第11話

日曜日、俺はコンクール会場にやってきた。この日は、土砂降りだった。ただでさえ気持ちが沈んでいるのに、正直、外に出るような気持ちにはなれなかったが、せっかくイオリが誘ってくれたのだから、行かない訳にはいかなかった。それに、何より、イオリの演奏を聴いてみたいと思っていた。

 館内に入る。10 代向けのコンクールのようで、ホール内には、ご両親と思われる 30 代後半、40代くらいの方々が多かった。

「男爵君。」

 後ろから声を掛けられ、振り返った。

「あ、イオリのお母さん。」

「来てくれたんやね。ありがとう。」

 イオリのお母さんは、ニコッと笑顔を浮かべてそう言った。

「あ、いえ。こちらこそお誘い頂いてありがとうございます。」

「ぷっ、なんや、相変わらず固いなぁ。まぁその辺に座ろうや。」

 イオリのお母さんは相変わらずの陽気さで、近くの座席に座った。本当に、イオリとはキャラが違い過ぎて驚いてしまう。

「せっかくの晴れ舞台なのに、雨なのが残念ですね。」

「私も伊織に同じこと言ったんよ。そしたら、『心が落ち着くから雨の方が好き』って言ってたわよ。変わった子よね。」

イオリのお母さんは可笑しそうに笑った。なんだかイオリらしい発言だなと僕は思った。

「イオリは緊張していましたか?」

「全く緊張しとらんで。あぁ見えて肝が据わっとるみたいやで。」

「そこは、お母さんに似たんですかね。」

 そう言ってから少し失礼な発言だった事に気付き、「すいません」と慌てて謝った。

「はは、何で謝るんや。男爵君の言う通りやで。あの子は、性格は私には似なかったけど、度胸だけは据わってんねや。そこは私に似たんやなぁって嬉しく思っとるで。」

 俺は、イオリのお母さんの明るい性格にホッとする。

「男爵君、元気あらへんな。何か辛い事でもあった?」

 イオリのお母さんが俺の顔を覗き込むようにして言った。

「そんなに元気なさそうに見えますか?」

「負のオーラ出てるで。」

「…親子揃って同じ事を言うんですね。」

「うちら、そういうのには敏感やねん。」

 イオリのお母さんは、「隠したって無駄やで」とでも言いたげにドヤ顔を浮かべた。

「仕事、向いてないんじゃないかって悩んでいるんです。」

「ピアニストのお仕事?」

「は、はい、まぁ…」

 俺は煮え切らない返事をした。もうピアニストという設定を貫き通す事にあまり意味を感じなくなってきていたが、色々と説明するのが面倒で、何となくそのままにすることにした。

 そういうところが、自分の良くないところだとわかっているのに。

「季節と同じよねぇ。」

 イオリのお母さんが物思いに耽るように言った。

「季節…ですか?」

 何の事かわからず、俺は聞き返す。

「そう、季節。日本では、夏は暑くて、冬は寒い。夏が寒いなんて事はないやろ?」

 俺は頷き、話の続きを待つ。

「人生もそれと同じやねん。悩んだり、迷ったり、うまく行かないときは、そういう期間なんやで、きっと。寒い季節は、どう足掻いても寒いまま。辛い時期はどう足掻いても辛いまま。でも、そういう時期もいつかは終わる。冬に積もった雪が春に溶けるのと同じや。」

 イオリのお母さんは、黙って話を聞く俺の顔をじっと見た。

「知ってた? " 少し止まる " って書いて " 歩く " になるんやで。焦らず、自分を見つめ直したらええで。まだ 20 代の若者なんやから。人生はこれからやで!」

 イオリのお母さんは、俺の肩を叩いて励ましてくれた。イオリのお母さんの言葉は、琴線に触れるものがあった。

 親子で性格は全然違うのに、こういう所はちゃんと親子なんだなと感じた。 2 人とも温かい優しさを持っている。


 暫くすると、開演のブザーがなり、照明が薄暗くなった。

「イオリは何番目なんですか?」

「それがな、トップバッターやねん。」

「え!?」

  1 番最初かよ。流石に緊張しているんじゃないのか、と何故か俺の方が緊張してきてしまった。

 司会が挨拶をすると、イオリの名前を呼ぶ。

すると、スーツに身を包んだイオリがステージ上に現れ、お辞儀をする。 そして、背筋をピンと伸ばし、ピアノに向かって一歩一歩進んでいく。

 緊張はしていないように見えた。イオリのお母さんが言っていた通り、肝が据わっていると思った。 ピアノに腰掛けると、少しの間があった。イオリのタイミングで演奏を始めようとしていたのだろう。

