第13話

― 好きなものを好きと言える事がどんなに羨ましかった事でしょうか。


自覚したのは、中学 1 年生の夏。

 いつも僕が目で追うのは、異性ではなく、同性だという事、そして、それは"普通"とは違うという事を知りました。 そもそも"普通"とは何?という哲学めいた思考が脳内をぐるぐると巡り、悶々とした日々を送った結果、これは"隠すべき事項"という結論に至りました。


 僕は、奥手で地味な性格。

 友人関係の構築にも人一倍苦労しているのに、恋愛なんて…。

 ましてや、相手が同性だなんて、天地がひっくり返っても成就なんてしない。

 だから、人を好きにならない努力をしていました。

 叶わない恋なんて、何の意味もありませんから。

 でも、高校生になった頃、根暗な僕に話し掛けてくれた男子がいました。

 その人は、サッカー部に所属していて、性格も明るくて、友達も多い人。

 僕に話し掛けたのは、単純に席が隣だったというだけの理由だと思います。

 それでも、僕は嬉しかった。

 人から話しかけられる事なんて滅多にない僕にとっては、とても嬉しいことだったのです。

 「教科書を忘れたから見せて」と言われたときは、机を繋げて教科書を広げました。

 「字、綺麗じゃん!」と言われたときは、何と言っていいかわからず黙り込んでしまいました。

 ピアノを習っている事を言ったときは、「すげぇな!」と肩を叩かれ、嬉しくもあり、恥ずかしくもあり、自分でも驚くほど赤面してしまいました。

 彼と話が出来る時間はかけがえのないものであり、惰性で過ごしていた筈の学校生活を楽しいと感じるようになりました。

 朝が弱い事、焼肉が好きな事、お刺身が嫌いな事、サッカーは小学生の頃からやっている事、汗っかきで悩んでいる事。どんな些細な内容でも彼の事を知れるのが嬉しくて、もっともっと知りたくて、知った事を指折り数えていました。

 帰宅後も、ピアノを弾いているときも、食事中ですら、気付けば彼の事を考えてしまっていました。まるで自分が自分でない様で怖くなってしまう程のこの感情の正体、暴くのに時間はかかりませんでした。

 でも、想いを告げる事なんてできません。

 ただこうして、隣で話が出来るだけでいい、授業中にこっそり彼の横顔を盗み見る事ができればいい、自分にはそれだけで充分と、そう思っていました。

 しかし、そんなある日、彼に恋人が出来ました。

 サッカー部のマネージャをしている、とても綺麗な女性でした。

 彼は、「彼女できたよ!」と笑顔で写真を僕に見せてくれました。

 僕は、精一杯の笑顔を作って祝福しました。

 わかっているつもりでした。

 彼は明朗闊達なクラスの人気者です。

 いつか恋人が出来る事なんて火を見るよりも明らかな事でした。

 それでも、いざそれを知ると、僕の心は張り裂けてしまいそうだった。

 悲しくて、胸が苦しくて、今にも泣き出しそうな自分に驚きました。こんなにも彼の事を好きになっていたなんて。

 例え様のない寂寥感に苛まれた僕は、この日、生まれて初めて体調不良を偽り、学校を早退しました。彼の近くにいるのが辛過ぎて、死んでしまいそうでした。

 でも、家には帰らず、長い間、近くの河原に腰を下ろしていました。

 彼は、僕の気持ちには全く気付いていません。

 それは至極当然の事です。

 なぜなら、僕が男だから。

 僕が彼の事を好きだなんて、想像さえもしていないのだから。

 自分が異性愛者だったなら、きっと想いを告げる事が出来たのでしょう。

でも、自分は同性愛者だから、それは出来ない。自分が傷付くのも嫌だったし、彼を困らせるのはもっと嫌だった。

 僕は、膝を抱え、小さく蹲りました。


 帰りたくなかった。

 現実から逃げたかった。

 一人になりたくなかった。

 誰でもいいから…側にいて欲しかった。



 日が暮れても、僕はその場を動きませんでした。

 何をする気力もなく、登録しただけで殆ど見ていなかったTwitterを何となく開きました。

 ピアノの音色を聴きたくて、Twitterでピアノを演奏している動画を検索しました。

 男爵さんの演奏を聴いたのは、この時です。

 クラシックしか聴いてこなかった僕にとって、邦楽のピアノ演奏というのは随分新鮮に聴こえました。

 その音色は、今まで聴いた事のないものでした。

 スマホから聞こえたそのアップテンポなメロディは、ポップコーンのように弾けたかと思えば、甘く優しい味が広がる。そんな音色でした。

 メロディに感情が乗っているようで、温かく優しく、傷付いた心に染み込んでいく。心の傷が少し癒えていくような気がしました。

 弾いている人は、きっと心優しい人だろうなと思いました。

 誰かと話をしたかった僕は、勇気を出して、男爵さんにメッセージを送りました。

 それから、男爵さんとやりとりをする様になりました。

 男爵さんと初めて会った時、実は、それなりに緊張していましたが、男爵さんは、明るくて、楽しい方で、少し抜けているところもあって、一緒にいて安心できました。

 お昼ご飯にラーメンに連れて行ってもらったり、誰も興味を持たない天文学部の話を聞いてくれたり、誕生日にわざわざプレゼントをくれたり、男爵さんは想像通り優しい方でした。 

