第10話

全てが完了し、ようやく帰宅許可が出たのは、翌日の夜 7 時頃だった。ほぼ 1 日中、不眠不休で働いていた事になる。

 俺は、上司や同僚に何度も頭を下げた。 みんな「気にするな」と言ってくれたが、その優しさが逆に辛かった。

 自分の小さなミスのせいで沢山の人に迷惑をかけてしまった。具体的な額は聞いていないが、それなりの損害もあった筈だ。 情けなかった。俺は、すっかり自分に自信を失くしてしまった。

 帰宅しても、疲れているはずなのに眠れなかった。

 布団を頭からかぶり、零れそうになる涙を必死で堪えていた。


 それから数日、雨の日が続いていた。

 障害の件は徐々に収束していったが、俺は、屍のような状態で、無心で日々の仕事をこなしていた。会社に行くのが怖くて、毎晩眠れなかった。俺はもう何も考えられずにいた。

 イオリから連絡が来たのは、金曜日だった。話したいことがあるから、夜会えないか?との事だった。

 正直、人と会う気分ではなかったから断ろうと思っていた。だが、家に帰ったところで一人考え込んでしまうだけだし、イオリが話をしたい事というのが少し気になり、会う事にした。

 仕事を終えて、イオリの最寄り駅で待ち合わせをした。

 俺が改札に着くとイオリは既に居た。だが、少し様子が変だった。

 俯き加減で、どうも元気がなさそうに見えた。

「イオリ、お待たせ。」

「あ、男爵さん…」

 声をかけられて初めて俺を認識したようだ。

 目が合って、俺は驚いた。

「イオリ…、お前、眼鏡どうした?それに、瞼のところ、怪我したのか?」

 イオリは眼鏡を掛けていなかった。そして、瞼に絆創膏を貼っていた。

「ええと、ちょっと転んでしまって、眼鏡を壊してしまったのです。瞼の傷もそのときのものです。今はコンタクトをつけています。」

 イオリは、まるで事前にこう答えると決めていたかのように、不自然な流暢さで言った。

「イオリ、何か様子が変だぞ?元気もなさそうだし」

「…そう言う男爵さんこそ、元気がなさそうですよ?」

 イオリに逆に突っ込まれ、俺はギクリとしてしまう。

「そ、そうかな?」

「はい。負のオーラが漂っていますよ。」

「イオリ、人の事、言えないぞ?」

「…そうですか?」

 俺ら 2 人は、お互いに自覚がないだけで、周りから見たら、お葬式の帰りのような雰囲気を醸し出していたのかもしれない。

 イオリは何故か俺の顔をじーっと見ていた。

「俺の顔、何か付いてるか?」

 俺はイオリに聞き返した。

 眼鏡をかけていない、少し見慣れないイオリの瞳。綺麗な目をしているんだな、と思った。

「男爵さん」

 イオリは小さく口を開いた。

「ん?」

「…僕は、人を好きになったらいけないのでしょうか…?」

 イオリの口から飛び出した思いがけない言葉に、俺は驚く。何と言うべきかわからず、俺は黙りこくってしまう。

 ザーッという雨音だけが聞こえた。

「イオリ…、一体何があったんだ?」

 暫くの沈黙の後、やっとの思いで俺はそう言った。

 すると、イオリはそっと顔を伏せてしまう。イオリの表情は見えなかったが、華奢な肩が小刻みに震えているように見えた。

「イオリ…。」

 俺はイオリの肩に手を置こうとしたが、その前にイオリが言った。

「すいません。忘れて下さい。それより、話というのはこれです。」

 イオリは顔を伏せたまま、俺に 1 枚のパンフレットを手渡してきた。開いてみると、ピアノのコンクールのパンフレットだった。

「僕、これに出場します。」

「え、そうなのか?すごいな。」

「いえ、そんなに大きなコンクールではありませんので。男爵さん、良かったら観に来て頂けませんか?」

 俺は、パンフレットに目を落とし、コンクールの日付を確認した。

「次の日曜日か。うん、特に予定もないし、観に行くよ。」

「ありがとうございます。」

 そう言うと、イオリはチケットを手渡してくれた。そして、イオリはそそくさと帰宅する準備を始める。

「なぁ、イオリ、話ってこれだけか?さっきのは…?」

「はい、話はこれだけです。先程の件は、気にしないで下さい。何でもありませんから。すいませんでした。」

 イオリは相変わらずの無表情で言い、ぺこりと頭を下げる。

「いや、謝る事はないけど…。」

 俺は、それ以上を追及する事はできなかった。


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