 ホールを静寂が包む。 イオリがゆっくりと鍵盤の上に指を置き、演奏を始めた。

 イオリがピアノを弾き始めた瞬間、俺はハッと息を飲む。驚く事に、ホール内の空気が変わった。

 ステージ上のイオリとピアノだけが茜色にキラキラと輝いているように見えた。

 ポロン、ポロン、と館内に響く音色。何の色にも染まっておらず、混じり気のない。寂しげで、儚げで、それでいて力強く透き通った音色。

 イオリは俺のピアノの音色を「優しい」と言ったが、イオリのピアノの音色は、何と言うのだろう。「透明」という単語が一番しっくりくる。こんなに心安らぐピアノを聴いたのは初めてだ。

 1音たりとも聞き逃したくなくて、思わず体が前のめりになる。

 俺の耳から入り込んで、全身を巡る音色は、やがて、俺の心に優しく触れてくる。

 音色が心に触れるなんて、我ながら何を言っているんだろうと思う。でも、本当にそうとしか表現の仕様がない。 イオリの奏でるメロディは、まるで透明な水の様に体内を流れる。

 心が洗われるとはこういう事を言うんだな。

 音色で作られた透明な水は、僕の体内で強く、それでいて緩やかに流れる川となる。 " 後悔 " 、 " 諦観 " 、 " 無気力 " 、俺の心を支配していたいくつもの想いが洗い流されていくのを感じる。