 失恋した当日は何も手につかなかったのですが、男爵さんのお陰で少しずつ立ち直ることが出来ました。

 学校では、席替えがあり、彼とは、会話をする機会が減りました。

 でも、それでよかったと思いました。これ以上、辛い思いをしたくはありませんから。

 それでも、僕はまだ彼の事が好きでした。

 だから、つい遠巻きに彼を見てしまうのですが、それくらいは許して下さい。そう神様にお願いをしました。

 そんなある日、ピアノの先生から、コンクールのお話を頂き、挑戦する事にしました。

 そのコンクールに、男爵さんもお誘いする事にしました。男爵さんのピアノに僕の心は救われたので、僕もピアノでお礼をしたかったのです。その事もあって、僕は、より一層ピアノの練習に励みました。


 コンクールの前日の放課後、掃除当番を終えて、帰ろうとしたところを、数人の女子生徒に囲まれました。

「君さ、何でいつも私の彼氏の事見てるの?」

 真ん中にいた女子生徒がそう言いました。そう言われ、その人が例の彼女である事に気付きました。

「ねぇ、黙ってないで何か言ったら?いつもじーっと私の彼氏の事、見ているじゃない。」

 彼女は、"私の彼氏"を強調して言いました。 僕は、そんなに彼の事を見ていたのか考えました。

 きっと、無自覚のうちに彼を目で追っていたのでしょう。

 自分で思うよりも沢山、彼を見ていてしまったのでしょう。

「席が隣同士の時も随分仲良くしてたみたいだけど、君みたいな根暗な人と私の彼氏は住む世界が違うんだからね。」

 彼女は立て続けに言いました。

 これには、さすがの僕も癇に障りましたし、あの彼の恋人がこんな人だなんて、やるせない気持ちになりました。

「ねぇ、もしかして彼の事好きなの?」

 彼女が両腕を掌で擦り、わざと寒そうなアクションを取りながら言いました。

「…だとしたら、何だと言うのですか?」

 あまりに頭に来てしまい、思わず言ってしまいました。

 次の瞬間、瞼に鈍い痛みを感じました。眼鏡がカシャンと音を立てて床に落ちました。

 彼女が、持っていたペンケースを僕に投げつけたのだと気付きました。

 瞼が切れて、少し血が出ており、僕は掌で抑えました。

「キモい!二度と彼に近付かないで!」

 彼女はヒステリックにそう叫ぶと、ペンケースを拾い、他の女子達とその場をあとにしました。

 教室には、僕一人がぽつんと残されました。

 痛かった。

 瞼の傷が、ではありません。

 心が痛かった。

 男性が女性を愛すように、男性が男性を愛してはいけないのでしょうか。

 僕は人を愛してはいけないのでしょうか。


その日の夜、男爵さんにコンクールのチケットを渡しました。

 何だか、男爵さんも元気がなさそうでした。

 あんなに明るい人でも、僕と同じように何かに悩んだりするのかな。

 そう思うと、何故か少し安心しました。


 コンクール当日は、いつも以上にピアノに集中する事ができました。

 前日にそんな事があったから、ピアノ以外の事を考えたくなかったのかもしれません。今までで一番良い演奏ができたと思いました。

 コンクールが終わって、男爵さんと話をしました。

 男爵さんのピアノに救われた事を伝えたら、男爵さんから逆にお礼を言われてしまい、驚きました。

 でも、凄く嬉しかった。

 こんな自分にも存在意義があるように思えたのです。

 僕達は、知らず知らずのうちにお互いに足りない物を与え合い、補い合っていたのかもしれません。

 そんな存在に出会えた事。

 自分が誰かにとってそんな存在になり得た事。

 その事が何より嬉しく感じました。

 僕は、この先も性の事で悩むでしょう。

 でも、男爵さんと出会えた事で、僕は少し強くなれました。

 男爵さんと出会えて良かった。

 ありがとう、男爵さん。

 男爵さんの事、好きですよ。まぁ、タイプではありませんけどね。


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