第12話

そして、少し考えてから、俺は小さく口を開いた。

「イオリ、ごめんな。俺、本当はピアニストじゃないんだ。」

「え…?」

 イオリの驚きの表情を見たのは、恐らくこれが初めてだろう。

 大きめな目を更に見開いて、俺の方を見た。

「ごめん。俺、ピアニストじゃないんだ。」

「繰り返さなくても聞こえましたよ。」

 驚いた表情をしながらも、イオリは相変わらず冷静だった。

「はは、俺、イオリのそういうところ、好きだな。」

「そういうところとは?」

 イオリは本当に分かっていないようで、小首を傾げていた。何だかイオリといると悩み事を忘れてしまう。本当に不思議な子だ。

「俺はただのサラリーマンだよ。システムエンジニアをしている。毎日遅くまで働いて、正直、辛いことばっかりでさ。命令された通りに必死で仕事をして、そこに自分の意志はなくて、気付けば 1 日が終わっている。何の楽しみもなく、充実感のない日々を過ごしているんだ。」

 今度はイオリが話を聞く番になった。

 イオリは、無表情で相槌も打たないから、聞いているのかわからなかったが、俺は話を続けた。

「ピアノは小さい頃からやっていた。高校時代はイオリと同じで音大を目指していた。けど、不合格だったんだ。凄く落ち込んだよ。音大を出てピアニストになる事が夢だったからね。」

「諦めて…しまったのですか?」

「あぁ。俺自身は諦めたくなかったけど、経済的に浪人は出来なかったからな。残念だけど諦めた。それからは、何の目的もなく、何となく大学生活を送って、何となく就職をして、何となく毎日を過ごしてるよ。だから、イオリに『ピアニストですか?』って聞かれたときに、そう思われた事が嬉しくて、つい嘘をついてしまったんだ。本当にごめん。」

「男爵さん…。」

「イオリ、俺はイオリに感謝しているんだよ。イオリは俺にお礼をしたかったって言ってくれたけど、俺の方こそイオリにお礼を言いたかった。イオリが、純粋に、真っ直ぐに、ピアニストという夢を目指している姿に、俺は感化されたんだよ。今日の演奏なんて、あまりに素敵で、思わず泣いちゃったよ。今だって、イオリが俺の演奏で心を救われたって言ってくれた事が、凄く…凄く嬉しいんだよ。こんな俺に自信を与えてくれる。このままじゃ駄目だって奮い立たせてくれる。どれだけお礼を言っても足りないくらいだよ、イオリ。」

 俺は、一気に気持ちを伝えた。

 本当に感謝をしたいのは俺の方。

 それを伝えたかった。

 程なく、イオリは口を開いた。

「男爵さんがピアニストかどうかは、僕にとっては些細な問題です。男爵さんの演奏が僕の心を救ってくれた。それだけが真実ですから。」

「イオリ、また泣かす気かよ。」

 思わず目頭が熱くなってしまった。

 こんなに人から感謝されたのは、いつぶりだろう。

 こんなに嬉しい思いをしたのは、いつぶりだろう。

 俺のピアノが誰かのためになっていたなんて。

 高校時代、ピアノを弾いてクラスメイトに褒められたときの気持ちをふと思い出し、感情が溢れそうになるのをぐっと堪えた。

「なぁ、イオリ。聞いてもいいか?」

「何ですか?」

「さっき、生きるのが辛いと思う程、悩んでいたって言ったろ。自分は人と違うのかなって。あとさ、金曜日に会ったときも、何か元気なかっただろ?怪我していたけど、転んだなんて嘘なんじゃないかって気がするし。その辺のこと全部、同じ悩みによるものなんじゃないのか?何にそんなに悩んでいたのか、良かったら教えてくれないか?俺が相談に乗れる事があれば力になりたい。」

 俺の言葉に、イオリは少し考え込んでから短く簡潔に言った。

「秘密です。」

「お、おま…!今のは相談する流れだろ。」

「そうですね、男爵さんになら相談してもいいかなとも思ったのですが、僕は今、男爵さんのお陰で、前を向けそうなんです。」

「イオリ…。」

「男爵さんの演奏もそうですし、今も男爵さんにお礼を言われて、こう見えても、僕はとても嬉しく思っています。相談する前に男爵さんが解決してくれたのです。だから、相談する必要がありません。」

 イオリは少し照れているのか、顔を伏せていたが、話し終えると俺の顔を真っ直ぐ見た。

 その顔は、いつもの無表情ではなく、はにかんだ様な笑顔だった。

「イオリ、お前やっぱり笑顔が似合うよ。」

 そう言うと、イオリはまた照れたのか目を伏せてしまった。

 俺達は、知らず知らずのうちにお互いに足りない物を与え合い、補い合っていたのかもしれない。

 ただの暇潰しで作った "裏アカ" がこんな素敵な出会いをくれたなんて、人生はわからないものだ。

「お、雨、止んだみたいだな。雨上がりの匂いがする。」

 話に夢中になっていて気付かなかったが、いつの間にか雨が上がっていた。

 するとイオリが小さな声で言った。

「ペトリコール。」

「ん?何だ?何かの呪文か?」

「雨上がりの匂いの名称です。雨に濡れた地面や植物が発する匂いなのだそうですよ。」

 そういって、イオリは深呼吸をした。

 俺もつられて深呼吸をする。

 どこかノスタルジックな湿った匂いが鼻を突き抜けて行った。

「あ、虹が見えるぜ。」

 俺は傘をたたみながら、指差した。傘に隠れて見えながったが、遥か上空に小さな虹が掛かっていたのが見えた。

「わぁ、本当だ。初めて見た!」

 イオリは珍しく、年相応の少年らしいリアクションをした。目を輝かせ、虹を見つめる。

 俺がニヤニヤしながらイオリを見ている事に気付き、恥ずかしくなったのか、「コホン」と咳払いをし、こう言った。

「 L'Arc ~ en ~ Ciel ですね。」

「え?」

「フランス語で虹っていう意味だそうですよ。」

 そう言って、イオリは、したり顔をした。

 今日のイオリは随分と表情豊かだ。

 俺とイオリは暫しの間、同じ虹をじっと眺めていた。

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