 ツーっと 1 筋、涙が溢れるのに気付いた。

 驚いた。

 泣いていたのか。

 涙が勝手に流れるなんて初めての体験だ。

 一体何年振りだろう。涙を流すなんて。

 あぁ、そうだ。

 最後に泣いたのは、あの日。

 音大の試験に落ち、ピアニストの夢を諦めたときだ。

 部屋の隅っこで布団をかぶって、体を震わせ泣いていた自分の姿が、昨日の事のように鮮明に思い出された。

 ポタポタッと涙が次々と溢れ出した。俺は慌てて、両手で涙を拭う。

 「ずっと我慢していたんだね」と、どこからか声が聞こえた。

 それは耳からではなく、心に直接届く声。イオリの奏でる音色が、俺の心に問いかけているのだ。

「…っ、く…」

 漏れそうになる嗚咽を必死で堪えた。

 本当は気付いていた。

 自分の気持ちに。

 音楽が好き。

 ピアノが好き。

 夢を諦めたくない。

 彼女と別れた時だって、本当は、別れたくなんてなかった。

 仕事だって、これが自分のやりたい事ではないと、本当は気付いていた。

 いつからか気持ちに蓋をして、鍵をかけて、見ないふりをして、気付かないふりをして生きるようになっていた。

 満たされないまま、時間だけが流れていた。でも、イオリに出会った。

 イオリの真っ直ぐで純粋な人柄に触れた。

 そして今、イオリの演奏を聴いた。

 耳ではなく心で聴いた。

 その演奏は、俺の心の鍵を開けて、蓋を開く力をくれた。

「このままじゃ…ダメだよな…。」

 俺は誰にも聞こえないような、小さな声でそう言った。

 俺もちゃんと向き合おう。自分に。

 もう、無気力に生きるのはやめよう。心に正直に、生きていこう。


演奏が終わり、俺とイオリのお母さんは、入り口の辺りでイオリを待っていた。

 ホール内は人でごった返しており、大きな声を出さないと会話もままならない程だった。暫くすると、イオリが僕らの方へ歩いてくるのが見えた。

 演奏を終えた子達が、次々と親御さんのもとに駆け寄っていく中、イオリだけは、マイペースにゆっくりと歩いてきた。

「伊織!よかったで!」

 イオリのお母さんが大きな声で言うと、イオリの肩をパンパンと叩いた。

「母さん、声が大きいよ…。あと痛い。」

 イオリは相変わらずの無表情でそう言った。

「イオリ、凄く良かった。感動したよ。」

 俺もイオリに賞賛の言葉を伝えた。

「男爵さん、ありがとうございます。」

 イオリはペコリと俺に頭を下げた。

「よし、じゃあ私は先に帰るから。」

 イオリのお母さんが言った。

「え、イオリと一緒に帰らないんですか?」

 俺は驚いて聞き返した。

「伊織が男爵君と話がしたいんやって。それに私は晩御飯の支度もあるしね。じゃあ男爵くん、また。」

 そう言うと、イオリのお母さんはそそくさと行ってしまい、俺とイオリはその場にポツンと残された。

「イオリ、話って何だ?」

 俺はイオリに聞いた。

「その前に、外に出ませんか。ここだと騒がしくて…」

「あぁ、それもそうだな。」

 俺とイオリは外に出た。雨が降っていたので、傘をさして、人の少ない場所へ移動した。

「男爵さんにお礼を言いたくて。」

 歩きながら、イオリが言った。

「お礼って?何の?」

 俺は、聞き返した。

「男爵さんがツイートしていたピアノの演奏に対してのお礼です。」

 イオリが答えた。

「それって、 " 弾いてみた" の動画の事か?」

 それは、俺とイオリが知り合うきっかけになった動画だ。俺が聞くと、イオリは立ち止まり、俺の方を見て言った。

「はい。僕、その時、とても苦悩していました。自分は、他の人とは違うのかなって。生きているのが辛いと思う程、思い悩んでいました。」

「え…」

 思いがけないイオリの言葉に俺は驚く。イオリは続けた。

「元々、Twitterは友人に勧められて登録しただけで、殆ど見ていませんでした。でも、その日は何も手につかなくて、Twitterを開いて、他の人がピアノの演奏をしている動画をぼんやりと検索していたんです。」

 俺はイオリの顔を見ながら、話の続きを待った。

「そうしているうちに、男爵さんの動画が目に止まりました。男爵さんの演奏、とても温かくて、優しくて、心を…僕の心を救ってくれました。 深い海に沈んでいく僕の心を、そっと救い上げてくれたんです。」

 イオリは、広げた掌を自分の胸にあてて言った。

「イオリ…。」

 俺は何も言えず立ち尽くす。イオリがそんな風に思ってくれていたなんて、想像もしていなかった。

 イオリは、静かに続けた。

「だから、お礼をしたかったのです。でも、ただ言葉で伝えるだけでは足りなかったので、僕の演奏を聴いて頂きたいと思いました。だから、今日のコンクールにお誘いしました。拙い演奏でしたけど、僕の精一杯のお礼です。」

 イオリは俺の目を真っ直ぐに見て言った。

 少し唇が震えているように見えた。

「イオリ、ありがとう。拙くなんてない。素敵な演奏だったよ。本当だ。招待してくれてありがとう。」

 本心だった。イオリの演奏はとても素晴らしかった。心を洗われる感覚すら覚えたのだから。

「…本当ですか?」

 イオリが恐る恐るといった様子で俺に問いかける。さっきから、何故そんなに俺の顔色を伺っているのだろう。

「嘘言ってどうすんだよ。すげー良かったよ。」

 俺は、すぐにそう答えた。

「そうですか。ホッとしました。」

「何でホッとしたんだ?」

「やはり、ピアノストを前にして演奏をするというのはとても緊張しますから。プロの料理人に対して料理を振る舞うような感覚ですね。」

 そういう事か。まぁ、それはそうだよな。

 俺の事をピアニストだと思い込んでいるイオリからしたら、そういう感覚にはなるよな…。

「その割に、ステージ上では緊張しているように見えなかったけど。」

「演奏中は、集中しているので平気なのですが、終わってから急に緊張してしまうのです。」

「そういうもんなのかな。」

「僕だけかもしれませんが。」

 イオリから先程の緊張の色が消え、相変わらずの無表情に戻った。

 それが少し可笑しくて、思わず笑いそうになった。

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