は所詮、紗奈として生きるのがお似合いだとね。そんな時に、君は再び私の前に現れたんだ」


 卒業式の前に訪ねた日のことだ。


 たしかにいま振り返ってみれば、あの時の先輩の様子はすこし妙だった。なにか悩み事かとぼくに訊いてきた先輩の方こそ、本当は悩んでいたんじゃないか。


 ぼくは気付きもしなかった。


「紗奈としての未来しかないと思っていた私に、君は保母さんも似合うと言ってくれた。それは私が考えもしない未来だった」


 それは誤解だった。そんなつもりで言ったわけじゃない何気ないひと言が、ひとの運命を左右してしまう事もあるらしい。


 慎まなければならない。


 不用意な言動がひとを傷付け、もしくはひとを救うのだ。それがたとえ不本意だったしても、言葉は取り消せないのだから。


 先輩は小さく笑った。


「まったく君という奴は。あきれたものだな。ひとの決意を簡単に捻じ曲げていく。だから私は委ねた。私をこんな風に変えた君に、責任を取ってもらおうと思ってな」


 突拍子もない言いがかりに、むせた。


「先輩こそ、言い方に語弊がありますよ」


 ふふっと意地が悪く微笑む姿は、いつもの調子が戻ってきたように思える。


「──冗談だ。だが、賭けは私の勝ちだ。私はもうすこし、抗ってみようかと思う」


 先輩はコトリと、ボタンを床に置いた。はて、これは学生服のボタンだろうか?


「君が卒業式の日に忘れていった物だよ。返そうかとも思っていたのだが」


 その手でギュッとボタンを握りしめる。


「やはり、もらっておくことにしようか。 君の力に是非ともあやからせてもらおう。君のように上手くできる事を願って、な」


 じっと未来を見据えながら述べる先輩の姿は、やはりとても美しかった──。


 中原先輩に最後の別れを告げ、ぼくは帰り道をトボトボと歩きながら考えていた。


 探偵なんてくだらない。


 とは、もう思わない。


 ぼくにとって探偵はもう、くだらないものではなくなっていた。だけど今回の騒動でぼくは黒幕として感謝され、黒幕として模倣され、黒幕として必要とされていた。


 中原先輩にとってぼくの行動は、きっと逃げ道に見えたのだろう。正しくはないのかもしれないけれど、がんじがらめになっていた先輩が見出した、唯一の希望の光。


 逃げ道のない心は簡単に壊れてしまう。だったら黒幕も、そう悪いことばかりじゃない。必要とされる事だってあるのだ。


 いずれは探偵に戻るのだとしても、もうすこしこのままで。黒幕のままでやれることをやってもいいかもなと思った。せめて先輩が戻ってくる、その日くらいまでは。


 悩みのタネならもうひとつあった。


 さて、鬼柳ちゃんにはどう説明したものだろう。紗奈先輩と呼んでいたんだもの。きっと名前の由来について、中原先輩から聞かされてはいなかったのだろう。


 先輩の引っ越しを知っているのかすら怪しい。ぼくが説明しなきゃダメだろうか? それにたぶん、まだ怒っているだろうし。


 まったく、困ったものだね。


 ふうと息を吐きながら、空を見上げる。そこには空を駆けていく怪盗も、空から降ってくる女の子もいなかったけれど、代わりに桜の花びらがヒラヒラと舞っていた。


 寒い寒いと思っていたけれどもうすっかり春だ。うっすらと日も差してきている。なんだ、今日はいい天気じゃないか。ぼくはそっと、マフラーを外した。


 季節は春。出会いと別れの季節だ。新たな謎や事件に出会えるかもしれない。それに、あまり期待もしてないけれどさ。新しい黒幕にも出会えるかもしれないしね。


 ……期待のしすぎだろうか?

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